第48話 関介道場

 1540年 4月


 「おっ、声が聞こえてきた。今日も元気にやってるなぁ」


 「私、暑苦しい事嫌いだから」


 ぶっきらぼうに返事する女性の横顔を、男はにこやかに見つめていた。縁側の二人だが、姿勢よく書物に視線を落とす女性とは反対に、男の方はごろんと寝転がり、枝に小さく咲いた花を楽し気に眺めている。女性が大事そうに持つ書物には、細かい文字がびっしりと記されていた。物語としては、よくある男女の恋愛小説だ。クールに見える彼女だが、意外にも女の子らしい趣味を持っているようで、手元の小説を食い入るように熟読し、時折口元を綻ばせた。

 そういった文学にあまり興味の無い男は、傍に舞ってきた花びらを顔の前まで掬い上げ、ふっと息を吹きかけた。


 「若い衆は元気があっていいなぁ、なあ多恵」

 

 「貴方は参加しなくても……いや、邪魔になるだけか」


 顔を上げそれだけ言うと、直ぐに手元の書物に視線を戻した。身体を起こし、ムッと膨れっ面になる義元。ただ多恵の言い分が完全に正しく、義元は何か反論の言葉をぶつけようと思考を巡らせたものの、結局諦めて首を垂れた。以前一度顔を見せたが、一人だけ直ぐにばててしまった。それ以降義元は、関介に参加の旨を伝えるもやんわりと断られ続けているのだ。当主なら剣の腕を磨けと言ったのはそっちではないか。そう多恵に愚痴ると、心底面倒くさそうな顔で、貴方に教えても時間の無駄だって気が付いたんじゃないのと、中々に厳しい事を言われてしまった。

 不意にいつもより気合の入った、威勢の良い声が聞こえた。二人ははっと顔を上げ、お互い見合わせて言った。


 「元気だな」


 「そうね、元気ね」


 二人は実にのんびりとした口調で言い合った。ゆっくりとした空気を噛みしめるように、義元は空遠くを見上げる。数匹の若い雀が、自由気ままに飛び回っていた。その光景を、義元は目を細めてい押しそうに眺めるのだった。


 爽やかな春風が吹き通る道場にて、青年たちの溌溂とエネルギッシュに溢れる声が響いていた。一人の少年、いや知らない人が見れば可憐な少女を正面に、十人ほどの青年たちが竹刀を振っていた。彼らのむんむんとする汗の匂いは、開け放たれた襖から通る風が、綺麗に入れ替えてくれた。飛び散った汗が彼らの苦悶した表情を映し、正面に立つ少年の「やめっ」という掛け声と共に、安堵の表情に変わった。


 「少し休憩にしようか。休憩後は一対一で打ち合いをしてもらね。僕がそれを見て、足の動かし方や体重の使い方など見るので、各自確認しておくように」


 僕の言葉に、皆ほっと息を吐きその場へしゃがみ込んだ。口々に疲れたな、腕が上がらないと、疲れ切った顔で言い合っている。僕からしたらそこまできつくしたつもりは無いのだけど。僕が慣れてしまっているのか、彼らの体力がないのか。指導役というのも中々難しい。

 僕が彼らの指導役に任されたのは一月末の事。長教くんと手合わせした後、雪斎さんの企みによって旗持ちのまとめ役に任命された。それから暫くして、雪斎さんは十人ほどの農民出身の青年たちを連れ、道場にやって来た。そこで雪斎さんから、彼らの剣の指導をしてくれないかと相談されたのだった。どうやら、連れてきた青年たちこそ、旗持ち部隊のメンバーらしい。年も近い方が、お互い気心も知れて良いだろうと。ただ生まれて刀を持ったことも、見た事も無い人が殆どだった。そんな彼らを僕にどうしろと。

 流石は雪斎さんで、同年代の子を連れてきたことは正解だった。彼らは皆素直に僕の言う事を聞いてくれるし、なりよりやる気や今川家への忠誠心はかなりのものだった。最初は素人同然だった剣の腕も、一か月ほどの指導で見違えるほど上達していた。そのころには、互いに信頼関係も生まれ、今では気を許せる親友のようになっていた。たった一人を除けば。

 雪斎さんが道場に来た日、心底嫌そうな顔をした長教くんも付いてきたのだが、雪斎さんから彼の指導も任されてしまった。まぁ以前そんな事言っていたなと思い出し、大丈夫ですよと二つ返事を返した。すると雪斎さんの背中に隠れていた長教くんが急に目の前に出てきて、僕の方を指さして言った。


 「長教はお前の下に付くわけではないからな! 父上に言われたから、仕方なくお前の稽古に付き合うんだからな! あまり思いあがるなよ」


 別に思いあがってないし、長教くんの上に立とうとも思っていないのだけど。こんなやんちゃ坊主をどう指導しろと。助けを求めるように雪斎さんを見ると、いつものいやらしい笑みを浮かべた。本当にこの人は。


 床に座って近くの人と談笑する彼らを見て、今この時間にとてもやりがいを感じる。戦国の世にやって来て、たまたま承芳さんに会えて、こうやって剣の指導をするという立場にある。僕は運が良かっただけだ。駿府の館に居れば、その日食べるものも住む部屋も考えなくてもよい。現代では当たり前だけど、この時代では決して当たり前じゃない。そういう人たちの方が、圧倒的に多いんだ。僕はこの世界の事を知らなすぎる。

