天罰必中暗闇姉妹 赤色編

村雨ツグミ

天罰必中暗闇姉妹 赤色編

 宝飾品会社の専務をつとめている金田ミサトは今日も一日の激務をこなし、入浴後の髪をドライヤーで乾かしていた。鏡に映る自分の顔は、20代の後半にしては若々しく見える。同僚からは色目を使って出世したと陰口を叩かれているが、ミサトは全て自分の実力で勝ち取った地位であると自負しており、そういった陰口は聞くに値しないひがみとしか思えなかった。

 開け放たれたベランダから流れてくる春の夜風が気持ちいい。その時ふと小さな黒い影が鏡の象によぎった。


「やーねぇ」


 蝙蝠だった。夜行性の蝙蝠は視力こそ弱いが、自身から発する超音波をソナー代わりにして空間を把握できる。蝙蝠は壁を避けながら、ミサトの部屋の天井を器用に旋回した。


「しっ!しっ!」


 モップで追い立てると蝙蝠は再びベランダから外へ飛び出す。しかし、ミサトは奇妙に思った。こうやって夜風を楽しむのは今に始まったことではない。蝙蝠が飛び込んでくることなど今まで一度も無かったのだ。だが、またしても小さな黒い影がよぎる。


「なんなのよ、もー!」


 今度は蝙蝠が二匹だ。再びモップを振り回したミサトは、蝙蝠を追い出すや、たまらずベランダを閉める。もしかしてどっかに蝙蝠が巣でも作って異常繁殖しているんじゃないかしら?明日マンションの管理会社に連絡しておくべきね。

 再び鏡に向き合うミサトは背後に足音らしきものを耳にする。しかし、ミサトは動じなかった。鏡に反転して映る自分の部屋には、誰もいない。何も変わったところはない。


「こんばんは」


 突然後ろから声をかけられたミサトは驚き、立ち上がりながら振り返った。その途端、口元を乱暴に片手で鷲掴みにされる。侵入者はもう片方の手の人差し指を自分の口の前に立て「シー」と彼女を制した。


「ご存知でしたか?吸血鬼は鏡に映らないんですよ」


 その時、口元を掴まれている掌から、電流のような波動が体に流れた。痛みも無いのに、ミサトは足の力が抜けてしまい、その場にへたり込む。

 ミサトは改めて侵入者を見る。タキシードを着ている。夜宴用のこの服は専ら黒か濃紺の生地なのだが、侵入者のそれは茶色のように見えた。すらっとした細長い体型と丁寧に整えられた短髪が服装とよく合っている。しかし最もミスマッチだったのは、彼女が女性であることだった。男装の麗人。それも、かなり若い。


「なに……!?なんなの……!?お金がほしいの?お金ならいくらでもあるわ!足りなければ後でいくらでも……」

「吸血鬼だと言ったばかりではありませんか。いただくものは一つしかありません」


 侵入者はゆっくりと首筋に口を近づける。


(血を吸われる……!)


 しかし、侵入者はゆっくりと、首筋から口を離していった。何を思ったのか、自分の人指指をミサトの額に向ける。


「いやぁ、やっぱり直接はキツイいですね。やめておきますよ、オバサン」


 その途端、侵入者の指が鋭く伸び、ミサトの頭蓋骨を貫通した。引き抜いた指にしたたる血を侵入者が舐め取る。


「さぁ、宴の時間ですよ。我が息子たち」


 その声を待っていたとばかりにベランダの窓が開け放たれ、無数の蝙蝠が部屋の中へと殺到していった。


「それでガイシャの身元は?」

「はい、ジュエリームラオカに務めている金田ミサト26歳、歯型でやっと確認できました」


 城西署刑事部捜査一課の警部補、田中は、同巡査の説明を聞きながらマンションの廊下を歩いた。巡査は引き続き田中へ状況を説明する。今朝、被害者が住むマンション管理会社より警察へ通報があり、金田ミサトがマンションの自室で死亡しているのが確認された。彼女の勤め先の会社が出社してこない彼女を不審に思い、マンションの管理会社へ確認してもらったのだ。発見された遺体は損傷がひどく、身元の確定に時間がかかった。体中に無数の傷あとが残り、さらに血液という血液を失って干からびていたのである。


「まったく手の込んだバラし方をしやがって、よっぽど恨みを買ってたんだろうな」


 とつぶやく田中は、悪魔や魔法少女を一切信じていない。彼は比較的悪魔による被害が少なかった地方から異動してきた刑事だ。最近起こった城西地区での悪魔襲撃事件(つまり同県で今年3度目の事件)でさえ、魔法少女を名乗るオカルト仮装軍団の集団テロと公言して憚らない。実際のところ多くの刑事は、公式には否定しているとはいえ、超自然現象が存在するのは明らかだと思っている。だがこのようなオカルト否定主義論者の田中は、世間体を気にする上司にとって都合がいい駒だった。


「そういえば中村巡査が先に到着していましたよ」

「なにぃ、中村がぁ?」


 田中の顔が歪む。田中と思想的に対極にいるのが中村であった。中村は長年城西署に努めており、悪魔たちの存在をごく自然に受け入れていた。しかし悲しいかな、田中は警部補、中村は巡査。立場の違いをいいことに、いつも田中は中村を「でくのぼう」といびっていた。とはいえ、中村本人が大の付くほど不器用な男なので、あながち田中ばかりを責められない。もうすっかり中年であるがこれといった手柄もなく、定年まで巡査のままだろうと署内では言われていた。

 田中が被害者の部屋へ入ると、ベランダに中村の姿が見えた。床を丹念にルーペで覗いていた中村であったが、膝を曲げず、腰ばかりをくの字に折り曲げ、水飲み鳥のような姿勢で田中に会釈する。


「あ、田中警部補、おはようございます」

(しゃがめばいいだろ、しゃがめば!)


 そう内心毒づく。


「ベランダに何かあるのか?」

「いやぁ、被害者が発見された時、ドアには鍵がかかっていたそうですからなぁ。犯人は鍵がかかっていなかったベランダから侵入したかと」

「……おい、中村。回れ右して外見てみろ」


 中村が言われた通りそうすると、マンションに面する道路がはるか下に見える。被害者が発見された部屋はタワーマンションの20階である。


「結構な高さです」

「お前が考えている犯人はスパイダーマンか何かか?」


 鏡台の前には、発見された被害者の場所を示す白い線が描かれている。そこにしゃがんで作業している鑑識班の一人が、田中の皮肉に吹き出しそうになる。


「あるいは空を飛んできたのかもしれませんなぁ」


 皮肉に皮肉を返すわけでもなく、あまりにも大真面目に中村が答えたため、とうとう鑑識班が笑い声をあげた。


「そんなわけないだろ、漫画じゃあるまいし。犯人はどうにかして合鍵を用意して中に侵入したに違いない。ガイシャに恨みをもってそうな筋を片っ端から調べろ。足を使うんだよ、足を。でくのぼうのお前にはそれしかできねぇんだから」

「あ、はい。承知しました」


 足を使うとは、すなわち聞き込みをしろという意味である。中村は肩を丸めてとぼとぼと出ていこうとしたが、急に振り返って田中に向き直った。


「漫画といえば田中警部補、最近妹に勧められまして読んだのですが、なかなかどうして面白いもので。『必颯必中閃光姉妹』と言うんですが、警部補もいかがですか?単行本最新刊となる7巻目が本日……」

「うるさい!さっさと行け!」


 田中は虫でも追い払うように中村を部屋からつまみ出した。田中は邪魔者がやっといなくなったとばかりに捜査官等へ指示をとばす。背中を丸めて出ていく中村は、懐から小さなビニール袋を取り出して、中に入っているものをルーペで観察した。


「……やっぱり犯人は空から飛んできたと思うんだがなぁ」


 中に入っているのは蝙蝠の糞だった。さきほどベランダの床に落ちていたのをピンセットでつまんで拾った物である。タワーマンション20階の高さを飛ぶ蝙蝠など自然には存在しない。ビニール袋には本日の日付がマジックで書かれている。その日付は、城南駅悪魔襲撃事件、すなわちグレンバーンたちが巨大蜘蛛の悪魔と戦った日の、数日前であった。


 村雨ツグミは見知らぬ部屋で目を覚ました。自分は今、ベッドで寝ているようだ。隣の部屋からベーコンを焼く匂いがする。カーテン越しに朝日が部屋に漏れた。ツグミは混乱して昨夜の記憶の糸をたぐる。まずは変わり果てた姿で発見された糸井コウジを思い出し、体が震える。糸井コウジを殺害した犯人、蜘蛛の魔女に襲われていたところを閃光少女グレンバーン/鷲田アカネに救われたのだ。全力で夜の闇を走ったツグミは、途中で耳鳴りがひどくなり、その場でうずくまって……

 その時、誰か別の人間が同じベッドで身動きするのを感じる。恐る恐る視線を向けると、そこには見知らぬ誰かが同衾していた。青みがかったショートヘアの誰か。中性的な顔立ちだったため一瞬少年かと思って焦るが、幸い(?)自分とほぼ同年代の少女のようだ。少女は寝返りをうち、ツグミの肩に頭を寄せる。


(え……ちょっと……!)


 少女の唇がツグミの顔に近づいてくる。


「ひゃあう!」


 思わず悲鳴をあげると、隣にあるキッチンから、セーラー服の上にエプロンをつけたアカネが飛び出してきた。


「あ、コラ!」


 ほどなくして寝室に置かれたちゃぶ台の上に、三人分のベーコンエッグトーストが並んだ。ツグミはちゃぶ台の前にちょこんとアヒル座りする。ツグミにとっては見知らぬ少女オトハはあぐらをかいて座る。これはまぁジーンズを履いているのだからいいとしても、この部屋の主であるアカネは、スカートでありながら、もっと豪快にあぐらをかいていた。なんとなくその事を指摘したいツグミであったが、先に聞かなければならないことが山ほどある。


「痛いな~まったく。何もフライパンで叩くことはないじゃないか~」

「アンタが悪いのよ、寝坊助さん」

「ツグミ先輩と一緒にベッドで寝るように言ったのはアッコちゃんだよ~?」


 アカネはここにいる三人の中で一番体が大きい。ソファーとベッドで寝る場所を割り振れば、消去法でそうなるしかなかった。


「あの、こちらの方は……?」

「紹介するわ。私の親友で、和泉オトハっていうの。それで……」


 なぜかそこで言葉が詰まるアカネであったが、それをオトハが引き継いだ。


「和泉オトハ、閃光少女アケボノオーシャンだよ~」

「ああ、あの時の……」


 ツグミは城南駅悪魔襲撃事件を思い出す。結界を張っていた少女だ。


「その節は助けていただいてありがとうございました。改めまして、村雨ツグミといいます」

「いいんですよツグミ先輩。我々はプロですから。ツグミ先輩の身の上は、ここにいるアッコちゃんからだいたい聞いています。よろよろです~」


 正体を言ってよかったの?とアカネの目が尋ねている。


「もうここまで巻き込んでしまったんだ。ツグミ先輩には全てを正直に打ち明けた方がいいよ」

「それはいいんだけど。ところで……」


 アカネがオトハを睨む。


「さっきからツグミちゃんのことをツグミ先輩ツグミ先輩って、慇懃無礼なんじゃない?」

「え?」


 オトハはわけがわからないといった表情をする。


「ツグミ先輩の学生証の話をしたのはアッコちゃんじゃないか」


 そう、ツグミが記憶喪失になる前に持っていた、高校の学生証である。


「そうよ、そこに高校1年って書いてあったの。だから私たちと同じ学年じゃない」

「いやいや、落ち着いて考えてよアッコちゃん。記憶喪失の前に高校1年だったのだから、記憶を失っている現在はそれより上じゃないか」

「……あ!」


 アカネとツグミの双方が気まずそうな顔をした。実はツグミは既にそのことを、本人なので当たり前であるが、承知している。年長者を『ちゃん』付けで呼ぶのはアカネの倫理に反していたが、もはや引くに引けないアカネはビシッとオトハに指さす。


「ア、アタシが先に『ツグミちゃん』って呼んだんだから、アンタもそれに合わせなさい!」

「うぇ~むちゃくちゃだよ~」


 アカネとオトハの前に置かれていた皿は空になった。しかし、ツグミの皿に置かれたトーストは、まだ半分以上も残っている。


「ごめんなさい、食欲が出なくて……」

「謝らなくてもいいわよ。昨夜はあんなことがあったんだもの。無理もないわ」


 アカネとオトハはまず、昨夜のその後についてツグミに説明した。蜘蛛の魔女を倒し、暗闇姉妹が去った後、グレンとオーシャンは、その後応援にかけつけた警察官たちにも協力を依頼し、糸井アヤとツグミを探したのだ。ツグミは河川高架下付近で発見した。おそらく暗闇に足を滑らせ、転がり落ちて気絶したのだろうと想像する。しかし、糸井アヤの方は見つからなかった。


