ミス・ルトゥを知っていて?

向野こはる

ミス・ルトゥを知っていて?




「ミス・ルトゥを知っていて?」


 よく晴れた午後。

 白い鳥が羽ばたき、惜しみなく降り注ぐ太陽光の下。真新しい紫のドレスに身を包んだ母が、その名を口にした。

 俺の周囲では聞いたことのない名前に、首を傾げつつ紙面から顔を上げる。

 庭園の一角に設置された四阿は、四方を蔓性の植物に囲まれていて、そよ風が肌を撫でた。木製のテーブルに広げていた書物のページを片手で押さえれば、向かい側に座る母は目を細める。


「? いいえ。それは誰ですか、母上?」

「我が国に古くからある、伝承のようなものよ。ミス・ルトゥは緑色の目をした女性で、幸運を運ぶ、と言われているの」

「……緑の目、ですか?」


 緑色の目など、この国ではさして珍しくない。

 俺の困惑が伝わったのか、母は笑みを深めて目蓋を伏せた。


「そう。ミス・ルトゥを大切にした者には幸運が訪れる。逆に疎んで遠ざければ、その者には不幸が訪れる。つまり、多くの人の意見に耳を傾け、邪険に扱ってはいけないとする教訓ね」


 なるほど、それであれば納得だ。

 俺は記憶に留めておけるよう、ペン先にインクをつけて、羊皮紙の隅に母の言葉を書き残す。

 母は優美な動作でカップを手に取り、紅茶を一口、喉を潤して飲み込んだ。



 ◆ ◆ ◆



「彼女は隣国の第三王女、ヴィスカーナ・アンリエント様よ」


 八歳の誕生日を迎えて程なく。

 俺の前に現れたのは、柔らかな真珠色の髪に緑の目をした、婚約者だった。

 小柄で人形のように可愛らしいヴィスカーナは、隣国との国交強化の為に結ばれた政略結婚相手。だが、そんな諸般の事情など、頭から抜け落ちるほどの美貌に、俺はすぐに夢中になった。

 第二王子である俺は、いつも兄である第一王子と比べられている。

 兄は正義感が強く優しい人で、互いに切磋琢磨する間柄なので、全く嫌いではない。それでも優劣をつければ、兄の方が少し上なのもまた、事実だった。

 そんな俺の元に、兄の婚約者以上に美しい少女が来てくれ、正直に言えば猛烈に嬉しかったのである。


 ヴィスカーナは隣国の姫であるため、頻繁には会えない。それでも熱心に手紙のやり取りをし、茶会では精一杯、大切にしたいのだという事を伝えた。

 八歳という子供の言葉であったが、同年代の彼女が、俺の言葉に頬を染めて笑う様は愛らしい。

 俺は虜という感情では言い表せないほど、ヴィスカーナに愛情を感じていた。


「ダイアンス殿下。いつもありがとうございます。綺麗な庭でお茶会ができて、とても嬉しいです」

「庭園は気に入ったか?」

「はい。……わたくしの国では、あまり、草花は育ちませんから……」


 ヴィスカーナの祖国は、日照時間が短く、いつ訪れても気温の低い土地だった。

 金銀が採掘される鉱山があるため、国費の資金繰りは順調だと聞いている。しかし食料のほとんどを輸入に頼っており、太陽が必要な草花など、特に育ちにくい場所であった。

 彼女の髪や肌の色素が薄いのも、隣国特有のものである。歴史ある王族は特に顕著で、諸外国からは妖精王室と表現されるほどであった。

 ヴィスカーナの緑の瞳が、庭園を見つめて揺らぐ。

 フリルがあしらわれた日傘を手にする指が震えていて、俺は自らの手を重ねて目尻を緩ませた。


「それならヴィスカーナ。君の為の庭を造ろう」

「わたくしの?」

「うん。ここは父が母の為に造った庭だ。だから、小さくても負けないくらい、君が喜ぶ庭園を俺があげよう」

「……まぁ、殿下……」


 耳まで赤く染めて恥じらい、真珠色の長髪で顔を隠そうとする彼女に、僕は胸の高鳴りを確かに感じていた。

 彼女と共に、ずっと未来まで共に過ごしたい。その欲求は、日増しに強くなっている事を自覚している。

 だが、ヴィスカーナがこの国へ来る為の条件は、一つしかない。

 俺が立太子して王位を継ぎ、彼女を王妃として迎えることのみだ。

 もし俺が王位を継げなければ、彼女と共に臣籍降下し、ヴィスカーナの国へ婿入りすることが決まっている。

 俺は別に兄の下で働いても問題なかったのだが、他貴族の争いに巻き込まれないよう、母が采配した事だった。


 俺が頑張らねば、ヴィスカーナはこの国へ来られない。

 暖かな太陽の下、美しい植物に囲まれ微笑む彼女と、共に歩めない。

 俺は兄を超えねばならないと、その時期から奮起し、勉学に励むようになった。

  

 彼女を俺に引き合わせてくれたのは、母だ。

 隣国との政略結婚だとしても、母はヴィスカーナを大切にするよう、いつも俺に説いた。


「彼女は貴方のミス・ルトゥよ。……どうか大切に愛を育てなさい」

「はい、母上」


 大きく頷けば、母は目を細めて満足げに笑う。

 優しい手が頭を撫でてくれるのも、俺は分け隔てない母の愛情を感じられて、嬉しかった。



 ◆ ◆ ◆



 十四歳になると、王族と爵位を持つ貴族が通う学園に入ることとなる。

 二歳年上の兄から、学園は良い場所だと聞いていたので、夢と期待に大きく胸が膨らんでいた。

 それに加え、隣国からの留学生としてやってきたヴィスカーナが、王城で共に住まうことになり、有頂天の極みである。

 彼女を完璧にエスコートして学校に行けば、全校生徒から注目の的であった。

 制服に身を包み、麗しい淑女に成長したヴィスカーナ。兄弟どちらが王太子になるか定まっていないが、彼女も王太子妃教育が始まり、気品ある佇まいに磨きがかかっていた。


 

