二三年四月で記憶に残ったこと

梅木仁蜂

第1話

 一年ではなく一年度というのが四月から始まるものでよかったと、私は思う。

 四月の気温、湿度、天気の具合、陽光の明るさは、身体の調子を整えてくれる。「全部気圧のせい」なんてネットスラングもあるくらいで(あったよな?)、気温や湿度など、自然の状態はそのまま身体の調子、メンタルバランスに影響する。


 三月は駄目だった。四月より寒いし、桜が元気すぎる。『桜の森の満開の下』が怖い。

 桜という活性化した大自然の下で、人は羽目を外しすぎる可能性がある。私はそういう、フィジカルとメンタルの直結が著しく、自分をコントロールできない質なので、三月は駄目人間だった。

 不規則な生活リズム、栄養の偏った食生活(三食に加え、間食が多かった)、引きこもりゆえの運動不足。春休みということもあり、ネットサーフィンに耽って、ちっとも理性的に生活できていなかった覚えがある。

 それでも、太陽という自然の時計の針が進んだことで、「よし、まともに生きるか」と私は思った。


 さて、前期の授業が始まってから一ヶ月が経ったけれど、この一ヶ月はちゃんと私の記憶に残っている。記憶に残るということは、覚えるに値しない無意義な学生生活ではなかったということだ。

 時系列順に、記憶に残った出来事を列挙しよう。エッセイというより、日記みたいである。


 まず、最初に記憶に残ったのは「ナントカ国語学」という科目の担当教員の評判の悪さだ。

 これは、教員の性格というより、国語学という分野と学生の相性の悪さが教員の評判を落としているような現象だと思う。


 国語学は、ざっくり説明すると、現代語古語を問わず、日本語のルーツを探る分野だ。ルーツを探るには用例を調べる必要があり、用例採取対象は、小説や随筆のみならず、日常生活、教科書、公的文書など多岐にわたる。

 集めた言葉をエクセルでカウントして分析するので、私の所属する学科では、いっとう数字にうるさい分野だ(本当は全ての学問分野が数字という名の論拠にうるさくあるべきだが、うるさく言わない学問分野は存在する)。

 教員も当然、論理的思考や客観的証拠を重んじ、ガイダンスで口酸っぱく、「評価に値するリアクションペーパー、レポートとは何か」「駄目なリアペの例」を語る。


 このガイダンスの時点で、教員を嫌っている一年がいた。

 この科目は一年の必修科目で、私は再履修組。単位を落としている私が言えることじゃないが、こんな説明で「嫌い」だの「ムカつく」だの言っている一年に、私は寧ろ、ムカついた。

 一年たちが先生に苛ついた理由は分かる。「〜と思った、感じたなんて感想めいたリアペ(レポート)はゴミ」なんて言われたら、今までそういった文章を高校教師に提出してきた身としては、自分が罵られているように感じるだろう。まだどんなリアペを書こうかも決めていないのに、先んじて「ゴミを送るな」と注意されればムカつくだろう。

 あるいは、教員が厳しい口調でガイダンスを行っている時点で嫌悪感を覚えてしまったのかもしれないが。


 しかし、考えてもみてほしい。

 その教員は、何年も国語学に携わってきて、教卓に立っている。その過程で、なんの論証もない、用例を集めて感想を書いただけの「論文もどき」を何度読んできただろう。リアペの時点からそういった研究リテラシーに敏感であるべきなのに、何度、リテラシーに反したリアペを読んできたのか。駄目なリアペを書く学生が、駄目な論文を書いて出してきたこともあったはずだ。

 教員は、そういう評価に値しない文章を嫌というほど読んできているのだ。思い出すと、自然と表情が硬くなるほどに。


 そんな教員の苦労を無視して、嫌悪感を丸出しにする一年に私は呆れた。私も、毎度優れたリアペやレポートを出してきたわけじゃない。しかし、人を嫌いになるのがあまりにも早すぎやしないか。第一印象が悪かったらもう駄目なのか。