「わからない……どうしてアヤちゃんとお父さんが魔女に狙われたの……?」


 アカネ達は顔を見合わせる。魔法少女の淑女協定には反するが、やはり伝えておくべきだろう。


「アヤちゃんは閃光少女ガンタンライズなのよ」


 ツグミが驚いたのは言うまでもない。オトハは山奥の隠れ場所でアカネに説明したことを、再びツグミに説明した。誰かが閃光少女を誘い出して、一人ずつ消していたらしいということを。


「探偵さんから連絡があってね。やっぱり誰かが私たちを追跡していたらしい。その追跡者がガンタンライズを監視しているらしいことがわかって、慌ててライズ、つまり糸井アヤに電話したんだ。でも、その時には、もう……」


 どうなった、とはオトハは言わない。どうなったのかはわからないからだ。だが消えた閃光少女のうち、無事に帰還した者は誰一人いない。無傷で誘拐されていると考えるのは、昨夜聞いたアカネの話による、アンコクインファナルの気性難ぶりを考えると、希望的観測があまりにも過ぎるだろう。


「私が悪かったのさ。ガンタンライズがどちらの側についているのかと疑って、警告が土壇場まで遅れてしまった。保身が過ぎたのさ」

「それは結果論よオトハ。あんたが私よりも先にアヤちゃんに連絡をとろうとしたことは知ってる。もしも保身に走るつもりなら、ガンタンライズを囮にして私たち二人だけで逃げることだってできたはずよ。けど、あんたはそうはしなかった。結果論で後悔するなら、アタシだって、アヤちゃんを一人にしちゃった事を後悔しているわ……」


 すすり泣く声を聞いて、閃光少女の二人は言葉を切る。ツグミが目を閉じて、静かに泣いていた。


「アヤちゃん……」


 時計は午前7時30分を指している。


「ごめんツグミちゃん、アタシたち学校があるから……」


 アカネとオトハは外へ出た。そこはアカネが一人暮らしをしているアパートである。ツグミの身を、魔女に対して無力な警察に預けることはできなかったし、ましてや糸井家に残すことはできないので、保護するとしたらここしか思いつかなかったのだ。


「ちょっと気になっていることがあるの」


 とアカネはオトハに尋ねる。


「今までの事件は、その場に現れた閃光少女たち全員が消されていた。でも、今回はピンポイントでライズ、つまりアヤちゃんだけを狙ってきたわ。おかしくない?まるでもう目星がついていたみたいに。それにアンコクインファナルよ。あの女の性格からして、第一に襲いたかったのはアタシのはずだわ。実行犯のはずなのに、どこか計画に他人事みたいだったし」


 それに、と続ける。


「インファナルが犯人だとしても、犯行がちぐはぐなのよ。閃光少女たちは人知れず消えていた。でもアヤちゃんのお父さんは見せつけるようにズタズタになっていた。きっと駆けつけた二人の警官も、そうなるところだったわ。でも、あいつの性格からすれば、そっちの方が正しいのよ。閃光少女たちこそ晒し首にしなければ気が済まない女だから。考えられるとしたら、実行犯が複数いるか、少なくとも犯行方法を指図する黒幕が、やはりいるはずだわ」


 ここまで話した時、アパートの中からツグミが出てきた。


「昨夜のことで思い出したことがあるんだけど……」


 ツグミが言うには、蜘蛛の魔女、アンコクインファナルがリビングでツグミを嬲っていた時、彼女に電話が入ったというのだ。その会話の内容を想像するに、やり方を指図されていたこと、そして何かを探していたことなどもわかった。そもそも誰かと電話をしている時点で単独犯ではない。アカネの推論が裏付けられていく。


「写真?」


 インファナルが死体の写真を撮ったというのである。オトハはむしろそのことが気になった。なぜ父親の死骸を写真に残さなければいけないのか。考えられるとしたら、それは恫喝の材料だ。ガンタンライズに無惨な父親の写真を見せ、要求を飲まなければお前の大切な人を次々にこうしてやるぞ、と脅すのだ。本人を拷問するよりずっと効くだろう。そうなると、インファナルが次にツグミの命を執拗に狙ったことも説明がつく。そして逆に言えば、恫喝する対象、つまり。


「糸井アヤはまだ生きているかもしれない!」


 そうオトハが叫んだ時、ツグミの目に再び光が宿った。


「ねぇオトハ、まずは敵の人数が知りたいわ。糸で切り刻む奴、人知れず消す奴、他にも人間では不可能な殺され方をされた被害者を調べていったら、それがわかるんじゃないかしら?例の探偵に頼めない?」

「合点承知の助。後で私から連絡しておくよ」

「ツグミちゃん、敵の正体はまだわからないわ。怪しい人には気をつけるのよ」


 そうして三人はそれぞれ別行動を開始した。といっても、オトハはともかく、ツグミは留守番をするだけだし、アカネは学校へ行くだけではあるが。


(ああ、そっか)


 アカネは一人、バス亭に立ちながら思う。声をかける者は誰もいない。


(アヤちゃんがいないって、こんなに寂しかったんだ)


 学校へ着いたアカネは、よりにもよって一番会いにくかった人物と校門前でばったり会った。空手部顧問の寺田である。昨夜無理やり車で送らせたあげく、車の窓枠に頭を叩きつけて気絶させたのだ。その頭には新しい包帯が巻かれている。


「あ、あの……おはようございます、寺田先生」

「おはよう!アカネ君!」


 昨夜の事を怒られるかと思いきや、以外にもそうして爽やかな挨拶を返す。


「あの、頭の包帯……」

「ああ、これか!どうやら先生は夢遊病になっていたらしい!気がついたらどこともしれない駐車場で目を覚ましたよ!きっとその時、車のどこかへ頭をぶつけたに違いない!」


 退学を覚悟していたアカネは安堵した。どうやら上手い具合に寺田は記憶喪失になったらしい。これなら寺田に次の質問をしても差し支えあるまい。


「先生に聞きたいことがあるんです。昨日試合をした神埼先輩とお話がしたくて。先輩は3年の何組でしょうか?」

「1組だが今日は病院へ行っているから休みだ」

「えっ!?」

「あ、いや、違う違う!昨日の組手とは関係ない!」


 そこはさすがに寺田も空気が読めるらしい。


「一種の持病なんだ。月のうち何日かは病院へ通う必要があるが、夕方には家に帰ることになっている。住所を教えるから、お見舞いがてらに顔を出してあげたらどうだ?」


 アカネにとっては願ってもないことだった。


「きっと、そうします!」

「君の空手熱が戻ったと聞いたら神埼君も喜ぶだろうからな!」


 残念ながら、そこは記憶から抜け落ちなかったらしい。


 アカネが神埼先輩にどうしても話をしたかった理由はただ一つだ。昨夜現れた暗闇姉妹にまつわることである。地を這うようなステップイン、縦拳による怒涛のインファイト、投げながら極める関節技。そのどれもが、神埼の戦い方と酷似していた。いくら魔法少女の服装が認識を阻害するといっても、戦い方まではごまかせない。神埼先輩は暗闇姉妹と近しい関係にあるか、暗闇姉妹本人であるとしか思えなかった。

 そう考えると、それを示す状況証拠がさらに思い浮かぶ。アンコクインファナルと共に変身前の暗闇姉妹を見上げた時、インファナルは明らかに鼻で笑っていた。もしもインファナルが線の細い神埼先輩の体を見てもそうしただろうし、自分から見てもやはり小柄な少女に見えた。そういえばツグミも小柄だが、命からがら逃げ出した後、あの場に舞い戻るなんてありえない。ツグミは実際、後で高架下から見つけたではないか。

 授業中もそんな想像が頭をグルグル回り、気がつけば正午のチャイムが鳴る。


「ああ!!」


 突如そう叫んで青くなるアカネを、まるで猛獣を見るように生徒たちが固まる。


「しまった!ツグミちゃんの昼ごはん!」


 用意していないのである。せめて冷蔵庫に残り物があればよかったのだが、基本的に日中は学校にいるアカネは、食べ切れる量だけ食材を買うようにしているので、つまり今は空っぽだ。出前くらいとれるようにお金でも置いておけばよかった。


「どうしよう!ツグミちゃんのご飯!」

「落ち着いてよ~なんの話かわからないじゃないか」


 携帯電話ですぐさまオトハへ連絡したアカネは、そうたしなめられる。事情を聞いたオトハは「あ、それなら」と話す。


「例の件だけど、まずは城西地区の事件を調べてもらうように探偵さんに依頼したんだ。ついでにツグミちゃんも助手として連れて行ってもらうように頼んでおいたよ。アパートにずっといるよりも、あるいは安全かもしれないからね」

「そういえば魔法少女だって言ってたわね、その探偵」

「そうそう。ちょっと変わった子だけど、ああいう子の方が、今のツグミちゃんを元気づけられるかもしれないし」


 人間には不可能な殺され方をした被害者を調べること。城西地区から回ってもらうのは、城南地区はアカネとオトハで調べられるからだ。というより、そんな猟奇的な事件が起きれば、二人の耳にすぐ入るだろう。まずはそこを起点にして、後に城北、城東方面へも回ってもらうつもりだ。


「アンタがそう言うんなら、任せるわ」


 オトハは携帯電話を切ってポケットにしまう。余談だがオトハが通う高専は私服で通えるので、アカネのアパートから寮に戻ってジーンズとパーカーを着替えていた。


「ねぇねぇ、和泉さん。ちょっとこの問題を教えてほしいんだけど」

「どれどれ~」


 教室でクラスメイトたちとそんな会話をしていると、再びポケットの携帯電話が震える。


(も~アッコちゃんったら心配性だな~)


 しかし携帯電話に表示される文字を見てオトハが固まる。非通知設定?オトハは無言で電話に出た。


「アケボノオーシャンね?」


 聞いたことのない少女の声がする。


「そういうあなたは?」

「オウゴンサンデー」


 オトハはその名前をよく知っていた。


「あなたに大切な話があるの」


 教室にいるクラスメイトたちの顔を見回す。この会話は聞かれない方がいい。


「ごめんなさいだけど、後でかけなおしてくれるかな」


 食欲が回復したツグミは残していたベーコンエッグトーストを完食し、三人分の皿を洗剤で洗った。ガンタンライズ/糸井アヤが生きているかもしれない。その可能性が彼女の心を支えた。とはいえ、今でも気分が落ちこんでいるのもまた事実。食器を片付けた後、またベッドで眠らせてもらおうかと考えていた。その時である。

 アパートのチャイムが鳴る。ツグミは緊張する。誰だろう?そもそも自分がいるのはアカネのアパートだ。彼女は日中を学校で毎日過ごしているのだから、午前中のこんな時間に誰かが訪ねてくるのはおかしい。

 ツグミはドアの覗き窓から外を覗く。ドアの前にいる人物は体の線の出ないトレンチコートを着用し、マスクとサングラス、さらには帽子で顔を隠していた。


(怪しい)


 怪しさのバーゲンセールのごときその人物は、首をかしげながら何度もチャイムを鳴らす。


(早くどこかへ行って)


 ツグミの願いが届いたのか、しばらくすると謎の人物は姿を消した。ツグミはたっぷり一分は待ってからドアを少し開いてみた。その隙間から、本当にさっきの人物がどこかへ行ったのかうかがう。

 すると突然、ドアの隙間に靴が差し込まれた。ビックリして顔を上げると、マスクの人物がこちらを見ている。


「きゃああっ!!」


 驚いたツグミは目の前の人間が着ているトレンチコートの襟を掴み、乱暴に引っ張って相手の顔をドア枠に叩きつけた。


「!?」


 ドアの隙間に挟んでいた靴が外れ、ツグミはあわててその隙間を閉める。顔をしたたかに打った謎の人物は、しきりと鼻を押さえて痛みに悶えている。さらにその人物の受難は続いた。

 バーンとドアが内側から蹴り開けられる。そこには野球のバットを持ったツグミが仁王立ちしていた。


「やあああっ!!」

「ウワああっ!?」


 アパートから飛び出したツグミは雄叫びを上げ、バットを振り回しながら怪人物を追いかけ始めた。悲鳴を上げて逃げる怪人物とツグミの追いかけっこはしばし続いたが、間もなく石につまずいた謎の人物が盛大にずっこけた。その勢いで顔からサングラスが外れ飛ぶ。まもなくツグミが追いつく。