 登校初日を終え、迎えにきた馬車に乗り込んで、膝を突き合わせて席につく。

 ヴィスカーナも緊張していたのか、ほっと胸を撫で下ろして眉尻を下げた。


「疲れたか?」

「ごめんなさい、違うんです。……ダイアンス殿下と一緒に登下校できるなんて、夢みたいで……」


 そう言って頬に片手を添え、顔を赤くする姿は、柔らかな少女の面影を残していて。

 俺は幾度目か分からないほど彼女へ恋に落ち、順風満帆な学園生活を送ることになった。




 学園生活は、それまで王室という箱庭しか知らない俺にとって、興味と好奇心の連続だった。

 知らない分野の勉強や、社交界での作法。親しくなった友人との交流。全てが新鮮で輝かしく映る。

 男女別棟である為、ヴィスカーナと同じ科目を受講する事はなかったが、帰りの馬車内で1日の出来事を報告し合い、楽しい放課後を過ごしていた。


 そんなある日のことだ。

 図書館で一人、試験勉強に勤しんでいた時、不意に大きな物音が聞こえて顔を上げた。

 図書館でも王族のみに許された場所で、他に人影はいない。俺は参考書にしおりを挟んで立ち上がり、短い梯子を下りると、下で控えていた護衛に声をかけた。


「何かあったか?」

「は。どうやら、ご令嬢同士の揉め事のようです。如何いたしますか」


 甲冑を身につけた護衛の囁き声に、俺は片手を顎に添えて考え込む。

 女生徒の統率は、兄の婚約者の役目だ。ヴィスカーナもいずれ引き継ぐ事になるが、今はまだ1学年である。

 そして俺や兄が出ていってしまうと、余計な火種を作りかねないと、臣下からも遠回しに牽制されているのが現状だった。


 どうしたものか、と思考を巡らせているうちに、どうやら小競り合いは済んだらしい。

 書棚の奥から出てきた数人の令嬢たちは、忌ま忌ましそうな顔をしていたが、俺の姿に気がついたようだ。全員が真っ青な顔で膝を折る。

 口々に挨拶する令嬢たちに、俺は顔と名前を脳内で一致させながら溜め息をついた。

 王城で顔を見たことがある令嬢たちだ。上位貴族の娘だろう。制服は身につけているが鞄も本もなく、図書を借りにきた様子も見受けられない。


「図書館は安心して書物を読み、興味関心な勉学に励む場所だ。……君たちは知らないのか?」


 肩を震わせる彼女たちを、護衛兵の一人に送っていくよう伝え、俺は辟易して肩を竦める。

 学園は楽しい場所だが、楽しい事ばかりでないのも事実だ。現にこうしていざこざを目の当たりにするのも、初めてではない。

 再度の溜め息をついた時、視界の端で動く影に気がつき、視線を向けた。


 燃えるような赤い髪を二つに結んで緩く巻き、キツい目尻で緑の目をした女生徒だ。書棚の隙間から見える姿は、凛然として前を向き、多くの図書を抱えて歩いていく。

 また彼女か。俺は内心呟いて、己の顎をさすった。


 彼女はアルバミリス・ヴィ・リテル。元平民の男爵令嬢で、学園一の才女だ。

 友人たちから聞いた話によると、娘に高度な教育を受けさせたいと、彼女の両親が没落した貴族から、爵位を買い取ったのだという。国でも名だたる商家の娘で、金の心配はないらしい。

 アルバミリスの話題はそれに尽きず、元平民である事を気に食わない貴族連中が、余計な目をつけているという事だった。

 

 俺の事は気がついていないのだろう。

 颯爽と書棚の奥に消えていくアルバミリスに、そっと息を吐いて眉を下げた。




「リテル男爵令嬢さま……ですか?」

「ああ。いつも図書館で勉強しているようなのだが、毎度邪魔が入っていて。俺も気が散ってしまってな」


 帰りの馬車内。

 ヴィスカーナにアルバミリスの事を話すと、彼女も思うところがあるのか、眉を寄せて頷く。


「わたくしも話は聞いていました。ですが、その目で見たことはなく……。分かりました。わたくしも図書館に同行してよろしいでしょうか?」

「もちろんだ。忙しいのに、すまないな」


 俺が図書館で一人勉強しているのも、ヴィスカーナの予定が詰まっているからだ。

 学園に入学したからと言って、王太子妃教育が中断される事はない。講義が早く終わった時は、先に王城で帰ってレッスンを受けているのである。

 肩を落とす俺に、彼女は任せてくれと微笑んだ。


 

 結果としてアルバミリスに対するいざこざは、一応の終着を見せた。

 次期王太子妃候補が目をかけた効果は、絶大らしい。

 一方でヴィスカーナとアルバミリスは、互いに意気投合したようで、良き友人として親しい仲になっていった。


 女生徒同士ゆえか、俺とはまた違った表情で楽しそうに話すヴィスカーナ。

 俺はそんな彼女の変化をもっと知りたく、王太子妃教育を調整してもらえないか、母に頼むことにした。

 母は大いに賛同してくれ、学園にいる間、彼女の時間を融通してくれるよう取り計らってくれた。


 

 図書館で膝を突き合わせ、三人を主体に勉学に励むようになり、数ヶ月。

 王族として必要な交流関係構築のため、他の友人たちも図書館に誘い、常に数人で勉強会を行っていた。

 これはヴィスカーナの助言を取り入れた。アルバミリスが再び余計な反感を買わぬよう、友人を交えた方が良いとする意図がある。


 そうやって第2学年後半になり、俺は僅かな違和感を覚えるようになっていた。


「……それで、この地方は不作であった為、川の流れを変え、田畑に水路を作ったのですわ」

「水路を伸ばす設備はどこから調達しているんだ?」

「帝国の職人を読んで、石を詰む技術を習得したと聞き及んでおりますわ。帝国の職人は──……」

「……なるほど。……つまり加工技術も輸入しようとしたわけか」

「その通りでございますわ」


 勉学においてアルバミリスは、才女の名に恥じない秀でた才能を持っている。

 俺が分からないところも的確に回答へ導いてくれ、打てば響くような会話を楽しめた。

 商家は利益を得るため、諸外国含めた情報が命だ。

 王家でも把握できない微細な内容に精通し、全てを網羅していると言わんばかりの話に、俺はすっかり引き込まれてしまっている。


 端的に言えば、楽しいのだ。


 アルバミリスは大富豪とまで言われる商家の娘。男爵位は学園の入学に必要だっただけで、他の貴族と違い、王族へ過度に媚びへつらう必要がない。

 目元がキツいので誤解されやすいが、性格もさっぱりとしていて後腐れがなく、淑女教育も行き届いている。だが商戦となれば抜け目がないのもまた、彼女の魅力であった。

 母も彼女を気に入り王城へ呼び、アルバミリスの上手い誘導に乗って、いくつか宝石を購入したほどである。

 