 農民出身の彼らを、右から順に眺めていく。あの子は、旗持ちの任に就くと伝えられた時、これで両親にお腹いっぱいご飯を食べさせてあげられると泣いていた。隣の子は、戦争で死んだ兄に自慢できると。彼は、自分の集落の力になれると。

 戦争になると、兵士はただの数字になってしまう。何人殺して、何人死んだと。まるでゲームの残基のように。だけど兵士一人一人には人生があり、同じように生きているんだ。


 「関介様っ、そろそろ稽古を始めましょう。休憩しすぎると、腕が鈍ってしまいます」


 周りの子たちも竹刀を持って、早く稽古を始めたいのかウズウズしているようだった。今話しかけてきてくれた子は、名を喜介と言う。他の子と同じように彼もまた農村出身で、両親と妹の四人で慎ましく暮らしていたそう。ただ去年の不作の影響で、暮らしはかなり逼迫した状態になっていた。そこに追い打ちをかけるように、元々病弱気味だった妹が体調を崩してしまい、彼ら家族の暮らしはより厳しいものになってしまった。今回の招集は、彼にとって切迫した状況から脱出する最後の希望だった。稽古での彼の様子から、並々ならぬ覚悟を感じ、僕も気が引き締まる思いだった。


 「そうだね、そろそろ稽古を再開しよっか。さっき言った通り、今から打ち合いをするから、誰でもいいので二人組を作りましょう。相手は誰でもいいからね」


 「あっ、あの……関介様、ぜひ良ければ私と組んで頂けますか?」


 そっと近寄ってく来た喜介くんは、おずおずとそう耳打ちした。因みに年は僕と同じらしいから、そう敬語を使わなくてもいいのに。そう伝えると、そんな恐れ多いと譲らなかった。僕としては、もっとフランクな関係になりたいと思うんだけどね。


 「いいよ、一緒にやろっか。喜介くんと相手するのは初めてだね、よろしく」


 「はっ、はいっ! こちらこそよろしく、ってうわぁ!」


 僕が手を差し伸べ、喜介くんが返そうと腕を伸ばそうとした時、突如長教くんがその手を振り払って間に入って来た。喜介くんは悲鳴を上げその場に尻もちをつく。長教くんは喜介くんに一瞥をくれることなく、鋭い視線を僕に向け言う。


 「お前の相手はこの長教だ。そんな雑魚相手にしても仕方ないだろ。さあ早く相手になれ」


 竹刀を握りしめやる気満々と言った様子だ。だが僕は長教くんを素通りして、彼が押し倒した喜介くんの下へ駆け寄る。背中に逃げるのかと、色々文句が飛んできたが全て無視を決め込んだ。もう一度手を差し出すと、今度こそ喜介くんと手を重ねることが出来た。


 「大丈夫、怪我はない?」


 「ありがとうございます、私は平気です。ご心配をかけ申し訳ないです」


 なんで君が謝るのと笑うと、つられて喜介くんも照れくさそうに笑った。それよりもだ。振り返ると長教くんは、少しバツが悪そうに、拗ねたように口を尖らせてちらちらと辺りに視線を移動させていた。


 「転んだのはそっちが悪いからな。長教は謝らないからな」


 はぁ。これは親綱さんも困るわけだ。僕が言える義理でもないけど、この青臭い子どもを相手するのは中々骨が折れる。ゆっくりと長教くんの下へ歩み寄ると、なんだよと彼の方も威勢よく近づいてきた。一触即発の空気に、道場の中に重苦しい沈黙が流れた。ったく、こんな空気で稽古しても何も楽しくないのに。あまりやりたくないけど、厳しい折檻が必要そうだ。


 「長教くん、こっちに耳貸して」


 怪訝そうな表情を浮かべながらも、素直に片耳をこちらに向けてくれた。僕が今から彼に伝える事は、あまり他の子たちに聞かせたくない。手をメガホンの形にして、出来る限り周りに漏れないよう、小さな声で言う。


 「正座、三時間。竹刀、五時間。もう一回やる?」


 「ひぇっ。わっ、わかったから、謝るから! あの稽古はもうこりごりだぁ!」


 喜介くんは、不思議そうな顔で首を横に傾げた。よかった、聞こえて無いようだ。

 実は雪斎さんが来たあの日、長教くんにだけ稽古の特別メニューを試してみた。まぁ僕が祖父から受けた指導の、ほんの一部だけど。ただ長教くんには相当外こたえたらしく、もう止めに欲しいと泣きながら懇願されてしまった。心の底から長教くんで試して良かったと思う。そうとも知らず、農民出身の彼らにあのメニューをやらせたら、全員心が折れてしまっていただろう。

 という事もあり、生意気な長教くんも、この稽古メニューをちらつかせれば、過去のフラッシュバックで簡単にいなすことが出来るのだ。まぁ流石に大人げないので、頻繁に使うのはやめておこう。僕は雪斎さんと違って、性格がいいんだ。

 喜介くんへ腕を伸ばすと、釣り針に食いつく魚のような瞬発力で僕の手を取った。嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う喜介くんを前に、思わず僕の表情も綻んだ。関介道場に身分や、立場の違い何て無い。みんな同じなんだ。

 

 「さぁ稽古を始めようか。喜介くん、改めてよろしくね」


 「よろしくお願いしますっ!」

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