「ま、待ってください!!待ってください!!話せばわかる!!わかります!!」


 少し様子が妙だと思ったツグミは振りかぶっていたバットを少しずつ下ろした。女性の声である。彼女はツグミを刺激しないように、ゆっくりとマスクと帽子も外す。自分とさほど年齢の変わらない少女だった。帽子からこぼれ出た髪は、ヘアスタイルこそよくあるミディアムストレートのぱっつん前髪であったが、その毛は銀色に輝き、エキセントリックな印象を少女に与えていた。


「ワタクシ、こういう者です」


 ツグミは差し出された名刺を受け取り、その文字を読む。


「探偵さん?」


 たしかにそう名刺には書かれている。


「そうです!ワタシは中村探偵事務所、所長の中村サナエです!閃光少女のアケボノオーシャンさんから依頼を受けて、あなたと一緒に事件を捜査することになりました!」


 少女は立ち上がり、そう元気よく挨拶する。


「あなたも閃光少女なの?」

「いえ、ワタシは魔法少女ではありますが、閃光少女ではありません。……ちょ、待って!魔女でもありませんよ!」


 ツグミの持つバットが少し持ち上がった気がして、慌ててそう付け加えた。


「いや~オーシャンさんからは小動物のような少女と聞いていましたが、意外と凶暴でしたね~。前世はアライグマですか?」


 ツグミはちょっと恥ずかしそうにバットを背後へ隠しながら尋ねる。


「閃光少女でも魔女でもない魔法少女ってどういうこと?」

「そのどちらでも無い第三の魔法少女ですよ。まぁ、それは追々説明しましょう。ワタシはあなたのボディガードも請け負っています!鉄の船に乗ったつもりで安心してください!」

(その船、沈んじゃったりしないかな……?)


 ツグミは一抹の不安を覚えた。


 一旦アカネのアパートに戻ったツグミは出かける準備をした。これから私立探偵の中村サナエと一緒に、城西地区で起こった魔法少女による犯罪を調査するのだ。正直に言えばとても怖かったが、その調査が糸井アヤの救出につながるなら本望だ。それに、魔法少女ではない自分には、それくらいでしかアカネたちに貢献することができないだろう。頑張るしかない。ただし、バットはもちろん置いていく。


「すみません、お待たせしました」


 ツグミがアパートの階段を降りると、ニコニコした笑顔で立っているサナエの横に、大型バイクが停まっていた。右半分が銀色に、そして左半分が赤色に塗装されたスポーツバイクである。流線型のカウルが太陽の光を反射して輝く。


「悪魔のチューナー西ジュンコ特製カスタムバイク、その名もマサムネリベリオンです!」

「わ!わ!カッコいい!」


 ツグミがそうやって目を輝かせると、そのバイクは満足そうにエンジンをふかした。しかし、その横で突っ立っているだけのサナエがスロットルを操作したようには見えない。不思議に思ったツグミが再び「カッコいい!」と呼びかけると、今度はエンジンを3回もふかせた。


「すごい。このバイク、生きているみたい」


 前方を向く二つのライトが眼のようにも見えてくる。


「本当に生きてるんですよ。ワタシには不要な機能だと思うんですけどね。かわいい女の子を見るとすぐデレデレしちゃって……痛い!足を轢かないで!」


 マサムネリベリオンと戯れるサナエにツグミが尋ねる。


「この子に乗って城西地区まで行くんですね?」

「そうです!高速道路に乗れば1時間で着きますよ。早速行きましょう!」


 リベリオンは二人の少女を乗せ、西に向かって走りだした。


 高速道路に入ったサナエは、器用に走る車の群れを縫っていく。タンデムシートでサナエに後ろから抱きつきながら、ツグミは問いかけた。


「中村さん」

「サナエでいいですよ」

「サナエさんが、閃光少女でもなく、魔女でもないって、どういうことですか?」

「怖がったりしませんか?」

「怖くないです」


 ツグミはこの、おっちょこちょいで憎めない、どこまでも根が明るい少女が好きになっていた。今のツグミは、もしもサナエが魔女だったとしても、あるいは悪魔そのものだと答えても、きっと信用するだろうと思った。しかし、サナエの答えはそのどちらでもない。


「実は、ワタシは悪魔人間なんです」


 ツグミは耳を疑う。何かとんでもないことを言われた気がする。


「『悪魔人間』、悪魔と人間が合体した魔人ですよ。悪魔と人間のハーフとか、悪魔を使役する人もそう呼んだりしますね。とても数が少ないから、魔法少女でも、知っている人はごくわずかですよ。ワタシは人間で言うところの、子供の頃に合体しました」


 悪魔と人間って合体できたんだ。じゃあ悪魔って何なのだろう?そう思ったツグミはサナエに尋ねる。


「どうして悪魔と合体を?」


 あるいは、どうして人間と合体を?でも意味は同じだ。ヘルメットを被って前をむいているサナエの表情はわからないが、背中を震わせながら笑っている。


「うふふ。どうしてでしょうかね?」


 城西地区へ到着したサナエたちは、市街にある立体駐車場にバイクのリベリオンを停めた。


「さぁ、ここからは足を使って捜査です!」

「サナエさん、歩く方向が反対だよ。出口はあっちだよ?」

「大丈夫!近道です!探偵の捜査は時間との勝負!」


 出口とは反対方向の突き当りまで来ると、サナエは手すりを飛び越えて、パルクールのような敏捷な動きで、身軽に下へと降りていった。ツグミは感心する。


「すごい……!」


 だがアクシデントが起こった。


「ワンワン!!」

「ほぎゃーっ!?」


 駐車場に隣接した民家のブロック塀越しに犬が吠えたのだ。大きなゴールデンレトリバーが、まるで同族を見つけて喜んでいるように尻尾を振っている。


「サナエさん!?大丈夫!?」


 墜落して地面に貼り付いているサナエが親指を立てる。


「大丈夫デース……」


 ツグミが周りを見回すと、すぐ側に非常階段が付いていた。


「私はこっちから降りるね……」


 二人は揃って街を歩く。ツグミがサナエから預かっているファイルには、さまざまな要因で不可解な死を遂げた人物たちのデータが揃っている。彼らの関係者のところを回り、情報を集めるのだ。


「でも、その人たち、私たちなんかに話してくれるかなぁ?」


 ツグミの心配はもっともであった。傍から見た彼女たちは、気弱そうな娘と、トレンチコートに身を包んだ探偵もどきである。しかしサナエは胸を張る。


「大丈夫です。ワタシにまかせてください!」


 とある民家の前でサナエたちは止まった。全身の血液が無い状態で見つかった死亡事件の、第一発見者の自宅だ。


「変身!」


 サナエがそう叫ぶと、彼女の容姿がどんどん変わっていった。銀髪の少女のかわりにそこへ立っていたのは、背が大きく、小太りで、冴えない顔をした猫背の中年男性だった。


「そこで待っていてください」


 声まで男性になっている。そのまま玄関の中へ入っていった。


「城西署の中村です」

「まぁまぁ、中村さん!いらっしゃい!」


 中からおばさんの声がする。


「ちょっとお伺いしてもよろしいですか?」


 そのまま二人の声が家の奥へ引っ込んでいく。しばらくすると二人は玄関に戻ってきた。


「どうもすみません、お茶までごちそうになって」

「いいんですよぉ!いつでも飲みに来てください!」


 見送りに出るおばさんの顔が消えると、サナエは少女の姿に戻って紙切れをツグミに差し出す。


「これがワタシの能力、『変身』です!ツグミさん、このメモをファイルに挟んでおいてください」

「すごい……!」

「さぁ、どんどん行きましょう!」


 二人はそうやって関係者の自宅、オフィス、飲食店などを巡り、情報を集めていった。


「でも警察だなんて嘘をついて大丈夫?話を聞いた人たちが城西署に電話したらすぐバレちゃうよ?」


 ツグミは心配そうに聞いた。


「大丈夫です!実はワタシの兄、中村ジュウタロウが、この城西地区の刑事なのです。あんまり無茶さえしなければ大丈夫ですよ!」


 実際、大丈夫である。というのも、先ほどサナエ達が訪問したお宅では、本物の中村ジュウタロウが訪れてこんな会話を交わしていた。


「すみません、奥さん。少しお話を伺いたいのですが?」

「あらやだ中村さんったら!さっき来たばかりなのに、もう話の内容を忘れちゃったんですか?」

「あちゃー、そうでしたっけ。あんまり歳はとりたくないものですなぁ」

「いいんですよ。何度だってお茶をいただいていってください!」


 このでくのぼうの刑事は、意外なほど街の人間から愛されているようだ。


「おぅ、中村!」


 中村ジュウタロウの姿で歩いていたサナエとツグミは、ばったり別の刑事と鉢合わせした。しかし幸い、サナエはその人物を知っていたようだ。


「これはこれは、田中警部補」


 サナエはペコペコと頭を下げる。


「この娘は?」

「ははぁ。ちょっと聞き込みをするついでに迷子の道案内を」

「ふーん」


 ツグミは田中とは初対面だったが、この傲慢そうな刑事がすぐに嫌いになった。


「例の件の聞き込みは順調か?」

「はい、足が棒になるまで調べ上げる所存です」


 サナエは何のことかわからなかったが、調子を合わせる。


「お前のようなでくのぼうはそれくらいしか役に立たないんだ。せいぜいしっかり励めよ?ハハハハ!」

「はい、ありがとうございます」


 ぺこぺこと頭を下げて微笑していたサナエだったが、そうやって肩を叩いた田中が立ち去ろうとすると、背中を向けて歩く彼に、鬼の形相で殴りかかりそうになった。ツグミは慌ててサナエを止め、路地裏まで引っ張り込む。なにげなく後ろをふりむいた田中であったが、幸い何も気づかなかったようだ。


「落ち着いて、サナエさん」

「実の兄を馬鹿にされて、キレない妹はいねぇ!!」


 少女の姿に戻ったサナエが、目を血走らせて抗議する。


「さっきの刑事さんの話だと、たぶん本物の中村ジュウタロウさんも聞き込みをしているんだよ。鉢合わせしないように気をつけないと……」


 そうサナエに語りかけていたツグミが、ふと路地裏に捨てられていた週刊誌を見つける。


「サナエさん!もしかしてお兄さんのジュウタロウさんは、この事件を調べているんじゃない?」


 サナエもその週刊誌を拾い上げた。こちらの世界でも、週刊誌は衆目を引くように大げさな見出しをつけている。そのタイトルもずばり「恐怖!吸血鬼あらわる!!」などとオーバーに書かれているが、新聞では黙殺される悪魔の尻尾が、ここから見つけられるかもしれない。


「あった。このページですね」


 事件の詳細を読むと、タワーマンションの20階に住んでいた20代後半の女性が、全身の血液が抜かれて死亡していた、とあった。続けて、もしもオカルト否定主義の田中警部補が読めば、噴飯するような憶測がならぶ。ツグミは既視感を覚えてファイルをめくる。


「ねぇ、サナエさん。これって、似ている事件が多くない?」

「最初に聞き込みをしたアレもそうですね」


 人間には不可能な殺人といっても、その中には不運の積み重ねで起こった事故とも想像できる案件も多かった。しかし。全身の血を抜かれて殺される。こればかりは他の事件よりも異彩を放っている。


「これは私の勘だけど……」

「きっとワタシも同じことを考えていますよ」


 二人は顔を見合わせる。


「この事件には」

「魔女が関わっている」


 城南高専の校舎裏で、オトハはずっと待っていた。オウゴンサンデーからの連絡を、である。オトハがオウゴンサンデーに指定した時間になれば、昼休みは終わり、外で遊んでいる生徒たちも教室へ集まるはずだ。オトハ自身は午後からの授業をサボる形になってしまうが、致し方ない。「非通知」と表示された携帯電話が震える。時間ぴったりだ。


「もしもし、アケボノオーシャンですが」

「オウゴンサンデーです」


 先ほどと同じ声だ。


「まず一ついいでしょうか?あなたは私のことを知っていますか?」

「ご冗談を。あなたのことを知らない閃光少女なんて、誰一人いないでしょう。最強の閃光少女さま」


 最強の閃光少女、人類の救世主、悪魔も泣き出すハンター、世界を変える魔法使いetc.