 俺は次第に、常に共にいるヴィスカーナより、アルバミリスを目で追うようになっていた。


 ヴィスカーナは変わらず美しい。

 年齢を重ねてさらに磨きがかかり、所作も優美でマナーも完璧だ。全校生徒の憧れと言っても過言ではないほどである。

 下位の爵位であるアルバミリスにも敬意を払い、親しい友人関係を築く様は、未来の王妃候補として申し分なかった。 

 彼女は生まれながらの王族で、厳しい国内環境を改善しようと、常に動いている人である。

 第一王子の婚約者は侯爵令嬢であるのに対し、ヴィスカーナは国を背負うという重責を、生まれながらに理解していた。

 王妃として相応しいのは、と囁く声が、耳に入らないわけがない。


 だが如何せん、ヴィスカーナはアルバミリスほど、勉学の才はなかった。


 もちろん成績が悪いわけではない。だが、共に勉強に励んでいる仲間内では、彼女は常に最下位だ。

 他国の王女としての立場故か。そう思うが、ヴィスカーナは苦手な分野を克服するのに、時間がかかる性格である。

 爵位に関係なく教えを乞うのは美点であったが、俺は徐々に苛立ちを募らせるようになっていった。


 アルバミリスは欲しい会話をくれるのに、ヴィスカーナは俺をたてる発言しかしない。

 ヴィスカーナと正解を探す行為は有意義だが、アルバミリスのように明朗快活ではない。


 それまで心が躍るほど楽しんでいた婚約者との茶会も、どこか上の空で、アルバミリスの事が頭をチラついていた。



 ◆ ◆ ◆


 

 第3学年へ進級する際に開かれた、舞踏会。

 いつものように、目が覚めるほど美しいヴィスカーナをエスコートし、会場で友人たちと談笑していた時だ。

 にわかに会場内が騒然となり、何事かと出入り口へ視線を向けた。


 そこにいたのは、艶やかな真紅を基調としたドレスに身を包むアルバミリスだ。彼女の隣には、背が高く見目麗しい黒髪の美丈夫が、仲睦まじく腕を組んでいる。

 普段の彼女は、学園内のパーティーがあったとしても、落ち着いた色合いのドレスしか着て来なかった。エスコートを任せていたのも、父か兄、もしくは老齢の家令であったはずである。

 俺はアルバミリスの変わりように、大きな衝撃を受けて目が釘付けとなった。


「ダイアンス・コルラトーム第二王子殿下。並びにヴィスカーナ・アンリエント第三王女殿下へ、ご挨拶申し上げます」


 ヴィスカーナほどアルバミリスの辞儀は洗練されていないが、そんなものなど吹き飛ぶほど、俺の脳内は彼女に占領されていた。

 紹介にあずかった美丈夫は、3学年から留学予定である他国の侯爵なのだという。

 商いを通じて知り合った二人は、先日婚約関係となり、ようやく紹介できる機会を得たのだと、アルバミリスははにかんだ。


「まぁ、アルバミリスさま。おめでとうございます。ご紹介頂けて嬉しいです」

「ヴィスカーナ王女殿下に一番、ご報告したかったのですわ」


 アルバミリスは商戦に抜け目がない。これを通じて婚約者の国を売り込み、販路拡大に繋げる意図は把握できた。

 ヴィスカーナや友人たちが二人を祝福する傍ら、それを分かっていながら、俺は強張った表情を取り繕う事ができない。

 アルバミリスが、知らない男と深い仲になろうとしている。胸を渦巻いた苛立ちは、もはや抑えようがないほどだ。

 しかも相手はヴィスカーナと並んでも遜色ないほど、誰もが振り返る美丈夫である。


 二人の仲は他人が見ても良好で、黒い燕尾服と真紅のドレスがワルツを踊る様は、いっそ幻想的なほど絵になっていた。

 ヴィスカーナを両腕に抱いてステップを踏みながら、視線は彼女と男を追いかけてしまう。

 これが嫉妬であると気がつくのに、そう時間はかからなかった。




 意外にもアルバミリスは、第3学年に上がってからの勉強会に、婚約者を連れてこなかった。

 曰く、彼は勉学の才はあまりなく、実際に足を運んで様々な交流を積む方が性に合っているのだという。

 役割分担なのだと目を細める彼女に、俺は醜い感情が露出し始めようとするのを感じていた。



「……あら? 今日は他の方はいらっしゃらないんですの?」


 ある日の放課後。

 ヴィスカーナに用事があり不在の時、友人たちへ理由をつけて解散させ、アルバミリスと図書館で落ち合った。


「ああ、リテル嬢。皆は用事があるんだ。俺と二人でも良いだろうか」

「そうでしたの」


 流石に第二王子と二人という状況に、アルバミリスは戸惑った仕草を見せる。

 しかし護衛がいることを伝え、ヴィスカーナにもアルバミリスを頼むと言われているとすれば、彼女は頷いて席についた。

 学園に入学してから初めて、彼女と二人で話す機会を得た。

 普段通り勉強に勤しむ彼女の、一挙一動を目で追うたびに、心臓の鼓動が高鳴っていく。

 ヴィスカーナ相手では、もう久しく感じていなかった衝動だ。否、彼女以上かもしれない。胸が熱く気分が急いで、アルバミリスを腕の中に閉じ込めたいと、欲求ばかりが膨らんでいく。


「……アルバミリス」


 いつもは家名で呼ぶ名前を、初めて呼んでみた。

 彼女は目を見開いてペンを止め、怪訝な表情で俺を見る。


「殿下。差し出がましい物言いをお許しくださいませ。貴方さまはヴィスカーナ王女殿下とご婚約中の身。私にも婚約者がおりますわ。呼び捨てられる立場にございません」

「……分かっている。だが、君は友人だ。友人を名前で呼ぶことは、咎められるほど、なのだろうか」

「もったいなきお言葉でございます。しかし今まで通り過ごされませ。我が男爵家は、殿下の立太子を推しているのですから」


 歯に衣着せぬ物言いは、相変わらずだ。彼女の言い分も理解している。

 第3学年になり、いよいよ卒業と共に成人を迎えるまで二年を切った。王太子は俺の卒業後に発表される為、ここで失態を犯せば挽回までの猶予がほとんどない。

 しかし俺はアルバミリスに婚約者がいて、知らない彼女を知っている男がいることを、未だ認められなかった。

 俺はアルバミリスの好意が欲しい。彼女の緑の瞳が、己だけに笑いかけて欲しい。そう考えるだけで心は多幸感に包まれる。

 ヴィスカーナは幼い幻想で、アルバミリスこそ俺のミス・ルトゥ。

 いつの間にかそう信じて、疑いもしなくなっていた。




 それから俺は、理由をつけてアルバミリスと二人で会う時間を作った。

 時にはさりげなく、時には第二王子の権限まで使用し、二人きりで話す時間を捻出させた。

 だが、それがいけなかったのだろう。

 兄と、兄の婚約者という抑止力が卒業したことも相まって、アルバミリスへの反感が再発してしまったのだ。

 第3学年まで上がると、高位貴族を冠する子息女の影響力は、学園内に留まらなくなってくる。本場の社交界へ滲み始め、アルバミリスの生家、男爵家の事業にほつれが出始めたのだ。