 もしかして、これが04年〜05年に生まれた世代の共通点ではないだろうか。

 表面的な態度や口調で素早く人柄を断定し、不快なものを遠ざけがちな感じ。スマホに生活を支配されている世代なので、この即決即断さは納得だ。

 名付けて、『Z世代、国語学の授業にて、秒で好悪を決す』。これが学期はじめに印象に残った出来事だ。


 続いて、印象に残った出来事はフランス語の授業である。これは印象に残ったというより、マイブームに近いだろう。


 フランス語の授業は、学年が上がって、クラスが変わっても、私がよく褒められた。私がよく褒められるので、フランス語の授業が毎回楽しみである、ということだ。

 私が褒められる理由は、どっかのエッセイでも書いたように、クラスの中で、私が一番、堂々としているからだ。

 授業において、名指しで問題の答えを促されたとき。先生が話したフランス語を復唱するとき。私はちゃんと、先生に聞こえるように、大きな声ではっきりと、先生の発音を真似るように喋っている。学習内容が小学生レベルだから、フランス語学習が初めてであること以外、しがらみのない科目だ。そのはずである。


 そんな簡単なことで、私は一番になれている。この事実が浮き彫りにするのが、周りの学生のやる気のなさと、自信のなさだ。

 暇さえあれば友達とべちゃくちゃ喋って、発音がちっとも頭に入っていない。いざ名指しされると、声が小さいし、口をモゴモゴさせている。

 後期に入るともう少し積極的に授業に取り組む学生が出てくるが、フランス語の前期はいつも、こんな感じである。


 こんなことで一番になれても、とは思うけれど、私はこの、皆が怠惰かつシャイな空間で、一人、意欲的に授業に取り組むことに喜びを感じた。自分が他の学生より褒められるのが心地良かった。

 多分、私がひねくれ者だからだ。

 私は、その場の空気を読むことが苦手だし、空気を読んだ行動は取れても、内心では相手の気持ちに全く同調できないことが多い。


 学習内容そのものは簡単なのに、だらける皆を奇妙に思う。自信がないからって、大きな声で発音しない学生の気持ちが、全く理解できない。


 本来、その場の空気を読めなかったり、相手の気持ちに共感できなかったりすることは欠点だと思うが、それらに同調することで、授業において実力を発揮できないのなら、同調する必要はない。

 そういう意味での自分勝手が許されるから、私は、フランス語の授業が好きだ。


 ならば、周りの学生が真面目に授業に取り組めば、私はその空気に逆らって、不真面目に授業を受けるのだろうか?

 それも、フランス語の授業に限っては違う。

 昨年度の外の学生の授業態度を見る限り、彼奴等はどんなに真面目になっても、授業中のお喋りも居眠りもスマホも、絶対やめない(こういう不真面目さが校風の大学だ)。対して、私は名指しされたときと復唱が必要なとき以外、一切喋らないし、スマホは鞄に仕舞っている。

 一番真面目なのは私だ。誇らしいし、楽しい。


 さて、大分調子に乗って他の学生を見下すような発言をしてしまったが、言い訳をさせてほしい。人間というのは、自分と他人とを比べて、無意識に順位付けし、憐れんだり見下したりするものだと、私は思う。

 自分の中に他人を下に見る気持ちが皆無だと喧伝したいのならすればいいけれど、しかし、実際のところ、自分より劣っている人間が地球上にいないわけがない。人間がこんなに沢山いるんだから、自分より下はいるし、比べるまでもなく非常識な人間もいる。


 というわけで、次は私の非常識さがしっかり他人に観測されていた話をしよう。

 今年度前期、履修登録期間が過ぎたばかりの頃、ナントカ研究室から私宛にメールが届いた。私の所属する学科の分野を専攻する研究室からのメールである。

 メールの内容は、今の登録科目数では単位数が足りないことと、昨年度落とした科目を今期履修していないことについて、考え直してほしいというものだった。

 前者は私の単位計算が誤っていただけだけれど、後者は落単しても進級できる科目について、単位修得を勧められたわけだ。

 月曜日の午前中、お時間空いてますでしょうか、なんて丁寧に言われれば、知らんぷりをするわけにはいかない。私は研究室に行って、研究室のナントカさんに、履修登録をし直してもらった。期間が過ぎているので、学生手ずから登録のし直しができないのだ。

 面倒見の良い大学である。学生の民度が下がるわけだ。


 しかし、そうした母校分析とは別に、ナントカさんと話している間、私は恥で脳味噌が沸騰しそうだった。

 認識されている。観測されている。落とした単位を取り直そうとしない自分の雑さを、取らなくても進級できるという楽観的思考を、自分の単位計算を疑わなかった謎の自信を。

 大学生活は一人で勝手に過ごすものだと思っていた。全ての失敗が自己責任で、何をしても誰にも指摘されないものだと。

 