 彼女を表す異名は数え切れないほどあった。20世紀末に起こった最終戦争。もしも彼女がいなければ、人類は、今の悪魔がそうであるように、絶滅の危機に瀕していたに違いない。本人の魔力も強く、将器もある。それだけではない。


「今でも時間を止められたりする?」

「はい」


 サンデーは気負うこと無く答える。それが彼女の特質点だった。時を止められる魔法少女は、もしかしたら彼女一人ではないかもしれない。だが、強さも併せ持つとなると別だ。この両立をなしているからこそ、彼女は最強でありえた。


「私の強さはよくご存知であると思います。それに、私に賛同する同士は、閃光少女、魔女を問わず、大勢います。それはわかりますね?」

「おお~、それはとっても怖いですね。それで、私ことアケボノオーシャンちゃんに何の御用でしょうか?」


 恫喝であることはよくわかっている。問題は目的だ。


「この件から手を引いていただけませんか?」

「何の件?」

「ガンタンライズのこと。それに、あなたも見たはず。暗闇姉妹のことです」


 ここから遠く離れた場所。暗い部屋の中で、橙色の法衣に見を包んだオウゴンサンデーが、受話器に語りかける。


「我々はトコヤミサイレンスさえ手に入ればそれでいいと思っています。こちらの身辺を嗅ぎ回るような行為はやめていただきたい」

「……へぇ、あの子、トコヤミサイレンスって言うんだ」


 サンデーは、少し喋りすぎたような気がした。少し沈黙し、言葉を続ける。


「閃光少女たちが次々と消えたことで、あなたが不安になったことは、よくわかります。ですが、それはもう終わったのです。あなたさえ手を引いてくだされば、あなたとグレンバーン、二人には手を出さないと誓います」

「ガンタンライズは?」

「あきらめてください。彼女は死にました」


 オウゴンサンデーはこともなげにそう言った。それを聞いたオトハは、目を閉じて深呼吸をする。そして答えた。


「嘘だね」


 しばらく沈黙してサンデーが返す。


「嘘ではありません。彼女はもう用済み……」

「いいや、違うね」


 オトハは続ける。


「あなたたちは何かしらの目的があって閃光少女を消してきた。その目的まではわからない。けれど、その途上で暗闇姉妹が実在する証拠を掴んだのさ。当ててあげようか?ガンタンライズがその道標なんだ。トコヤミサイレンスの正体を知っているか、あるいは彼女を制御する鍵になっている。トコヤミサイレンスを手に入れることで当初の目標を上回る成果を得られると判断したあなた達は、だから計画を変更した」


 オトハは確信を突いた。


「だからあなたはまるっきりあべこべの事を言っている。ガンタンライズは死んでいない。だがトコヤミサイレンスをあなた達の手に渡したら、その時こそ用済みになって死ぬことになる。ガンタンライズを死なせたくなかったら、私たちは手をひくどころか、暗闇姉妹を守らなければならないんだ」

「そんな力があなたにあるとでも?」


 サンデーの語気にわずかに怒りがこもる。


「……無いだろうね。まったく勝算はない」


 力無くそう言うオトハ。電話の向こうでサンデーが微笑むのがわかる。


「ねぇ、アケボノオーシャン。世界には新しい秩序が必要なのです。新世界秩序が。あなたならわかるはずです。有能な魔法少女が、今の社会でどのように扱われているのかを。真実を見る眼の無い者が世界を牛耳るがゆえに、我々は日陰を歩いています。力ある者が無視され、才あるものが捨てられる。ただ古いだけの因習に従い、進歩しようとしない者が王となる。そんな世界を変える手伝いを、あなたにもしてほしいのですよ」

「なるほど、力あるものがそれを存分に振るい、才あるものが社会を変革する。なるほど、なるほど。それは素晴らしい世界だ。感動すら覚えるよ。あなたが言うそれは、まさに世界が進むべきことわりだ。その提案を断るなんて正気の沙汰ではない」


 そこまで喋りオトハは瞑目する。次に出る自分の言葉は、もしかしたら自分とアカネ、それにアヤとツグミを地獄の底へと叩き落としてしまうかもしれない。だが眼を開いたオトハは覚悟を決めた。


「お断りだね」

「は?」


 オトハはガンタンライズ/糸井アヤのことを想う。ただ誰よりも人々の幸せを願い、闇を照らす閃光のように生きた少女を。その幸せを無惨にも崩壊させた理不尽を。オウゴンサンデーが消した少女の数だけ、それが存在することを。


「力あるものが弱者を凌辱し、才あるものが、そうでない者を蹂躙する。あなたの望む世界の正体はそれだ。その世界で涙を流す者は、一体誰に頼ればいい?それが本当に世界が進むべきことわりだとしても。私は嫌だ。そんな世界を私は認めない!私たちだけは、絶対に許さない!!」

「……」


 しばらく沈黙していたオウゴンサンデーが語りかける。


「人が死にますよ?」

「舐めるなよ。私はグレンバーンとは違う」

「ねぇ……教えていただけませんか?私はいつあなたを怒らせてしまったのでしょうか?」

「とっくに逆鱗に触れているよ」


 電話が切れた。オウゴンサンデーは受話器に耳を当てたまま、しばらくの間繰り返される電子音に耳を預ける。やがて電話を置くと、賛同者とは名ばかりの、事実上の部下に命令した。


「やりなさい」


 オウゴンサンデーとの通話を切ったオトハはその場に座り込んだ。


「あ~やっちゃったな~これは完全に宣戦布告だよ」


 オトハはサンデーに、こちらには勝算は無いとハッキリ言った。その言葉にはまったく嘘偽りがない。だがそれでも、仲間の中で戦略を考えられるのは自分しかいない。まずは彼我の戦力差を整理する。

 まずは自分ことアケボノオーシャン。贔屓目があるかもしれないが、閃光少女としての実力は、相撲の番付で言うところの小結クラスはあると自負している。だが、対するオウゴンサンデーはまさに横綱だ。

 グレンバーンはどうか?時を止められようが焦熱地獄に叩き込める可能性がある彼女は大関といえる。まさに切り札のような存在だろう。だが、アウェーな環境では、幕下に寄り切られるほど一気に脆くなる弱点があった。

 番付不明のダークホースがトコヤミサイレンスだ。というより、厳密には敵か味方かさえハッキリしていない。だが、敵になった時点で、こちらはあらゆる意味で詰みだ。


「なんとかこの戦況をひっくり返せないか」


 オトハの脳裏をよぎるのは城西地区で調査を続けているであろうサナエとツグミだ。事ここに至っては、情報を握っていることが生死をわけるに違いない。もしもオウゴンサンデーに奇襲をかけることができれば、戦局を一気に覆せるに違いない。


(スイギンスパーダ……?)


 オトハはもう一人だけ戦力となる魔法少女に心当たりがあった。だがオトハは、そのスイギンスパーダが本気で戦うところを見たことがない。状況が状況だけに、足手まといになるくらいならかえって味方には引き込みたくないものだ。しかしそれはそれとして、悪魔にも顔が利くスイギンスパーダの人脈は役に立つかもしれない。


「この際、魔女だろうが、悪魔だろうが、こちらに味方してくれる人材を集めなくっちゃね」


「そうだ、アッコちゃんに……」


 アカネにこの件を連絡しなければ。携帯電話を構えたが、その手が止まる。こんな会話を周りに聞かれたら困るのはアカネも同じだ。かといって、ここでガンタンライズの時と同じ轍を踏むわけにはいかない。最も確実なのは、自分が早退してアカネの高校までスクーターをとばすことだ。


「遅刻してすみませーん」


 オトハは教室に入るなりにそう言う。


「和泉オトハ、お腹が痛いので早退しま……?」


 教室にいる生徒も、さらには先生まで、隅に置かれたテレビの前でざわめいている。その隙間から、チラチラと「城西」という文字が見えた気がした。胸騒ぎを覚えたオトハはテレビに近づき、その映像を見る。その瞬間にオトハは、頭髪が逆だっているのが自覚できるほどの怒りを覚えた。


(そうか……そういう事をするのか!オウゴンサンデー!!)


 たしかにオウゴンサンデーは言っていた。


「人が死にますよ?」


 同時刻、アカネもまたクラスメイト達とその映像をテレビで見た。


「どうしたらいいのよ……」 


 アカネもまた愕然としている。


(城西地区には今、閃光少女が一人もいないのよ……!!)


 時刻は30分ほど遡る。

 城西地区での捜査を続けているサナエとツグミはひとまず昼食をとることにした。念のため、なるべく奥のテーブル席に座るが、慌ただしい店内はだれも二人の少女に気をかけていなかった。


「奢ってあげるなんて大口を叩いておりましたが、牛丼でスミマセン。どうしても持ち合わせがなくて……」

「え?なんで謝るんです?この牛丼って、とっても美味しいですよ!」


 ツグミは本当に美味しそうに食べている。サナエはハッとした。


「そういえば、オーシャンさんから聞いていましたが、ツグミさんは記憶喪失だったのですね。だから牛丼を食べるのも初めて。しかし、家族の記憶が無いというのは寂しいでしょう」


 その言葉を聞いたツグミは、そっと丼をテーブルに置く。


「家族に、なってくれるはずだった人たちがいたんです」

「あ……」


 糸井家の人たちだ。


「無理に記憶を思い出そうとしなくていいって。私がそれを望むなら、ずっと一緒に暮らしていこう、って」

「ス、スミマセンでした!!」

「あっ、えっ!?」


 サナエが突然立ち上がり、テーブル脇のナイフを掴むとツグミの前に置き、自分の頭を叩きつけるようにしてツグミへ頭を下げた。


「糸井家のみなさんがあんな事になったのは、ひとえにワタシの不徳の致すところです!!そのナイフで思う存分気持ちを晴らしてください!!」

「や、やめてよサナエさん!ほら、みんな見てるよ。それに、こんなナイフじゃ切れないし……」

「そ、そうですね。取り乱しました。スミマセン……」


 サナエはアケボノオーシャンに依頼されて、アンコクインファナルを尾行していたのだ。最善は尽くしたつもりだったが、一度尾行を巻かれてしまい、再び彼女を補足した時には、状況は既に手の施しようがない段階まで進んでしまっていた。その事を素直にサナエはツグミに話す。


「ひぇ」


 急にツグミがサナエの頬を両手で挟み込むように触れるたので、思わず変な声が出た。


「あの晩、ガンタンライズちゃんが私に言ってくれた言葉、知ってる?」

「いえ、距離が遠かったので会話までは……」

「ライズちゃんは言ったの。生き残った人は、死んでいった人達のためにも、心を明るくして、強く生きていかなければいけない。だからほら、笑って、って」


 ツグミは静かに微笑している。


「ライズさん、死んじゃったんでしょうか?」

「わからない。でも、ライズちゃんにとって本当に悲しい事は、みんなが希望を失うことだと思う。アカ……グレンバーンちゃんも、アケボノオーシャンちゃんも、みんな自分の行動を後悔してた。でも、過去は過去だよ。変えられるのは自分のこれからの生き方だけだから。だからみんなに忘れてほしくないの。心の光を。だから、私はライズちゃん……ううん、アヤちゃんが生きているって信じてる」


 サナエは少し目に涙が浮かべ、鼻をすすっている。


「ごめんね、ちょっと変なこと言っちゃったかな?」

「いいえ、おかげでちょっとジーンとしちゃいましたよ」

「サナエさんのご家族は、お元気?」

「あー……人間の方の?」


 サナエは少し考えてから話した。


「うちはお爺ちゃんとお兄さんだけですね。お婆ちゃんとお母ちゃんとお父さんの話は前に聞いた気がするのですが……忘れちゃいました」


 恥ずかしそうに笑う。


「実は子供の頃に、トラックにはねられて死にかけたことがあるんですよ」

「えっ!?」

「ボールを追いかけて道に飛び出しちゃった子を、慌ててかばっちゃったんですね」


 サナエの回想は続く。


 それでワタシ、つまり悪魔の方のワタシですが。この子、とってもバカだなーって思ったんです。だって、そうじゃないですか。家族でもない。友達でもない。そんな子の命を、自分の命と引き換えに救うなんて、おかしいじゃないですか。

 それでひとしきり大笑いした後で帰ったんですけど。でもずっとその子、つまり人間の方のワタシの顔が思い浮かんで、消えなかったんですよ。あの子はあの瞬間、どんな事を考えてたんだろうなーとか。もしも生き返ったらなにをしたいんだろうなーって。どうしてもわからないから見に行ったら、あの子は病院のベッドの上で生死をさまよっていたんです。あの時のお兄さん、おもしろかったなー。ずーっとワタシの手を握ってて。それでそのうち、お兄さんが眠っちゃった時、あの子に聞いたんです。