 それは学園の中では見えない、嫌がらせの域を超える悪質さだった。


 アルバミリスはただでさえ、俺とヴィスカーナに目をかけられ、美丈夫とも婚約関係にある。買い上げ爵位の一代貴族という立場もあり、攻撃対象になりやすかった。

 元商家の取引先は、俺の母の助力もあり、今や庶民相手より貴族が中心である。その貴族が買い控えをすれば、自ずと利益が落ちるのは明白だった。


 焦りを滲ませる彼女を心配しつつ、俺は内心、喜びを隠していた。

 生家が思わしくない事に比例し、婚約者の家とも上手くいっていないのだという。

 商いを通じて結ばれた同士、利益の分配が滞ればさもありなん、というものだ。

 移動教室の最中、誰も通らないと思ったのか、アルバミリスと婚約者が言い争っている現場を目撃したこともある。

 友人もいた為、不仲説はあっという間に学園内に広がり、美丈夫に対して擦り寄ってくる女生徒も出始めた。


「……彼は、そんな事で靡くような人ではありませんわ」


 アルバミリスは気丈に振る舞っていたが、日に日に表情には疲労を滲ませていた。

 そして図書館に集まり勉学に励んだ友人たちも、俺の意図とは関係なく、貴族特有の世間体に巻き込まれる。

 和気藹々と交流していた面々は、徐々に姿を見せなくなっていった。


 そんな中でもヴィスカーナは、変わらずアルバミリスに接していた。

 俺以上に二人で過ごし、時折、親しげに笑い合う様を、何度か遠くから見た事がある。

 アルバミリスはヴィスカーナと二人きりの時だけ、甘えた様子で寄りかかる。そして俺の前ではけして見せない、安心しきった顔で笑うのだ。

 あまりの可愛らしさに感情を掻き乱され、同時に、ヴィスカーナを酷く疎ましく思った。

 彼女さえいなければ、アルバミリスを守護できるのは、俺だけになるはずだ。

 男爵家一番の得意先は俺の母。つまり王家だ。俺の機嫌を損ねれば、彼女の家は立ち行かなくなる。否応でもアルバミリスは、俺に依存してくれるはずなのだ。


 アルバミリスは俺のミス・ルトゥ。計算高く快活な、美しい緑のをもつ女だった。



 ◆ ◆ ◆



「ダイアンス殿下。少しの期間、わたくしは国へ帰ることとなりました」

「何があった?」


 最終学年に上がった、最初の定例茶会。

 意気消沈気味に話すヴィスカーナに、俺は心底驚いた調子で言葉を返す。

 真珠色の髪を後頭部でまとめた彼女は、緑の目を細めて肩を落とした。


「実は母の容体があまり思わしくない、との知らせがあったのです」


 隣国の王妃が病に臥せっている話は、もちろん知っている。数ヶ月前に倒れ、日中のほとんどを寝たきりで過ごしていることも。

 何せ病状が回復しないよう手を回したのは、俺なのだから。

 隣国が主食とする小麦の輸入先は、主にこの国の辺境伯領から出荷されている。

 俺はそこに目をつけ、辺境伯子息と親しくし、王都での便宜を図ることを約束した。そして代わりに輸出する小麦と併せ、医者と称した間者を乗船させたのだ。

 立太子前とはいえ、俺や兄は様々な権限を任されている。兄が居ない今、学園内を掌握するのは俺の務めだ。周囲を優秀な人材使い勝手の良さで固めるのは、何も不自然ではない。

 

 俺はヴィスカーナを励まし、出立するときは必ず見送ることを伝えた。

 彼女は俺と離れがたいとしきりに訴えたが、しかし祖国の決定には逆らえない。

 もしかしたら、俺から進言してくれることを期待したのだろうか。そう思ってしまうと、なんと浅ましい女なのかと、幻滅が顔に出そうになった。


 出立の日。

 ヴィスカーナは雨天用のコートを羽織り、淑女然と澄ました表情を浮かべつつも、俺を見つめて僅かに眉を下げた。


「殿下。なるべく早く戻って参ります。それまでどうか、お体に気をつけて」

「ああ、ヴィスカーナも」

「それから……、アルバミリスさまがお困りの時は、どうぞ、救いの手を差し伸べてください」


 両手を胸の前で組み祈る姿は、聖女のようだと誰かが呟く。

 無二の親友だと彼女は微笑んだ。いつの間にそれほど仲良くなったのか、俺の知らないところで話が済んでいる。

 それが俺の心を掻き乱し、苛立たせていることも知らずに、ヴィスカーナは祖国へ旅立っていった。





 ヴィスカーナが居ない学園は、ますます俺の独壇場となった。

 知らず溢れていた俺の意図に気がついた子息女は、俺の思考を持ち上げ、アルバミリスと二人で行動するよう協力してくれる。その多くが隣国との政略結婚に反対している家柄の貴族であった。