 私はこういう性格なので、他人に放っとかれやすいのだけれど、放っとかれているうちに自分が認識されていないような気になってしまう。

 しかし、本当に認識されていないと思ってしまうのは思考放棄で、つまらないセンチメンタリズムだと思った。当たり前すぎる。


 さて、世の中には私のような局所的落ちこぼれのみならず、多くの人間を視認し、広い視界を保っている人間もいて、うちの大学のN先生(Nはイニシャルではない)はその好例だ。

 私は今年度、選択必修でN先生の担当する科目を履修した。ひとえに、N先生の授業が好きだからだ。


 N先生は昨年度、一年の必修科目で人柄を知ったのだけれど、どう説明したらいいのか……大学の先生として、できる限りノンストレスで生きようとしているように見える人物である。

 専攻分野はSという近代小説家だが(Sはイニシャルではない)、昨年度の授業から察するに、特定の作家一人に焦点を絞って研究するというスタンスの持ち主なのだと、お見受けする。

 最初はその作家の経歴と短編作品を学生に読ませ、学期中盤になると、多くの活字好きが理解を放棄したと見える、その作家の代表作を一部読ませる。授業の尺的に、全部読ませるのは無理なので「一部」だ。読後はクラス内でグループ分けを行い、何かしらプレゼンをさせる。


 至って普通の単体作家オタクに見えるが、N先生の授業の楽しいところは、N先生の喋りにある。

 N先生は砕けた口調でニコニコ喋る人で、授業中は、彼の喋りによって笑う学生が多い。先生の目を盗んで談笑する学生が皆無なわけではないが、先生の話を聞いて、笑っている学生も多いのだ。

 授業で学生を笑わせる。これができる先生は、うちの学科では貴重だ。


 さて、作家の人生を追っていると、今で言うロシアウクライナ問題みたいな、デリケートな社会情勢に触れることもあるだろう。日清戦争が起きて中国に言及しづらくなったとか、政治運動が盛んな時代に感化されたとか。

 その作家がいる環境によって、どちらの思想や国に味方をするべきかが絞られてしまうし、時代が変わった今も、「この勢力に言及したら石を投げられそう」みたいな危機意識は存在するだろう。

 しかし、N先生はそういうデリケートな話を、授業開始時と何ら変わりない、軽妙さを保ったまま、話してくれる。楽しそうに、勢力図に潜む損得勘定やら、同調圧力やらを語る。人が沢山死んだ話を、わざとらしく眉根を寄せて(演出過剰と言えばいいのだろうか)、本当にシリアスな顔はしない。

 先述の国語学の先生みたく、研究リテラシーの話をクソ真面目な顔で話すこともない。リテラシーは守らなければならないけど、それができないなら仕方ないとか、ちょっと面倒だよなとか、とにかく、学生の無知を心得たように話す。

 具体例が多くて冗長になってしまったけれど、N先生はそういう、とっつきやすい喋り方をしてくれる先生である。顔のつくりも優しいし、ガマガエルみたいな腹をした気のいいおじさんだ。

 こういうおじさんが、どの学校にも二、三人はいた方がいい。広い視野を持って、被教育者の無知と幼さを心得ていて、デリケートな話題でも、笑顔の下に冷静さを失わない人間が。

 勿論、こういう先生は往々にして大雑把なところがあるので、N先生みたいなおじさんだらけでも、教育機関として成り立たない。というか、N先生の周りにこんなおじさんがあまりいないから、N先生がそういうおじさんになったのだろう。角が取れ、性格も腹も丸くなったのだ。

 私みたく、周囲と調子を合わせるのが苦手なひねくれ者が、N先生の人柄に惹かれるのも、自然の摂理だった。

 今年度受けるN先生の講義科目も、焦点を当てる作家がM(イニシャルではない)に変わっただけで、授業の空気感や授業スタイルは昨年度と変わらない。フランス語同様、私の一年間の楽しみである。


 脈絡なく話してしまったが、学生生活や日常の中の楽しみに終わりがなくても、四月に終わりはある。最後に、四月下旬に喫茶店に行った話をしよう。


 四月下旬、私は自宅の最寄り駅付近にある喫茶店U(イニシャルではない)に入った。一九年も同じ町に住んでいるのに、美味しい店を一つも知らないのは勿体ない、とふと思ったのだ。四月パワー。