「ワタシと合体しませんか?」


「それでどうなったの?」


 目が覚めましたよ。つまり、悪魔人間としてのワタシが。そしたらみんな大喜びで。お兄さんなんか、あの表情のとぼしい顔のまま、うんうん泣いてたんですよ。お爺ちゃんも、助けた子も、助けた子のお母さんも。そうそう、トラックの運転手さんまで喜んでました。

 それで思ったんですよ。みんなが喜んでるのって、おもしろいなーって。また喜ばして、おもしろくなりたいなーって。それで大きくなった後、ワタシは探偵を始めることにしました。調べ物には便利な能力ですからね。それでみんなを、またまた喜ばせたいなーって、今でもそう思っていますよ。


「これって変ですかね?」

「ううん、とっても素敵だと思う。私、悪魔ってただ怖いだけの存在かと思ってた。サナエさんを知って、ちょっと認識が変わったよ。怖がらなくてもいい悪魔だって、いるのかもしれない」

「ほほーう?そうでしょうか?悪魔は怖がった方がいいと思いますよー?ほれほれ~」


 そう言いながらサナエはツグミをくすぐった。


「あははははっ、やめてよサナエちゃん!」

「ぎゃーっ!小手返しはやめて、小手返しは!」


 その時である。ガラス越しに見える外の景色がにわかに暗くなってきた。


「あれ?雨でも降るんでしょうか?」

「でも、それは変だよ。さっきまで雲一つ見えなかったよ」


 歩道にいる者達は空を見上げる。何か小さな飛翔体が、膨大な群れとなり日の光を遮っていた。


「鳥か?」


 はるか頭上にそびえるタワーマンションの頂上で、蝙蝠の魔女セキショクウインドは、風と、下界の眺めを楽しんでいた。


「なるべく長く苦しめ、なるべく大勢を殺せ、か。僕にはそういう趣味はないんだけどな」


 セキショクウインドが両手を広げると、彼女の背中から艶やかな赤茶色の羽根が広がる。


「さぁ息子たちよ。宴を始めよう」


 時刻13時08分。

 これより、城西地区駅前周辺区域は、地獄と化す。


「なんだか降りそうですな」


 宝飾品会社ジュエリームラオカの三階オフィスでお茶をすすっていた中村ジュウタロウが、薄暗くなった空を眺めてそうつぶやく。書類に目を落としている男性社員が笑った。


「相変わらず中村さんは面白いですね。今日の降水確率は0%ですよ?」


 ジュウタロウはお茶を飲み干すと、おもむろに窓辺に近づく。


「そうでしょうか?何も降るのが雨とは限りますまい」


 またいつもの冗談が始まった、などとその社員は笑っていたが、屋外よりいくつもの悲鳴が響き、彼も含めて社員全員が騒然となった。彼らはいそいで窓から外を見る。


「中村さん!アレはなんですか!?」

「よく見えませんか?蝙蝠でしょう」


 窓の外では地獄の前奏曲が流れていた。


「嫌ああああっ!?」


 通行人たちの体のいたるところに蝙蝠が群がり、貪っている。蝙蝠の一匹が窓にぶつかり、ムラオカの社員が一斉に後ずさった。蝙蝠は視力が弱くとも超音波をソナーとして使い、空間を正確に把握している。ゆえにこの体当たりは、故意だった。ぶつかられたガラスにヒビが入っている。突破してくるのは時間の問題に見えた。


「け、警察に連絡を……!?」

「私がその警察でしょうが」

「中村さん!どうしましょう!?」

「倉庫にでも隠れていなさい」

「中村さんは!?」

「私は署の方に仕事を残してきとりますから」


 まるでにわか雨にでも降られたような言い方をして、ジュウタロウはがに股でドタドタと、彼なりに急いで階段を降りていく。外へ飛び出して公衆電話を探すと、電話ボックスがすぐに見つかった。署に連絡しなくては。だがここでジュウタロウは後悔した。


「あ、しまった。さっき会社の電話を借りれば良かったなぁ」


 屋外へ出たジュウタロウにも蝙蝠は襲いかかる。


「頭を噛むのはやめなさい」


 最近は薄毛が気になっているのにとブツブツ言いながら払い落とそうとする。ここで気づいたが、蝙蝠は見た目のインパクトはともかく、数匹に同時に襲われたぐらいではたいしたダメージは負わなかった。しかし、数十匹が一度に群がると話は別だ。


「うううっ……」

「こりゃいかん」


 何名かが蝙蝠団子になって動けなくなっている。ジュウタロウはすぐに、たまたま見つけたラーメン屋に入る。当然ながら、店主と客たちはすでに逃げ出していた。必要な物を探す。見るとそこには警部補の田中の姿があった。


「俺は何も見ていない……俺は何も見ていない……」


 そう何度もつぶやきながら、頭に大きな銅鍋をかぶり、厨房の奥で震えている。田中はジュウタロウと違って拳銃を携帯しているはずだが、何の心の支えにもなっていないようだ。


「ちょっとお借りしますよ」

「あ!?こら!何をする!?」


 ジュウタロウは田中がかぶる銅鍋を引っ剥がし、目当ての物が用意できたので外へ出ていった。


「一人にしないで~!」


 田中の懇願は聞こえていないようだった。


 ジュウタロウは蝙蝠団子になって動けなくなっている通行人を見つけると、両手に一つずつ銅鍋を持ったまま近づき、それをバーン!!と叩き合わせた。すると群がっていた蝙蝠たちが一斉に飛び立つ。ジュウタロウが思った通り、蝙蝠は音波に敏感だった。超音波を頼りに飛行する彼らにとって、ジュウタロウの行動は閃光手榴弾を投げつけられたのも同様である。倒れていた通行人が起き上がる。


「あ、刑事さん」

「トイレにでも隠れていなさい」


 ジュウタロウは次々に蝙蝠団子へ向かっていく。しかし、キリが無かった。スポーツも大の苦手なジュウタロウは徐々に疲れていく。


「困ったなぁ。やはり署に電話を」


 警察官たちがすでに出動し、拡声器で「屋内に避難してください!」と叫んでいる。しかし自動車はあまり頼りにならなかったらしい。アクセルを踏んで逃げ出そうとした男性は、窓を割って飛び込んできた蝙蝠に襲われ、同じように向こうからくる車と正面衝突をする。ホーンを懸命に鳴らして抵抗する果敢な車もいたが、側面から衝突してきた別の車によって沈黙した。道路は完全に秩序を失い、交通網は完全に麻痺してしまっている。


「ええっと、小銭、小銭……どっちのポケットにしまったかな?」


 ジュウタロウは電話ボックスへ入り、そう言って体をあちこちまさぐっている。実は緊急通報に限り金銭は不要なのだが、それが頭から抜け落ちているというより、最初から知識として無いらしい。


「きゃあああっ!?」


 走って逃げていたロングヘアの小柄な少女が電話ボックスの側で倒れた。彼女の頭にも蝙蝠が群がりだしたので、ジュウタロウは慌てて外に出る。


「大丈夫ですかー!?ツグミさーん!?」


 そんな叫び声が聞こえたので振り返ると、サナエが鉄製の大きなゴミ箱の中から頭だけ出しているのが見える。


「サナエ。何やってるんですか、そんなところで」

「あ、お兄さん!!」


 中村兄妹がお互いの存在に気づく。


「早くお家に帰りなさい」


 まるで門限を守らない子供を叱るようにそう言うと、倒れているツグミを助けおこしているのがサナエから見えた。


「ひゃあっ!?」


 サナエの頭に向かって蝙蝠の群れが突進してくるのが見え、慌ててモグラ叩きのごとくゴミ箱に隠れる。ボコボコと激しく蝙蝠が鉄の蓋にぶつかる音を聞きながら、サナエは祈っていた。


(どこからか閃光少女が来てくれるはず……!)


 そしてこうも考える。この悪魔たちを操っている魔女が、すぐ近くにいるはずだ。さもなければ、これだけの集団を統率できるはずがない。魔女を直接叩けばこの惨劇を食い止められるはずだ。


(どこ、からか、閃光少女が、来て、くれる、はず……!)


 しかし、そんな事は起こり得ないのは、城西地区の閃光少女が消失したことを調査した、自分が誰よりも知っていた。グレンバーンとアケボノオーシャンがいる。しかし、彼女たちもまた城南地区にいる閃光少女だ。サナエたちが城南地区からこの地に辿りつくまで高速道路で1時間以上も走っている。仮に二人がこのスピードで到着できたとしても、その頃にはこの一帯が死屍累々となっているだろう。


(いったい、どうすれば……?)


 蝙蝠がぶつかってくる音が止み、サナエは外の様子が気になって、恐る恐るゴミ箱から頭を出す。ツグミは無事だろうか?


「あっ!?」


 それは文字通りそう驚きたくなる、そんな光景だった。電話ボックスの中にツグミが入っている。さきほど彼女を助け起こしたジュウタロウが入れたのだ。

 そして、当のジュウタロウといえば、頭だけは銅鍋をかぶり、木から落ちそうになっている不器用な猿のように、電話ボックスを抱きしめていた。中にいるツグミが心配そうに見つめている。体の大きなジュウタロウはツグミと一緒に電話ボックスには入れない。だからこうして彼女を守っているのだ。


(うう……お兄さん……)


 その光景を見てサナエは涙を流す。大好きな兄、ジュウタロウは蝙蝠たちにいいように嬲られ、その大きいだけが取り柄の背中から幾筋も血を流している。


(なんで手で追い払ったり、身じろぎの一つもしないんですか!?あなたはいつだって、そうやって不器用で、不器用で……)


 サナエは泣きながら、真っ暗なゴミ箱の中に再び戻る。


 あなたはいつだってそうでした。

 自分の分のおやつまで、いつもワタシにくれて。

 人に道を譲ってばかりで。

 今だって、その大きな背中で、誰かを必死にかばっている……


 サナエは暗闇でとめどなく涙を流し続ける。


 でも……ワタシにはできない。ここから飛び出して、魔女と戦う勇気は無い。怖くてできない。死にたくない。

 ごめんなさい、お兄さん。歳の離れた妹のワタシを、まるで父親のように、あなたはこんなに大切に守ってくれたのに。

 そんなワタシは、怖くて、震えが止まらなくて、何もできない。できない……

 ごめんなさい、お兄さん……ごめんなさい……


 その時サナエは、暗闇の中でなぜか光を見た。


(幻覚……?)


 その光は自分の後ろから射しているようだった。ゴミ箱の中でひざまずいていたはずのサナエは、なぜかよく遊んでいた公園の芝生の上に立っている。


(これは……ワタシ……?)


 振り返ると、そこには幼い頃の自分が立っていた。光は彼女が発していた。悪魔と合体する前の、まだ髪が黒かった頃のサナエが尋ねる。


「このままでいいの?」


 幼いサナエは、お面を差し出していた。それは、右半分が銀色であり、左半分が赤色に塗り分けられている。ヒーローのお面だ。縁日でよく売られているようなペラペラなそれを、銀髪のサナエが受け取る。サナエはゆっくりと、そのお面を顔へ近づけていった。


 ああ、そうだ。

 今やっとわかりましたよ。人間のワタシ。

 見ず知らずの子供を助けるために、大きなトラックに立ち向かっていったあなただって、本当はすごく怖かったのですね。死にたくなんて、なかったのですね。

 あなたたち二人の兄妹こそが、ワタシが人間界で初めて知った、本物のヒーロー……


「うわああああああああっ!!」


 絶叫しながらゴミ箱から飛び出したサナエは、一心不乱に走り出した。どこかを目指して、一目散に駆けていく。


(怖い!怖い!怖い!怖い!)


 しかし同時に思う。


(負けない!負けない!負けない!ワタシは強い!!)