 彼らからしてみれば、政略結婚は王家からの恩恵が減ってしまうのだ。

 隣国との繋がりは良い面も多いが、悪い面も相応に抱えている。それを踏まえ見返りを払えば、更に仲間は増えていった。

 そして逆に意図が分からない生徒たちは、アルバミリスに矛先を向けるのだ。

 俺とヴィスカーナの仲睦まじさは有名だ。俺が裏で糸を引いているなど思いもせず、アルバミリスに責任があると彼女を糾弾する。


 彼女は不信感を露わにしたが、王家という取引先を失う事はできない。

 俺が優しく手を差し伸べ、問題解決の糸口を探す真似をすれば、彼女は黙して従うしかなかったのだ。


 第4学年になると増える社交パーティーにも、積極的にアルバミリスを誘った。

 その時には既に、彼女と婚約者との仲も冷え切っていたようで。ろくにエスコートしない婚約者に放っておかれ、壁の花にはる彼女を連れ出し、ホールの中央で何度か踊った。

 スラリと伸びた背筋、意志の強い目。こちらのリードに任せ切らない、軽やかなステップ。

 ヴィスカーナとは違うしなやかさに、俺は殊更、彼女の虜になったのだ。


 だがアルバミリスは、俺の前で笑う事がなくなっていった。

 勉強会と称し集まっていた図書館にも、わざわざ時間をずらして来るようになった。

 彼女が頼れるのは俺しかいないのに、それを分かっているのに、アルバミリスは俺を避けるようになったのだ。

 極め付きは久しぶりに図書館で一緒になった時、彼女が呟いた言葉である。


「……ヴィスカーナさま、早く帰って来ないかな……」


 独り言だったのだろう。

 寂しそうに眉を下げる横顔に、俺の中で張り詰めていた糸が、音を立てて千切れた気がした。


 違う。お前が頼っていいのは、お前が依存していいのは、あの女ではない。

 お前はあの女のミス・ルトゥではない。俺のミス・ルトゥなのだ。

 その時ようやく、己の勘違いに気がついたのである。

 俺とアルバミリスの仲を邪魔するのは、周囲の人間でもなく、爵位の隔たりでもなく、他国の婚約者でもない。

 ヴィスカーナ・アンリエント第三王女。

 隣国から供物のように与えられたあの女が、彼女の思考の全てを奪っていくあの女が、邪魔だったのだ。


 


 程なくして訪れたのは、俺に対する吉報である。

 隣国の王妃が遂に、病で帰らぬ人となったのだ。



 ◆ ◆ ◆



 葬儀が執り行われた隣国は、失意の底についていた。

 俺の国からも多くの見舞いが行われ、交友のあった母も涙し悲しんだ。

 参列者席に座る俺は、表面上は悲しみを取り繕いながら、内心は踊り出したい気持ちでいっぱいである。

 隣国の王妃の病は、治る見込みのある病であった。だが薬が効かず、他の治療も功を称さず、結局は体力が尽きて死に至った。

 それもそのはずだろう。俺が送り込んだ間者は、紛れもない医者だ。王妃が飲む薬の調合を変え、徐々に効果を無くして行ったのである。

 他の貴族と手を組んで多額の前金と報奨金を支払えば、この事が露見することはないのだ。

 作戦が成功したが、気は抜けない。

 この次の段階が、俺の正念場だからだ。


 葬儀を終えて、俺たち王族は国へ戻った。

 すぐ母に謁見を申し入れると、母は頷いて、応接室を準備してくれる。

 ティーセットを準備し終えた給仕や、護衛騎士を下がらせた母は、真っ直ぐに俺を見つめて目を細めた。

 足の低いテーブルを挟み、互いにソファーに座って顔を合わせる。

 学園に入ってから、食事以外で母と顔を合わせるのは久しぶりだ。俺は緊張に唾を飲み込んで、背筋を正し顎を引く。


「お時間を作っていただき、誠にありがとうございます。母上」

「いいえ。火急の用件なのでしょう」

「はい。……この度、ヴィスカーナの母君が亡くなった事により、隣国は暫く混乱するでしょう。あちらも我が国同様、未だ王太子が居ない状況ですから」


 隣国はこの国よりも、王位継承者の人数が多いのだ。国王が存命とはいえ、治るはずの病で妻が亡くなったとなれば、危機管理も自ずと見直されるだろう。早々に立太子の儀を執り行う可能性がある。

 ヴィスカーナの王位継承権は限りなく低い。だが、亡くなった王妃は彼女の実母だ。

 加えて学園に入学後、ヴィスカーナの評判は隣国でも好調で、他の親族に比べて為政者としての才能も開花し始めている。次期王にと後押しする声が多いのだ。

 俺としてもこの機会を逃したくはない。

 彼女が邪魔だからと言って、実母と同様、死に追いやるつもりは毛頭なかった。


「隣国との情勢を鑑みて、俺は兄の配下に下りたく、思っています」

「それは……ダイアンス、待ちなさい。確かに隣国の情勢は危ういですが」

「俺の存在が、ヴィスカーナの足枷になることは目に見えているのです」


 俺は目蓋を伏せて一度、口を閉ざす。母も俺の意図が伝わったのか、唇を震わせて沈黙を返した。

 俺との婚約はヴィスカーナが、限りなく低い王位継承順位だからこそ成り立っている。幼かった当時、誰も彼女に、女王の素質を見出していなかったからだ。

 だがもし彼女が、王位継承権第一位を獲得すれば。

 女王として君臨するヴィスカーナに、第二王子である俺では釣り合わなくなる。なぜなら国家の規模として、隣国の方が上だからだ。

 いくら食料を輸入に頼っているとしても、相手は金銀が泉のように湧く鉱山を保有する国である。国力の一部が不足しているだけで、立場は明確だった。


「俺と婚姻し臣籍降下するより、女王になる方が良いに決まっております。ヴィスカーナの評判は母上も知っているでしょう」


 ヴィスカーナは優秀だ。勉学の才は人並みであっても、それは俺も否定しない。

 彼女と俺の輝かしい未来の為に、互いの存在は邪魔なのだ。

 母は片手を額あて視線を迷わせ、溜め息混じりの息を吐き出す。


「俺とヴィスカーナの婚約を解消することに、合意して欲しいのです」


 苦虫を噛み潰したような顔で、母は俺の顔を見た。その瞳に浮かぶのがどんな感情であるか、皆目見当もつかない。


「……だめよ、ダイアンス。あの子は、貴方に好かれようと必死で」

「俺といては将来が潰されるのですよ? 俺では立場上、彼女を真の幸せにできない。彼女の幸福を思っているのです」

「違うわ、ダイアンス。貴方の傍にいることが、ヴィスカーナ王女の幸せなのです。彼女は貴方のミス・ルトゥ。そう言ってきたでしょう?」

「いいえ母上。彼女は俺のミス・ルトゥではなかった」


 はっきりと言い切れば、母は驚愕した様子で息を呑んだ。


「俺は本当のミス・ルトゥを見つけたのです」

「…………ダイアンス、勘違いしてはダメよ。ミス・ルトゥは特定の人物ではなく」

「母上は言いましたよね? 愛を育てなさいと。俺は俺の愛を共に育てられる人に出会ったのです。彼女こそが、俺のミス・ルトゥだ……!」


 半ば狂乱して叫ぶように、俺は恍惚に表情を緩ませる。

 母は俺を説得しようとしたが、俺の意志は固かった。

 卒業までにヴィスカーナとの婚約を白紙に戻し、臣籍降下をして王となる兄から爵位を賜る。

 そして愛しいアルバミリスと結ばれるのだ。




「そ、そんな、考え直してくださいませ!」


 一段落し、俺の国へ再び足を踏み入れたヴィスカーナは、俺の言葉に愕然と声を震わせる。

 日差しを遮る曇り空だ。

 彼女の為に整備を進めている庭園の四阿で、俺たちは向かい合って座っていた。

 連日の対応で忙殺された彼女の様相は、やつれて顔色も悪く、髪も艶を失っている。葬儀の日からそう時間はたっていないが、数年顔を合わせていなかったような変わりようだった。