 喫茶店Uは、駅前の、コンビニやらジムやら個人店やらがガチャガチャ並んだ道に建っていた。


 店はとても狭く、扉を開いて右手の壁にレコード棚があり、左手の壁にはチラシがまばらに貼られている。最奥のカウンター周りはゴチャゴチャしていて、何が置かれていたやら、記憶が曖昧だ。

 私は、初めて来た個人経営カフェなら、できるだけ贅沢そうなメニューを選ぶ。別に店を試しているわけではないのだが、高いメニューで満足できなければ、その店は私に合わない店だったんだろうと思うからだ。

 結論から言うと、ケーキセットには満足できなかった(具体的な内容は伏せておく)。私が満足できたのは、メニューそのものではなく、店主であるRさんの接客だ。


 Rさんは、顎と首の区別がつかないくらい脂肪を蓄えた初老の男性だ。

 入店時刻十七時半、他の客の姿はなく、私がスマホ片手にコーヒーを飲んでいると、話しかけてきた。

 Rさんによると、Uは普段、老女たちの談笑の場になっていて、たまに駅付近の大学に通う学生が来るらしい。店内で流すレコードをリクエストできるようだが、Uにどんなアーティストのレコードがあるのか、初入店では全く調べる余裕がなく、リクエストはしなかった。

 『最后のダンスステップ』が聞きたいなあ。邦楽がなかったらどうしよう。

 レコード棚は二度目の入店で物色するとして(初めて来た店で「ゆっくり見てください」と言われてゆっくり見られるようなメンタルは持ち合わせていない)、Rさんとは、


「将来何になりたいの?」

「△△△で働きたいです。文学賞受賞のために、小説執筆の時間を確保したいので」

「なんで小説家になりたいの? あっ、もしかして図書委員やってた!?」


 という流れで、彼の図書委員歴と読書好きの話に繋がった。私も図書委員は務めていたが、そのことと将来の夢とは関係ない。

 寧ろ、私が図書委員を務めていたときは、貸し出し手順覚えられないわ、他の委員と仕事と責任のキャッチボールするわで、最悪だった。司書にも大分いびられた。

 対して、Rさんは立派な図書委員だ。図書だよりやおすすめ図書の紹介文で教師から絶賛されたし、当時のベストセラー『日本沈没』と『ノストラダムスの大予言』の仕入れに教師陣が難色を示した際(「中学生は純文学でも読んでろ!」という教育方針だったとのこと)、どうにか仕入れてもらえるよう、説得したらしい。

 読書好きが高じて図書委員に、という経緯も、漫画みたいだ。本なんて自分で買えばいいだけだしなー、私の場合。


 他にも、Rさんは学生時代、新刊の誤字脱字印刷ミス等を出版社に指摘し、お礼の金券で参考書を買った思い出を話してくれた。一回に貰える金券の額は五百円程度なので、コツコツ貯めて、やっと参考書が一冊買える感じだろう。

 今の出版社は、誤植の指摘くらいでそんな金券は用意できない。時代の違いだ。

 このように、Rさんとは学生生活のエピソードで会話が弾んだ。特に、時代の変化による学生生活の違いが話題に上がった。

 私は私なりに、自分たちの世代を否定的に捉えているのだが、「今はスマホとかあって便利でしょ」などとポジティブなコメントを貰うと、嫌な気はしない。劣等感を飲み込んで、普通に話すことができたと思う。

 実際のところ、「最近の若者」であることの楽しみなんて、あってないようなものだ。

 私は、何も考えない。課題やレポートや自分の次の行動の決定に忙しくて、意義の自覚なんて二の次だ。

 だから、Rさんとの会話では、自分の思考放棄を自覚してしまって、なんとも言えない気持ちになったことも、記憶に残っている。

 喫茶店Uでのエピソードはこれくらいだ。とりあえず、誰かとコミュニケーションが取れるんだから、また行く価値はあると思う。


 一体、何が楽しくて生きてるのか。大学生であることの意味とは。自分の価値とは。そんなことは考えてもしょうがなくて、ただ、私は行動し続けなければならないと思っている。

 これから、気温も気圧も変わってくるから、それによって、メンタルバランスが崩れることもあるだろう。その影響で、学業にも創作にも手がつかなくなったらと思うと、少し怖い。

 今はただ、だらけてはならないとだけ、思った。

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二三年四月で記憶に残ったこと 梅木仁蜂 @Umeki2hachi

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