「僕にはサディスティックな嗜癖なんて無いと思っていたんだけどなぁ。でも、これはこれで、なかなか」


 地獄の上空をセキショクウィングが優雅に飛行している。眼下の景色を楽しみながら、仕事の進捗を確認しているようだ。


「おや、あれは?」


 電話ボックスの中に匿われているツグミを発見し、彼女の目が光る。


「『生き残った女の子』じゃないか」


 生き残った女の子。オウゴンサンデーの配下たちは、あの蜘蛛の魔女、アンコクインファナルに襲われながらも生還した村雨ツグミを、いくばくかの敬意をもってそう称していた。オウゴンサンデーはツグミについて多くを語らなかった。しかし配下たちは思う。村雨ツグミには特別な力があるのではないか?と。彼女こそが暗闇姉妹トコヤミサイレンスの正体であると考えたりする一方。彼女を手中に収めれば、自分こそがオウゴンサンデーの地位に成り変われる力を得るのではないかとも思った。要するに、絶好の興味の対象である。


(気になるよね)


 セキショクウインドは急降下し、電話ボックスへ向かった。


「はぁ……!!はぁ……!!はぁ……!!はぁ……!!」


 溢れ出る涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、サナエは一心不乱に駆けていく。鼻水もとめどなく流れ、鼻が詰まって息が苦しい。そんなサナエも、蝙蝠たちは容赦なく襲い、彼女の肉をえぐる。サナエは止まらない。しかし、逃げているわけではなかった。目標まで近づいたと知ったサナエは、大声で叫んだ。


「来てくださいっ!!リベリオぉぉぉおン!!」


 立体駐車場に停車されていた大型スポーツバイク、マサムネリベリオンが目を覚ます。ハイパワーチューンドエンジンが咆哮を上げ、リアタイヤが白煙を上げながら回転数を上げる。自らの意思で走りだしたリベリオンは、しかし出口には行かない。立体駐車場の、上へ、上へと登っていく。

 屋上まで登りきった後も、リベリオンはどんどんスピードを上げていく。その先に道は無い。宙を描くライン以外は。眼下の道路は破壊された車で埋められていたが、空へと飛んだリベリオンは、まるで重力など無視するように、ビルの側面に沿って横向きに走っていった。ビルが途切れれば歩道に、誰かが倒れていればそれを避け、時には車をも乗り越える。


(……来た!)


 前方の道からこちらへ走ってくるリベリオンにサナエが叫ぶ。


「そのまま走ってください!」


 サナエとリベリオン。両者はまるでぶつかり会うようにお互いに向かって走り続けた。サナエはトレンチコートを無理やり脱ぐと、その下に着ていたライダースーツが露出する。すれ違いざまにリベリオンのハンドルを握ると、例のパルクールのような敏捷な動きで、体をひねってシートに飛び乗った。

 スロットルを全開にされたリベリオンの咆哮に驚き、蝙蝠が一斉に逃げていく。逃げ遅れた蝙蝠がいれば、リベリオンたちは容赦なくはね飛ばした。


 サナエはなるべく蝙蝠が多く群がっているポイントへ向けて走った。


「相手は魔女!ワタシは悪魔人間!悪魔に力を由来する者であれば、近づけばどこにいるかわかるかもしれない!」


 心配なのはツグミだ。実際、その方向へ蝙蝠の多くが群がっている。


「リベリオン!こうなったら奥の手を使いますよ!」


 サナエはクラッチの上についたレバーを親指で押し、マサムネリベリオンに叫んだ。


「大変身!!」


 その言葉に反応して、リベリオンの各部を覆っているカウルが、甲冑のようにサナエの体を包み込んでいく。逆にネイキッドバイクへと姿を変えていくリベリオンは、側面に取り付けられた日本刀をアームで掴み、サナエの腰に装着した。装甲はやがて仮面のようにサナエの顔まで包み、大きな丸い目が緑色に発光して輝く。


(怖くない!もう、魔女だって怖くない!!)


 中村サナエは悪魔人間である。しかし、その戦闘力はあまりにも心もとなかった。だがスーパーバイク、マサムネリベリオンの力を借り、強化服を身にまとうことでそれを補うことができる。その姿こそが、(自称)正義の魔人、スイギンスパーダだ。


 障害物の無い路面が終わり、前方に横倒しになった車が立ちふさがる。スパーダはむしろ速度を上げて、その車たちを飛び越えていった。


 ツグミが隠れていたはずの電話ボックスに駆けつけたスイギンスパーダだったが、その電話ボックスは見るも無惨に破壊されていた。


「お兄さん!」


 中村ジュウタロウも頭に鍋をかぶったまま、うつぶせに倒れている。助け起こすと、幸い命に別状は無いようだ。鍋を捨て、スパーダに向き合う。


「あんた誰?」


 ジュウタロウは、目の前の人物(?)が妹の声で喋り、自分を「お兄さん」と呼んでも、彼女の正体がわからないようだ。


「正義の魔人スイギンスパーダです!」

「あ、そう」

「反応薄っ!?」


 ジュウタロウからすれば「まぁ悪魔がいるくらいだから、そういう人もいるでしょうなぁ」くらいの感覚である。


「ツグミさん……いえ、さきほどの女の子はどこへ?」

「さっきタキシードの女がさらっていきましたよ。空を飛んでいきましたなぁ」

「ぎゃーっ!?そんなー!?」


 探している魔女だろう。ツグミをさらわれたとあっては、ますます追いかけるしかない。


「どこへ行きましたか!?」

「あっち」

「指をさしただけじゃわかりませんよ!」

「そうでしょうかなぁ?ありゃ蝙蝠どもの大将でしょう。大将なら自分の兵隊たちを、山の陣地から一望しとるんじゃないですか?」


 ジュウタロウが指さす方向を見て、それからやっとスパーダは理解した。


「わかりました!女の子は必ずワタシが救いだしてみせます!あなたも早く逃げて!」

「そう言われましても、私も仕事がありますから」


 ああ、お兄さんはこういう人だった。スパーダはびしっと敬礼をし、ジュウタロウもまたよろよろと敬礼を返す。彼女はバイクにまたがると、甲高いエキゾーストノートを残して走り去った。


 ジュウタロウは修羅の巷を走り去るスパーダを見送った後、ひっくり返っている公衆電話を地面に置き直す。


「つながるといいんだが」


 電話機が破損して中に溜まっていた硬貨がばらまかれているというのに、ジュウタロウはわざわざ自分の財布から10円玉を何枚も抜き出す。幸い、電話はまだ生きていた。


「捜査一課の中村です」

「中村さん?どうして110番の方にかけているんですか?」


 オペレーターの困惑した声が返る。


「直通回線の番号を忘れてしまいまして。今から言う人を呼び出してもらえませんか?」


 保留音を聞きながら、ジュウタロウは『でくのぼう』なりに、一生懸命考えてみる。逃げ遅れた市民を安全な場所へ避難させなければならない。しかし、窓まで突き破ってくる蝙蝠を相手に、安全な避難先は限られる。安全であるとしたら地下道だ。幸いすぐ近くにある城西駅地階には、東西に地下道が長く伸びている。あれだけの広さなら、逃げ遅れた人たちを収容するには十分だろう。

 しかし問題が二つあった。まずは人々をそこまで誘導しなければならない。それは人数さえ集めればなんとかなるだろう。だが次に問題になるのが、蓋。シャッターで隔離できる駅内はともかく、外部へ繋がる地下道の出入り口は、いわばただの穴だ。蝙蝠が入ってこないような蓋がいる。しかも、避難が完了するまで人間だけは出入りできるような。

 電話の保留音が止まり、望んでいた人物の声が返ってくる。


「はい、本田です」


 城西署交通課巡査長、本田マサル。署の中では数少ない、中村ジュウタロウの理解者だった。二人はしばらく会話をし、通話を終えた。本田は自らもヘルメットをかぶると、白バイ隊員たちに号令をかける。


「全員出動だ!」


 突然の衝撃に襲われたせいで目を回していたツグミが、正気に戻ったのは、空中だった。自分の体が風を切って飛んでいる。それも、誰かに抱きかかえられて。


「はっ!?……えっ!?」

「お目覚めですか、お姫さま?」


 蝙蝠の魔女セキショクウインドは、そう言ってツグミの顔を覗き込む。


『生き残った女の子』


 ちょっとした女傑のようなものを想像していたのだが、実際に抱きかかえた少女は、むしろ小動物のように怯えて震えている。イメージとは違ったが、むしろそれがたまらなく愛おしく感じられた。この娘であれば直接食べるのもやぶさかではないが、今は自分の仕事を優先しよう。


 蝙蝠の魔女の手で丁重に降ろされ、タワーマンションの屋上へ足をつけたツグミは、目の前にいるタキシードの少女に尋ねずにはいられなかった。


「あなたは誰なの?」

「はじめまして。僕の名前はセキショクウインド。お目にかかれて光栄です、村雨ツグミさん」


 そうやってウインドは慇懃に頭を下げる。なぜ自分の名前を知っているのか。理由は一つしかない。この人も蜘蛛の魔女の仲間なんだ。


「これはあなたがやっていること?」

「そのとおり」

「タワーマンションの女の人を殺したのも……」

「いかにも」


 ツグミは屋上を見回した。おそらく階下へとつながっているだろう出入り口が一つあるが、鉄のドアに鎖が巻かれていることから、南京錠か何かで向こうから施錠されていることがわかる。高度ははるか60メートル以上。もしも飛行能力を持っていなければ、魔法少女でさえ墜落死は免れない。ただの人間ならなおさらである。ここは一種の密室であった。


「どうしてそうやってみんなを苦しめるの?わけわかんないよ!」

「仕事ですから」


 涙目になるツグミに向かって、こともなげにそう言ってみせる。

 セキショクウインドが定期的に人を襲っていたのも、本人のエゴばかりが理由ではない。自分が使役する蝙蝠の数を増やしておく必要があったからだ。それは事実上の主人ともいえるオウゴンサンデーが、魔法少女の世界を作るためだ。反抗勢力を粛清する、一つの方法として準備させていたものである。それが今すぐ行われることになったのは、アケボノオーシャンとオウゴンサンデーの決裂が原因だ。見せしめのメッセージである。


「あなたたち魔女だって、元々は私たちと同じ人間だったのに!ひどいよ。その力だって、迷子を探すとか、牛乳配達をするとか、誰かが喜ぶ仕事をしようって、思わなかったの?」


 サナエの顔が脳裏をよぎる。


「力を持たない者がそういう幻想を見るのは、よく理解できます。僕にもそんなことを考えていた時期がありましたよ。正しく力を使って人助けをしようって甘い幻想を抱く時期が。でも、魔女だろうが閃光少女だろうが、実際に力を得れば誰しも変わるのです。力を得るほど、より欲望に忠実になる」

「そんな力、無くなっちゃえばいいのに!いったい何が欲しいのかわからないけれど、みんなをこんな目にあわせるなんて、間違ってるよ!」

「卵が……ですね」

「はい?」


 唐突に脈絡のない事を言われて混乱する。


「最近、高いのですよ。おかげで食費が馬鹿になりません。息子たちに食べさせていかなければいけませんし。だから、息子たちに血をふるまえる仕事は大歓迎ですね」


 人は感情が高ぶりすぎると、かえって冷静になることがある。今のツグミがそうだった。彼女の体の震えがピタリと止まる。しかし彼女を高ぶらせているのは恐怖の感情ではない。それは既に消えていた。怒りだ。ツグミは歯をくいしばる。


(この人でなし……!)