 俺は美しさが鳴りを潜めたヴィスカーナに、首を振って声音を和らげる。


「ヴィスカーナ。考えてみてくれ。俺の存在は君の足枷だ」

「そんなことはございません! わたくしは殿下と共にありたいと、研鑽を積んでまいりました……!」

「ヴィスカーナ。君の評判は隣国でもかなり好評だ。当事者である君も、よく知っているはずだ」


 珍しく声を荒らげる彼女に内心首を傾げつつ、ヴィスカーナが気にしている話題を敢えて振った。

 やはり彼女は口籠もり、しかし首を左右に振って呼吸を整える。


「殿下。わたくしとの婚約は、どうか続行してください。それが殿下の御為にございます」

「……俺の?」

「はい。……アルバミリスさまに、恋をしていらっしゃるのでしょう?」


 疑問符でありながら確信した言葉に、俺は思わず呼吸を止めた。

 彼女は再度首を振り、柔らかな緑の目で、俺の顔を覗き込む。


「殿下。彼女は他国に婚約者がいる身です。そのような不貞を彼女に強いるのは、おやめください」

「何を言って、違う、俺は君の」

「わたくしは八歳の時から、殿下と共にいるのですよ。……分からないほど、あなたに関心が無いはずがないでしょう。……殿下のお気持ちがそぞろでも、構わないのです。ですがどうか、今は辛抱してください」


