第七話 The Tongue(1)

「――ううう、トリス…モニカ…。死にたくない。わたくしは貴方たちのように死にたくないぃぃ。うぅ…っ」


 ずっと閉じられたままの分厚いカーテン。入れ替えられていないぬるく湿った空気。散乱したまま、表面がうっすらと白くなった調度品。


 一目でしばらく整えられていないと分かる自室のベッドの上で、ヘンリエッタは一日中シーツを被って震えていた。彼女が自慢だった金色の髪は艶を失くし、毎日入念に手入れさせていた肌にハリはなく、その目元は急に老け込んだかのように弛み、濃い影ができていた。


 カーテンの隙間から差し込む光が一筋も見当たらない今は、夜の時間だ。しかし、今が昼なのか夜なのか、ヘンリエッタにはもう分からなくなっていた。


「――アレが来る、アレが来る、アレが来る。わたくしを殺しにやって来る…!!!」


 少なくなった使用人たちは、そんなヘンリエッタの姿を見て気が触れてしまったのだと口にする。けれど実のところ、ヘンリエッタが狂ったように呟く言葉には真実が紛れ込んでいた。


 ――キィ。


「―――っ!」


 静かな部屋に響いた、か細い音。その音に、ヘンリエッタは息を呑んだ。


 今の音は何だ?何の音が鳴ったのか?この部屋で鳴ったのか?そうだ、この部屋で鳴った音だ。誰かが扉を開けたのか?扉の開く音はこんな音だったか?そもそもノックもなしに扉を開ける者がいるのか?いや、扉ではない。扉なら鍵が掛けてあるはずだ。扉ではないなら何の音なのか。窓?窓が開いた音?でも確かに窓にも鍵を掛けて――。


「――ひっ、」


 シーツ越しに自分のすぐ傍に誰かが立った気配を感じて、ヘンリエッタは身体の震えは酷くなった。


 誰だ誰だ誰だ?そこにいるのは誰だ?屋敷は国家警察で守られているのに。この部屋は二階にあるはずなのに。そこにいる人物はどうやってここまで入ってきたというのだ?


 確かにすぐ傍に気配があるのに、その人物は一向に動きを見せない。五月蝿いほどに身体中に響く心臓の音、耳障りな乱れた呼吸の音、じっとりと肌を濡らす不愉快な汗。我慢比べで負けたのは、ヘンリエッタだった。


「いやあああああ!!!殺さな――」


 今まで必死に身を隠していたシーツを払い除け、その場から逃げ出そうとするヘンリエッタ。しかし払い除けたはずのシーツで一瞬の内に縛るように包まれ、腹部に受けた衝撃から自分が乱暴に担ぎ上げられたのだと分かった。


「ううう!うううう!!!」


 魔の手からなんとか逃げ出そうと、ヘンリエッタは呻き声を上げながら身を捩る。身体に巻き付けられたシーツ越しに吸える空気は薄く、視界が眩む。それでも殺されたくない一心で暴れるヘンリエッタだったが首裏に衝撃を感じ、その意識は暗転していった。


 次にヘンリエッタが目を覚ましたのは、蝋燭のか細い灯りだけが頼りの、岩を削って作られた窓一つない閉鎖された部屋だった。壁に背を向け、膝立ちの状態で両手足は鎖に繋がれている。意識を失っていた間ずっと身体を支え続けていた両手首に手錠が食い込み、その痛みがヘンリエッタの意識をさらに覚醒させた。


「うぅ…」


 布で猿ぐつわをされていて、声は出せない。逃げ出そうにも繋がれている鎖は太く頑丈で、両足を繋ぐ鎖に至っては短く、立ち上がることも叶わない。虚しく鎖の擦れる音が鳴るだけだった。


 鎖の音で、ヘンリエッタが目覚めたことに気づいたのだろうか?部屋の唯一の出入口である扉の向こう側に、誰かが立った気配がした。


 誰が立ったかなんて明白だ。自分を殺しに来た人物が、『アレ』が、そこに立っているのだ。


 錠が開く重い音がして、ゆっくりと開かれた扉。その先で美しく微笑む少女と無表情に少女の隣に立つ男の姿を見て、ヘンリエッタは想像していた通りの結果とはいえ、絶望した。

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