 人間の命を、文字通り食い物としかとらえていない。そしてその中には、糸井父娘も含まれている。ツグミはそんな女の顔面を、卵のように叩き割りたくなった。ツグミの拳がウインドの顔へ飛ぶ。


「おっと」

「!?」


 ツグミの拳は速かった。しかし、ウインドの動きはさらに速かった。彼女の拳を掌で受け止め、握って離さない。


「『生き残った女の子』……アンコクインファナルに襲われながらも生還したと聞いて、僕はグレンバーンのような典型的な女傑を想像していました。しかし、どうやら違うらしい」

「え?なんで?とれない……?」


 ツグミは自分の拳を引っ張ってみたが、貼り付いたように動かなかった。強く握られているわけではないのが余計に不気味である。


「君はどこまでも優しく、争い事を好まない。しかし、一度暴力をふるうと決めたら、一切躊躇しない。相手が泣こうがわめこうが、徹底的に何でもできる。まさに勝負に弱くて喧嘩に強いタイプだ。君が生き残った理由がわかりましたよ。グレンバーンが男性的な強さであるとしたら、君の強さは、まさに女性のそれだ」


 その瞬間、ウインドはツグミの拳を通じて、彼女の体に波動を流しこんだ。


「えっ!?えっ!?」


 ツグミの足の力が抜けて、体がその場にへたりこむ。痛みはない。むしろ力が抜ける瞬間に気持ち良ささえ感じた。


「しばらく、そこで待っていてください。仕事が済みましたら、あなたが帰るべき場所へご案内します」

「帰る場所って何!?アヤちゃんを返してよ!!」


 ツグミは悔しさに涙を浮かべる。まさにツグミの帰るべき場所、糸井アヤを奪ったのは、あなたたちではないか。しかし、そんな魔女を相手に、今の自分はあまりにも無力だった。


「?」


 ウインドが辺りを見回している。ツグミもやがて気づいた。バイクの音だ。しかも、どこかで聞き覚えがあるような排気音が、どんどん自分たちへ近づいてくる。しかも、下から。

 マサムネリベリオンだった。重力を無視するスーパーバイクは、タワーマンションの壁に沿って上向きに走り、その勢いのまま空中へ飛び上がった。バイクにまたがる、子供向け番組のヒーローのような姿の何者かがツグミたちの前に現れる。ツグミはその人物(?)もバイクも初めて見たが、銀色と赤色に半分ずつ塗り分けられた彼らには、あきらかに既視感があった。やがてバイクは重力に引かれ、ドスン!という重たい音と共に屋上に着地する。


「ツグミさん!大丈夫ですか!?」

「えっ!?その声、サナエちゃんなの!?」


 サナエ本人もそうだが、バイクまで見た目が変わっている。既に覚悟を固めていたサナエは、ウインドと対峙しても恐れを感じていなかった。


「サナエちゃん!その人……!」

「わかっています!今回の事件の犯人でしょう!?それにツグミさん、一つ訂正しておきます」


 サナエは、自身に親指を向ける。


「今のワタシは正義の魔人、スイギンスパーダです!」

「スイギン……スパーダ……?」


 そんな様子を、まるで寸劇でも鑑賞するような心境で眺めていたセキショクウインドは、やはり慇懃に頭を下げて自己紹介を行う。


「はじめまして、スイギンスパーダさん。僕の名前はセキショクウインド。ご明察の通り、この街を苦しめている犯人です。どうぞ、お見知りおきを……」

「えっ!?あ、これはどうも……」


 セキショクウインドは握手を求めて手を差し伸べ、スパーダも思わず右手を差し出す。


「スイギンなんとかさん!だめぇ!」


 自分と同じように波動を流しこむつもりだ!そう察したツグミが叫ぶが、二人の手はもう触れてしまっている。


(何者か知りませんが、魔女の敵ではありませんね)


 ウインドは相手をすっかり侮っていた。ツグミとスパーダの会話から察するに、このヒーロースーツもどきは、認識阻害魔法さえ使っていない。つまり、これはただの強化服だ。魔法少女が自分たちの衣装に認識阻害効果を優先するのは、本人が強いからである。よって、強化服に頼る者の実力など、たかが知れているだろう。

 それに、敵が握手を求めてきたからといって、簡単に手を差し出すなどとは、迂闊にもほどがあった。


(見たところ空も飛べそうにない。適当にしびれさせて下に落としておきましょう)


 ウインドはスパーダの手を通して波動を流し込んだ。たしかな手応えを感じてスパーダの顔を見る。


「!?」


 奇妙なことにスパーダは微動だにしていない。しっかりと立ったままだ。ウインドは続けて二度、三度と波動を流し込む。たしかに流れてはいるのだ。


「どうしたんです?ワタシ、なんかやっちゃいました?」


 大きな丸い目を緑色に光らせながら、首をかしげている。


「君は……!?」


 ここでウインドはやっと気づいた。流し込んだ波動は、まるで落雷がアース線から逃げるように、スパーダを包む装甲を伝って、地面へと拡散していくではないか。


(ただの強化服ではない!?こんな物は、上級の悪魔にしか作れない!)

「ところで……敵が握手を求めてきたからといって簡単に差し出したヒーローの手を、いつまでも握っているのは迂闊にもほどがありますね」

「なっ!?」


 ウインドは自分の右手が、いつの間にか万力のような力でスパーダに締め付けられていることに気づいた。右手を離そうにも離せない。すぐにスパーダの顔面へ左の拳を何発もお見舞いするが、金属音だけが虚しく響き、ビクともしない。


「降参するなら今のうちですよ!」


 スパーダはウインドの右手を力まかせに振り回し、タワーマンション階下への唯一の出入り口へ叩き込んだ。ウインドの体が、鉄のドアごと鎖を引きちぎり、階段の踊り場まで落ちる音が聞こえる。


「ツグミさん!逃げてください!」

「足が痺れて動けないの!」

「じゃあ手で這ってください!……うわっ!?」


 翼を広げたウインドが出入り口から飛び出し、勢いよくスパーダの胴体を蹴ると、彼女の体が3メートルほど後退した。ダメージはあまり無さそうだが、もしも踏みとどまれずに屋上から落とされていたらアウトだっただろう。


「降伏の件、謹んでお断りいたします」


 スパーダはいつの間にか右手に日本刀を持っていた。腰に差してあったのを抜いたのだろう。


魔法付与エンチャントはされていない。本当にただの、古い日本刀だ)


 奇妙だった。上級悪魔の強化服を身にまといながら、その手に握られているのはただの人間が作ったであろう鉄の刀だ。ウインドはそれを指差しながら嘲る。


「まさかその右手に持った、ただのつまらない刀で僕を斬ろうなどと、浅はかな事を考えていませんよね?」

「いいえ」


 スパーダは首を横にふる。


「あなたを投げた時にすでに斬りました。浅かったのは、傷口だけです」


 ウインドの首筋に、ゆっくりと赤い線が広がった。彼女が指をそれに這わせると、赤い血が付いている。


(抜き打ち!?いつ刀を抜いたのか見えなかった)

「日本陸軍伝軍刀操法、基礎居合一本目、正面の敵」


 スパーダがそうつぶやく。


「ワタシに剣を教えてくれたお爺ちゃんは言っていました。この技は、20世紀に多くの弱き者たちを苦しめてきた。21世紀のこれからは、弱き者を助ける天の刃にしなさい、と」


 悪魔の力と人間の技、二つの業が魔女を追い詰める。


「やーっ!」


 刀を八相に構えたスパーダが突進してくる。ウインドはすかさず鎖をその刀へ向けて投げつけた。さきほど閉鎖されたドアに投げつけられた時、そこに巻きつけられていたのを持ってきていたのだ。鎖は刀に絡みつき、ウインドが引っ張るとスパーダの手から離れたが、スパーダは構わず突進を続ける。


「くっ!?」


 スパーダはウインドをそのままタックルで押し倒し、馬乗りになった。左のパンチがウインドの顔を襲う。


「これは殺された女の人の分!」


 金属が肉を打つ音が屋上に響く。


「これは苦しめられている街の人たちの分!」


 右のパンチがウインドの顔に叩きつけられる。


「ちっ!!」


 ウインドの右手の指が黒く変色し、鋭利な爪のように長く伸びた。それでスパーダの胸を斬りつけるが、ダメージは入らない。


「そしてこれは!大好きなお兄さんの分だー!!」

(まずい!!)


 ウインドは両腕をクロスさせてスパーダの攻撃から身を守ろうと防御する。スパーダはかまわず両手を組むと、その防御の上からハンマーパンチを叩きこんだ。重機のようなパワーがウインドの両腕の骨の髄にまで響いた。


(すごい……!サナエちゃんって、本当はこんなに強かったんだ……!)


 ツグミはまだ足に力が入らないが、なんとか手をパタパタと動かし、ここから逃げようとしている。


 スパーダの猛攻はなおも続く。


「これも、お兄さんの分!!これも、お兄さんの分!!これもこれもこれも、みんな!お兄さんの分です!!」

(いったい何人のお兄さんがいるんだ!?)


 そしてこれから、どれだけの『お兄さん』が続くというのか?ここにきて初めてウインドはスパーダに戦慄を覚える。一体こいつは何者なのか!?と。


 しかし、この時。サナエ/スイギンスパーダは気づいていなかった。自分の身に進行中のある変化を。


「おい、君!」


 その変化を最初に気づいたのは、敵のウインドの方だった。


「それ、どうなっているんだ?」


「へっ!?」


 困惑したスパーダは攻撃を止めた。ウインドがスパーダの顔をさして指摘する。


「君の両目……点滅していますよ?」


 戦い始めた時はランランと緑色に発光していた大きな丸い目が、今はホタルのように明滅を繰り返しているのだ。


「ああ、なんだ、そんなことですか。それはエネルギー切れが近いサインですよ。……って、えーっ!?」


 ウインドは思わず吹き出す。


「自分でわからなかったのですか」

「ま、まさかエネルギーの消耗が激しすぎて3分間しか戦えないんですかーっ!?」


 実際にはそこまで短くはないが、しかし魔女との全力での戦いは、エネルギー消耗が激しいというのは事実だった。


「え、えーっと……やっぱり降参とかしてくれませんかねぇ?」

「もちろん、お断りいたします」


 スパーダは手を合わせて聞いてみたが、そんなものに同意する方がどうかしている。勝利を確信したウインドは、すっかり余裕を取り戻す。


「ほら。刀でしたらあちらに落ちていますよ」

「あ、はい」


 まさかの馬乗りにされているウインドの方がそんなアドバイスをする始末。たしかに少し離れたところに鎖が絡みついた刀が落ちているが、悪いことに、一度立ち上がらなければ、その刀には手が届かない。

 スパーダは考える。今のままなら一方的に殴り続けられるが、おそらく倒しきることはできないだろう。気絶すら難しい。


「やっぱり刀を取りに行ったら、あなたは立つでしょうね……」

「もちろんです。サービスにはチップが必要ですよ、お嬢様」


 だがもうウインドを倒せる可能性があるのはそれしかない。馬乗りになっているウインドの上から急いで立ち上がり、刀をとりに走ろうとする。


「わはぁ!?」


 ウインドに足を引っ掛けられてスパーダは転倒した。そのまま這うようにして刀を拾ったが、振り返った時には、余裕の笑みを浮かべるウインドが、翼を広げてわずかに宙に浮いている。


「僕としては、あなたのエネルギーが切れるまで上空を舞っていてもいいのですが。しかし、それではあまりにも不服でしょう。そこで……」


 ウインドは翼をしまって地面へと降りた。右手の黒く硬質化した爪で、手招きをしてスパーダを誘う。


「地上でお相手しましょう。エネルギーが切れるまで。どうぞ、ご遠慮なく」

「や、やーっ!」


 刀を上段に構えたスパーダがウインドに襲いかかる。しかし、今やすっかりペースを握られた彼女は、その剣から冴えが失われていた。ウインドは苦もなくその斬撃を躱し、爪でいなした。


(そ、そんな……こいつを倒せなきゃ、みんなを救えないのに……!)


 スパーダは何度も斬りかかるが、そのたびに両目が点滅する間隔がどんどん短くなってくる。ほとんど点いているのか消えているのかわからなくなるほど明滅が短くなると、ついにヒューンというなさけない音と同時に強化服からパワーが完全に抜けてしまった。


「あ、ああ……」

「なるほど、とうとうエネルギーが全て無くなったようですね……ふん!」

「ほぎゃっ!?」


 ウインドはスパーダの胴体を蹴り飛ばした。スパーダは今までと違って踏みとどまることもできず、その体が猛スピードで屋上の縁へと飛んでいく。そのまま落下するのは目に見えていた。しかし、落ちなかった。


「おっと、これは失礼しました。僕の足癖の悪さをどうかお許しください」


 スパーダを蹴った後、翼を広げて追走したウインドが、スパーダの片手を握っているからだ。とはいえ、情けをかけているわけではない。スパーダの体は半分以上、ほとんどタワーマンションの屋上からはみ出してしまっている。唯一屋上に触れているのは片足のつま先だけだ。ティーカップでもつまむようにスパーダの片手に指先をかけているウインドは、少し力を抜いただけで彼女を奈落の底へ落とすことができるのだ。


「ひえええええ……!!」

「少し僕の話し相手になってほしいのです。かまいませんね?」

「……」


 ウインドの引っ掛けている指が、スパーダの指関節一つ分だけ滑った。


「ひいいいい!!話します!!話します!!なんでも聞いてください!!」

「どうも、ありがとう」


 聞きたいことはいろいろある。だがまずは彼女に仲間がいるのかだ。


「あなたがグレンバーンとアケボノオーシャンと組んでいるのは知っています。他に仲間は?」

「わ、ワタシに仲間を売れって言うのですか?そんなのごめん……」


 ウインドの引っ掛けている指が、再びスパーダの指関節一つ分だけ滑った。


「ぎゃあああああ!?ぎゃあああああああ!?」

(これは本当に口を割りそうにないな)


 ウインドは質問を変える。


「失礼しました。僕の質問の仕方が悪かったのです。訂正しましょう、今ここに駆けつけることができる仲間は何人いますか?僕も自分の身の安全が第一ですからね」

「ま……まぁ、それもそうですね。でも残念ながら0人ですよ!あなたたちが閃光少女を消しちゃったから!」


 脅されていても、そこはスパーダも語気を荒らげた。


「村雨ツグミは?」

「へ?なんで彼女が数に入るんです?」

(うん?村雨ツグミが暗闇姉妹ではないのか?それとも味方にも正体を明かしていない……?)