 ヴィスカーナが俺に縋り懇願するほど、彼女に熱をあげていた気持ちが逃げていく。

 俺の心が分かっていながら、それでも構わないと言いながら、泣きそうに表情を歪める女が、浅ましくて仕方がなかった。

 俺は膝から力が抜ける気分になりながら、それでも椅子を押して立ち上がる。

 彼女もドレスの裾を持ち上げ、音もなく立ち上がったが、それすらも癇に障って奥歯を噛み締めた。


「なぜだ、どうして俺に執着する? 俺との婚約を白紙にしたほうが、お前も後腐れなく王位を考えられるだろう」

「わたくしは殿下のお傍にいられれば、王位などいらないのです」

「ふざけるな、それだと困るんだ! 俺にとってのミス・ルトゥはお前じゃない!! 彼女が欲しいんだ、ああ、アルバミリス、彼女でないと俺が幸せになれない……!!」


 大きく目を見開いて、ヴィスカーナは数歩、後ずさる。

 俺は彼女の視線を振り切って踵を返し、我に返った泣き縋る声に見向きもせず、早足に庭園から逃げ出した。



 ◆ ◆ ◆



 その後、程なくして俺とヴィスカーナの婚約は白紙になった。

 母は反対であったが、隣国から打診があったと聞いている。

 目的はもちろん、ヴィスカーナを王太子に認め、もっと条件の良い婚約者を見繕うためだ。

 彼女は泣きながら俺に考え直して欲しいと訴えたが、俺はヴィスカーナとの面談を謝絶し、彼女は卒業を待たずに祖国へ帰国して行った。


 第4学年も後半に差し掛かったが、アルバミリスは相変わらず婚約者とは不仲らしく、一人で過ごしている事が多い。

 この機会を逃せないと、俺は第二王子の権限を使い、アルバミリスを王城に呼び出した。

 学園を卒業すれば、王太子は兄に決定されるだろう。その前に必要な権限は行使しておかねばならない。

 アルバミリスは赤い髪をきっちりと結い上げ、落ち着いた黒のドレスを纏い城に立ち入った。


「よく来てくれた、アルバミリス。久しぶりだ」


 暗い表情の彼女は、通り一辺倒な挨拶を述べただけで、ピクリとも口角を上げない。静かにソファーへ座る様は、葬儀へ参列する人々を思い起こした。

 俺は大事な話だからと、使用人たちを部屋の外まで下がらせる。

 全員の気配が遠のいたその時、彼女はようやく紅の引いた唇を震わせた。


「……よくもやってくれましたわね」

「え?」

「ッよくも、よくもヴィスカーナさまの母君を……!!」


 アルバミリスは携えていたカバンから、数枚の書類を引っ張り出し、足の低いテーブルの上へ投げ広げた。

 思わず手に取ってみれば、薬の成分表らしい。すぐには彼女の意図が把握できず、目を白黒させながら紙面とアルバミリスを交互に見る。


「これがお分かりになって? 貴方さまに依頼された医者の、薬の調合表ですわ」

「な……え、なん、……なにを」

「口を割らせましたわ。ねぇ、殿下。有能な医者をお抱えでしたのね? 我が男爵家の資産半分以上も投げ捨てましたわ」

「ま、待ってくれ、言っている意味が」

「しらばっくれる気ですの? に恥をかかせて、国に帰らせて? これからあの国で王位を継ぐことが、どれほど大変になるか知りもしないで? なんという屈辱なの……!!」


 片手でテーブルを叩き、アルバミリスは俺の胸ぐらを掴み上げた。

 女人では考えられないほどの力に引き寄せられ、腰が浮いて首が絞まる。助けを求めようと声を上げかけるが、テーブルに投げ出された書類が、悲鳴を喉の奥へ押し止まらせた。

 アルバミリスは憎悪に溢れる緑の目で、俺の双眸を凝視する。


「なぜなの、どうしてなの、義姉ねえさまのなにがそんなにいけないと言うの……!?」


 俺の首元から片手を離し、アルバミリスが両手で己の髪を掻き乱した。


「義姉さまは聖女のように美しいでしょう? 淑女らしく凛として、教養もあって、所作も完璧で!」

「確かに、それは認めよう。だがアルバミリス、聞いてくれ。俺は君を愛して」

「知っていますわ、おぞましい!!」


 伸ばしかけた片手は、鋭い音を立てて叩き飛ばされる。

 完全な拒絶だ。今までこれほど激しい怒りを向けられた事はないだろう。

 驚愕と焦燥、羞恥、慟哭、全てが口から溢れそうで、しかし僅かに残った理性が書類を掻き集めた。

 ここにあるのは薬の成分表だけだ。他者にこれだけ見られても、どうとでも言い逃れできる。だがアルバミリスが、本当に医者の口を割らせたとなれば別問題だ。

 隣国の国王は王妃を溺愛していたのだ。どんな報復があるか分からない。

 ここで握り潰さなければ。

 俺は真っ白になっていく顔色で、必死に今後の策を脳内で組み立てた。


 アルバミリスは両手で顔を覆い、長く息を吐き出す。

 そして虚な目でこちらを睨み、奥歯を噛み締めてから、唸るように吐き捨てた。


「……いい。我慢するのは、やめだ」


 彼女の声であるのに、まるで別人にも聞こえる声が、アルバミリスの声帯を震わせる。

 ソファーから数歩離れた彼女は、やはり臆することなく俺を凝視し、緑の目を苛烈に輝かせた。


「義姉さまの幸福が全てだったけれど、もう我慢するのは、やめだ。……次は誰にも渡さない」


 踵を返して応接室を出ていった彼女は、もう二度と、俺を振り返ることをしなかった。




 その後の事だ。

 隣国で王太子となったヴィスカーナ。

 国王から公務を学び、引き継いでいる最中、隣国では新種の疫病が蔓延したのだ。

 国交のあった国々が支援を行ったが、どの薬も効かず、国民は次々に病へ倒れていく。

 遂には国王も病に倒れ、ヴィスカーナが全ての引き継ぎを終えられないまま、帰らぬ人となってしまった。

 彼女は王位を継いだものの、未曾有の事態に解決する糸口が見出せないまま、状況だけが悪化していくことになる。


 

「……お久しぶりでございます、ダイアンス公爵閣下」


 数年ぶりに顔を合わせたヴィスカーナは、すっかり老け込んでしまっていた。

 真珠色であった髪は老婆のように灰色がかり煤けて、珠の肌は見る影もなく病人のようだ。

 俺はどんな顔で彼女を見ればいいのか分からず、視線をテーブルに逸らしたまま、曖昧に挨拶を返す。


 雨が降り出しそうなほど、厚い雲に覆われた午後。

 俺は母に呼び出され、ヴィスカーナの為に造園した庭園の、四阿に座っている。

 ヴィスカーナとの婚約が白紙になった後も、滞りなく庭園の工事は進められ、完成した場所だった。俺は途中で工事をやめるよう進言したが、母がそれを許さなかったのだ。


 針のむしろに座る心地で、俺はヴィスカーナを盗み見る。

 現在、どうして俺がここに座っているのか、理由が分からなかったからだ。


 学園を卒業した俺は、希望通り臣籍降下し、兄の下で働いている。

 隣国の王妃殺害に関与したことが、いつ露見するか。気が気でなかったが、なにもかもが目論見通り進んでいた。

 何より驚いたのが、アルバミリスが他国の婚約者と縁談を正式に解消し、母と男爵家の合意をもって、俺と婚姻したことだった。

 それまでの俺であれば、有頂天を極めていた事だろう。

 だがあの一件から、アルバミリスに生殺与奪を握られている俺は、以前のように彼女に熱を上げられないでいる。


 アルバミリスの機嫌を損ねれば、どんな未来が待っているか分からない。

 毎日、毎日、彼女の顔色を窺う結婚生活は、俺の精神を擦り減らしていた。


 相変わらず静かに、小さな音も立てずに気を配り、ティーカップを口元に持っていくヴィスカーナの所作は、美しい。


「……公爵閣下。ミス・ルトゥを知っていて?」


 ゆっくりと俺に視線を合わせた彼女は、そう言って微笑む。


「ミス・ルトゥを大切にした者には幸運が訪れる。逆に疎んで遠ざければ、その者には不幸が訪れる。……閣下は今、幸福でいらっしゃいますか?」


 彼女の言わんとする意図が掴めず、俺は返事が出来ないまま、唾を飲み込んだ。

 乾いた口内を湿らせない呼吸音が、酷く掠れて脳に響いていく。

 ヴィスカーナは隣国から連れてきた侍女を呼び寄せ、恭しく差し出されたトレーの上から、丸く平たい容器を受け取った。

 それをテーブルの上に置き、俺に見せつけるよう指でなぞる。


「我が国を苦しめる、疫病の原因がようやく判明したのです」

「……」

「それがこちらです」


 思わず視線を向けてしまえば、容器の中に入っていたものは、小麦の穂であった。

 しかし異様に変色したそれは食用とは言いづらく、俺は眉を顰めてヴィスカーナを見やる。


「この国から輸入した小麦です」

「…………え?」

「親しくしていらっしゃいますよね。この国の辺境伯さまは、有数の小麦生産者でしょう?」


 ヴィスカーナが穏やかな口調で伝えた内容に、俺は耳を疑った。

 小麦は隣国の主食。国民生活の一部だ。

 粗悪品だと分かっていながら、輸出額を減らせないと黙認されたせいで、今回の疫病が引き起こされたと言う。小麦だけが感染する病であったならまだしも、それが人間へと伝染してしまったのだ。

 しかもこの小麦の悪きところは、小麦粉にしてしまえば、見た目は普段と変わらないという点である。


「先に辺境伯さまの領地を視察させて頂きました。美しい小穂の海でした。納屋の中にこれを見つけるまでは」

「……待ってくれ、俺はそんな、知らな」

「ええ、そうでしょう。なのでわたくしは、閣下に申し入れたのです」


 カツ、と石畳を踵が打つ音が響いた。

 油の足りない器具に似た仕草で視線を向ければ、アルバミリスが石段を上がってくる。

 彼女が腰を折って片腕を差し出すと、ヴィスカーナは優雅な仕草で、その腕をとった。


「どうぞ、ダイアンス公爵閣下。辺境伯さまをお調べください。わたくしの言葉が妄言でないと、信用してくださるでしょう。……そこになにも、やましいことがないのなら」


 不自然に喉がなり、俺は唖然として目を見開いた。

 辺境伯領に捜査が入れば、俺が加担した件が周囲に漏れる可能性がある。

 一気に外交問題となり、俺も、俺を支持した他の貴族も、無事では済まされないだろう。そこに輸出した小麦の問題など加わったら、紛争に発展する危険性すらある。

 こちらが悠々自適な生活を営む傍ら、隣国は数年、多くの人間が死んでいるのだ。国民の怒りは計り知れないだろう。

 かと言って小麦の件を調べないなど、到底出来ない。この庭園には隣国の使用人も、事情を知らないこの国の従者も、多くの人間が話を聞いてしまっているのだ。

 真っ青な顔色の従者が、王城の中へ走っていく様子が視界の端に映る。

 俺は今や、ただの侯爵だ。それを止める権限も持たなければ、決定権もない。


 もはや何も考えつかないまま、呆然とテーブルを見つめる俺に背をむけ、二人分の足音が離れていく。

 追い縋ることも、引き止めることも、今の俺には何一つ出来なかった。



 ◇ ◇ ◇



「……そう」


 声を震わせる従者からの報告を聞き、わたしは窓から下階を見下ろした。

 慌ただしく行き交うのは、王城に勤める貴族だ。隣国からもたらされた一報は、城内を震撼させるに相応しい情報だったことだろう。

 わたしは従者に、辺境伯領を調査するよう指示を出す。

 そして室内にいる使用人達を下がらせ、一人、緩慢な動作でソファーに座り込んだ。


 途中まで順当に進んでいたはずだった。

 あの子の何がいけないのだろう。

 真珠色の美しい髪に、洗練された所作、優しく愛らしい声、目が覚めるほどの美貌。

 全てを持って生まれてくる、輝かしい我が義子の、いったい何が気に食わないのだろう。


 暫し疲労で意識が朦朧として、目蓋を閉じる。

 そうして程なく、扉が叩かれ、返事を待たずに薄く開かれた。


「……女王陛下」


 何度も聞いた声に顔をあげれば、美しい相貌を歪ませたまま、彼女は唇を噛み締める。

 隣には赤い髪を結い上げた令嬢が、彼女と腕を組んでいた。

 令嬢は真っ直ぐにこちらを見据え、双眸を細めて掠れた声を吐き出した。


、俺はもう我慢するのはやめる」

「…………」

「次はもう、義姉さまは誰にも渡さない。……俺が幸福に連れていく」

「…………そう、……そうね、アルバ。……わたしも、ダイアンスに期待するのは、もうやめるわ」

 

 わたしは薄く笑って視線を逸らす。

 第二王子であれば、この子を幸福にできると思っていた。

 事実、彼女の幸福は途中まで、確かに第二王子と共にあったはずだ。

 誰の目から見ても仲睦まじい。燃えるような愛はなくとも、心を潤す愛を育んでいけるはずだった。

 第二王子と結ばれれば、確かに女王として君臨することはない。莫大な富を動かす立場でもなくなる。しかし悲惨な結末を回避し、安泰な生活を営めたはずだ。

 、自分の立場は女王。上手くいくと思っていたのに。


 何度目か分からない溜め息を吐き出し、わたしはふらつきながら立ち上がる。

 書棚の上に飾られた小箱を引き寄せ、静かに二人の前に移動した。

 片腕に一人ずつ抱きしめ、今生での最期を惜しむ。

 次に目が覚めたとき、母であるか、父であるか、娘であるか、息子であるか、他人であるかも分からない。

 それに関してだけなら、今生は素晴らしかった。これほど我が子たちを側に感じるなど、最初の生以来であったから。


「……アルバ、永遠なる我が息子。次の生では男として、生まれますように」


 わたしは小箱に祈りを捧げ、彼女に手渡す。


「あなたの恋は、ここできっと、終わるでしょう」

「……はい、義母かあさま」

「ごめんなさい、……あなたの幸福に、寄り添いたかったわ」


 彼女は涙ぐみながらそれを受け取り、首を左右に振って、微かに口角を上げた。


「いいえ。百年の恋も冷めました。……わたくしは、わたくしの為にあってくれる人の為に、今度こそ生きようと思います」


 彼女は大きく息を吸い込む。そっと数秒、躊躇いを見せた後、厳かにネジを外して蓋を開けた。

 徐々に暗闇に覆われていく視界に、わたしは思わず二人を掻き抱く。

 次の世界では、きっと上手くいく。今度こそ幸福の終わりに辿り着いて見せる。

 

 涙で頬が濡れて、嗚咽が喉を焦がして塞ぐ。

 それでもわたしは緑の瞳を閉ざし、眠るように意識を手放した。

 




 * * *





「ミス・ルトゥを知っていて?」


 よく晴れた午後。

 白い鳥が羽ばたき、惜しみなく降り注ぐ太陽光の下。使い古した肌着を洗濯しながら、その名を口にした。

 農村の一角に設置された洗濯場は、四方を蔓性の植物に囲まれていて、程よい日陰とそよ風が肌を撫でる。木桶いっぱいに孤児達の洗濯物を抱えた俺は、目を瞬かせて母を見つめた。


「我が国に古くからある、伝承のようなものよ。ミス・ルトゥは緑色の目をした女性で、幸運を運ぶ、と言われているの」

「……緑の目」


 俺の声が震えた事に気がついたのか、母は目を細め、荒れた指先で己の前髪を後ろに払った。


「そう。ミス・ルトゥを大切にした者には幸運が訪れる。逆に疎んで遠ざければ、その者には不幸が訪れる。つまり、多くの人の意見に耳を傾け、邪険に扱ってはいけないとする教訓ね」


 俺は木桶を母の横に置き、自分も石鹸を片手に洗濯板を引き寄せる。

 水面に映るのは、赤い短髪に緑の目をした、年相応の少年だった。

 唇を引き結んで水面を睨み、黄ばんだ襟元に石鹸を刷り込む。母を手伝い四年もすれば、もう手つきは慣れたものだ。

 遠く、沿道を王族の馬車が通っていく音がする。心神深い王家のことだ、毎年のように各地の教会を巡礼する一環で、この農村に立ち寄ったのだろう。

 俺は馬車から降りてくる王族を、とりわけ小さな子供二人を睨んで奥歯を噛み締める。


「ああ、母さん。……心に刻んで、永遠に忘れないよ」

 

 母は視線を泡立った水面に戻しながら、静かな相貌で微笑んだ。

 


 


 

 


 

 





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ミス・ルトゥを知っていて? 向野こはる @koharun910

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