「この城西地区には、たしかにもう閃光少女はいないはずです。城北や、城東も同じ。では、あなたはどこの閃光少女でしょうか?」

「え、えーっと、ワタシは閃光少女ではないというか……」

「魔女ですか?」

「いや、それも違うというか……」


 以下略。


「ぎゃあああああ!?ぎゃあああああああ!?」

(ん?思い出しましたよ)

「もしかして、あなたは悪魔人間。人間と合体した悪魔ですね?」

「あ、はい……いかにも。たこにも」

(そうか、それで……)


 上級の悪魔しか作れない装備を彼女が持っていることへの説明がつく。この上級の悪魔とはとても思えないアホなヒーローもどき自身が作れないとしても、同格の悪魔に作ってもらうくらいの付き合いはあるのだろう。


(ここからは雑談かな)


 もはや仕事は放っておいても完遂される。有用な情報も特に得られそうにもない。暇つぶしに、自分にほんの少しでさえ恐れをいだかせたアホを嬲ってやるのも悪くない。


「しかし、わかりませんね。お見受けするところ、あなたは上級悪魔であると拝察いたしますが……」

「ええ、まぁ、はい……一応」


 たしかにスパーダの片割れは上級悪魔ではある。一見ウインドが形容する通りアホだが、人間と共存して破綻しないだけの知力をもっているのは上級以上のクラスだけだ。


「わかりませんね。それに何の意味があるのでしょうか?僕自身はもともと人間ではありますが、悪魔の力を得て、人間を超えた存在である魔女になれて、せいせいしているというのに。もともと純粋な悪魔という存在でありながら、わざわざ人間という穢れに身を染めるとは……」

「人間が穢れですか……!?」


 聞き捨てならない言葉であった。自分はまだいい。しかし、その言葉は人間としての兄である中村ジュウタロウをも侮辱している。


「あなたの人間時代の友人に、程度の低い人間しか周りにいなかったことを、心から同情させていただきますよ!」

「程度の低い?ふふふふ。まるであなたの周りには程度とやらの高い人間がいるような言い方ですね」

「全員ではありません。でもワタシは知っています!お腹をすかせた子供に、自分のパンを分け与えられる人間を!歩けない誰かを背中におぶってくれる人を!自分がどれだけ傷ついても、体を張って弱き者の盾になろうとする人を!相手がどんなに大きくても、正しいと思うことであれば立ち向かっていける人を!愛と勇気ですよ!それを知りたいがために、ワタシはこの狭間に生きているのです!ワタシがそれを守るために戦えるのなら、死んでしまってもいいんです!!」

「愛と勇気……」


 ウインドは自分の目に映るアホが本当に気の毒になった。


「そんな子供をしつけるような、幻想のごとき道徳に踊らされて、人間と合体することに決めたのですか。なるほど、そのような経緯があれば、現状を否認して夢の世界で生きようとするのも道理ですね。ですが、下をご覧になってください」


 この状態で下を向くのは気が進まなかったが、否定できる立場にないスパーダは渋々下界の様子に目をやる。


「見えるでしょう、弱き人間どもの本当の姿が。威厳も尊厳もかなぐり捨てて必死に逃げる者。自分のためなら平気で他人の物を奪う輩。助かりたいがためなら、自分の子供さえ差し出す下劣さ。下界の地獄はまさにその縮図。人間は、弱く、醜く、愚かなまま、そして死ぬ。それが本当の姿なのです」

「これが……人間の本当の姿……」


 ウインドからはスパーダの仮面で隠されたサナエの顔まではわからなかったが、言葉を失うその語調を聞いて、大いに満足した。

 だが、徐々に様子がおかしくなる。スパーダは下界とウインドの顔を交互に見ているのだ。なにやら気まずそうな忙しさで。


「あ、あの……たいへん申し上げにくいのですが……」

「?」

「この場合、やはり人間は捨てたものじゃない、って言うべきなのでしょうか?」

「はあ?」


 ついに頭がおかしくなったのかと疑ったウインドは自分も下界を見下ろしてみる。その光景を見るまでは、せいぜい地獄の進行度合いがまだ足りなかったのかと思った。しかし、違った。


「……これは!」


「落ち着いて避難してください!」


 交通課巡査長、本田は拡声器で声を張り上げる。次々に城西駅地下道東側出口へと飲み込まれていく市民を確認しながら、さらに続けた。


「列からはみ出さなければ、蝙蝠は襲ってきません!」


 蝙蝠たちが避難する市民へ目掛け急降下する。しかし、側に居た白バイ隊員がアクセルを吹かすと、その音に反応して四散した。白バイ隊員が乗っているバイクは、城西駅地下道東側出口から、一定間隔をあけて並んでいる。避難する人を守る音のバリアは、市街地を経由しながら、反対側にあたる駅地下道西側出口まで、輪となって連なっていた。


(やりましたね、中村さん!)


 巡査長本田もまた蝙蝠を遠ざけるためにバイクのアクセルを吹かし、さきほどまでの中村ジュウタロウとのやりとりを思い出す。


「音の屋根?」


 本田は最初、その珍妙な言い回しに困惑した。電話の向こうのジュウタロウが続ける。


「さっき試してみたんだ。えーっと、図鑑で見たんだが、蝙蝠は口から超音波を出して、それで……」

「つまり大きな音で逃げると?」

「そう、それそれ」


 なるほどバイクのエンジン音を鳥避けならぬ蝙蝠避けに使う発想は悪くないだろう。しかし問題がある。


「でも、どうやって白バイ隊を動かすんですか!?」


 そう、道路は蝙蝠たちにドライバーが襲われたせいで事故が多発し、交通網は完全に死んでしまっている。そもそも白バイ隊員たちが署に待機せざるをえない現状の原因がそれだ。


「歩道を走れとでも?」

「それもいいが地図に無い道を使いなさい。スナックこずえのある侵入禁止の路地、寿司屋雅の庭、高田さんちの畑、えーっと、メモある?」


 本田はジュウタロウがスラスラと述べる通路をメモしていく。物覚えの極端に悪いジュウタロウだったが、長年いつも聞き込みに行かされていたこの男は、そんな近道の事だけはすっかり憶えていた。


「しかし中村さん」


 本田は最後の、そして警察官にとっては決して無視できない問題を問うてみる。もっとも、本田はジュウタロウがそんなことを問題にする男ではないとわかりきっていたが。


「道路交通法違反、住居不法侵入、器物破損……違法行為のオンパレードですね」

「それは、そうですなぁ」


 ここで中村は「責任は私がとります」などとは言わない。違う課の、それも平巡査の言葉に、そんな重みはない。


「しかし街の命がかかっとりますからなぁ。なんとかなりませんか」

「なんとかしましょう」


 本田は即答した。おそらく懲戒免職は免れない。だが、それを賭けても動いてくれると、中村ジュウタロウが自分を信じてくれたことが嬉しかった。

 そして、そんな本田巡査長本人にも、そういった人望があった。隊員たちを集め、内容を説明した後、隊員たちへ問う。


「我々がこれからすることは、私が独断で動くことも含めて違法行為である。諸君らもまた懲戒処分は避けられないだろう。それでも街のためについてきてくれるか!」

「はい!」


 隊員たちの声が一人残らず揃ったところで本田は号令をかける。


「全員出動だ!」


 そして現在。

 本田は今頃どこかで呆けているであろう中村ジュウタロウを想う。なぜ彼が今回これほど的確に指示を出せたのか。


(要領の悪い中村さんのことだ。きっとこんな事が起こるんじゃないかと思った時から、何日もずっと考えこんでたんだ)


 長年城西地区で刑事をやっていたこと。それだけがジュウタロウの強みではなかった。彼はただひたすら、素直だった。愚直なまでに素直だった。悪魔や魔人の存在を「はい、そうですか」とあっさり受け入れる。あらゆる可能性を頭から否定しないで想定する。難事が待ち構えていると思ったら、杞憂とは思わず対策を考え抜いてみる。そして、そのためなら誰の話にも耳を傾けた。だから街の住民は、愚直なこの『でくのぼう』を愛している。本田もまたその中の一人。


(この人たちは、あなたが救ったんだよ。中村さん)


「えーっと、なんか変な雰囲気になっちゃいましたねぇ?」


 スイギンスパーダの中の人こと、中村サナエは、兄がこの避難劇に貢献しているとは知る由もない。

 セキショクウインドは沈黙してスパーダを見る。このヒーローもどきのせいだ!もしもスパーダが自分をここに釘付けにしていなければ、人間たちの計画が見えた時点で、自らが動いて破綻させてやることもできた。しかし、今となっては自分が降下して数人くらい殺したところで、オウゴンサンデーは満足しないだろう。

 人の命が救われた。中村兄妹はお互いが知らないまま、期せずして連携し、この街を救ったのだ。


「ここはあれでしょうか?人類には賢明なところがあります!一緒に見守っていきましょう!ということで一つ……ぎゃああああああああ!!」


 ウインドに指を離されたスパーダは、悲鳴のこだまを残して下に落ちていった。


「ああ、なんということでしょう。仕事は失敗しましたね」


 そんな独り言を発しながらウインドは階下への出入り口へ向かう。右手の黒く硬質化した爪を、普通の人間らしい手に戻しながら。


「これ以上仕掛けてみたところで骨折り損でしょう。ここは切り上げて次の機会を待ちましょうか」


 閃光少女がいないのは、なにも城西地区だけではない。城北、城東も同様だ。城南にいる閃光少女の二人はこちらの攻撃するタイミングがわからない以上、いないも同然。ならば再び人を殺して、蝙蝠たちに血を吸わせてその数を増やし、次の機会に備える方が懸命だ。


「ツグミさんもいなくなってしまいました。残念です」


 波動による効果は永遠に続くわけではない。自分がスパーダに殴られている間にでも回復し、逃げてしまったようだ。


「それにしても、あのおバカさん。ずいぶんひどく殴ってくれたものですね。おかげで耳鳴りが止まりませんよ」


 ウインドはスパーダが乗ってきたバイクが消えたことには気づいていなかった。というより、端から眼中に無かったためだ。そして、そのバイクは生きていることを彼女は知らなかった。


「ふぎゃああああああ!!」


 スパーダは地球の重力に引かれて地面に向かって加速する。その時、咆哮を上げてマサムネリベリオンが追いかけてきた。


「あっ!!リベリオン!!」


 リベリオンはこんな状況を予想して、すでに待機していたのだ。自由落下しつつもリベリオンの背に乗るスパーダ。


「うううう!!止まれ止まれ止まれー!!」


 なんとかタイヤをマンション壁面に接地させ、前後のブレーキで制動を試みる。重力を無視するこのバイクは、しかし浮遊力をもっているわけではない。ブレーキディスクが真っ赤に焼けるが、それでもスピードがつきすぎていた。


「こ、これで!!」


 スパーダは鎖をリベリオンに巻き付けた。その鎖はウインドがスパーダの刀を奪おうとした時に使ったものだ。たまたま刀についたままになっていたのである。今度は鎖の反対側の端を振り回す。


「間に合えー!!」


 なんとかマンション3階部屋のベランダに鎖を引っ掛けた。


「ああああああああああ!!」


 ターザンよろしく落下を振り子運動へと変換したスパーダたちは、マンションロビーの2階部分窓をぶち破って中に放り出された。ロビー2階の床に放り出されたスパーダは激しく背中を打ち、リベリオンもまた着地の衝撃で半壊する。頼みの綱の日本刀も、真ん中からポッキリ折れていた。スパーダが手探りで手動脱着ボタンを押すと、強化服が開放され、中からサナエが出てくる。なんとか生きているサナエだったが、しかし別の意味で死を覚悟せざるをえなかった。


「バイクと刀が……これはジュンコさんとお爺ちゃんに一回ずつ殺されますね……」


 疲れてしまったサナエは、しばらく目を閉じることにした。


『一階へ参ります』


 タワーマンションの最上階からエレベーターに乗ったウインドは、そんな電子音声に特に興味は湧かなかった。撤収である。別に屋上から飛び去ってしまっても良かったが、今日という厄日のせめてもの慰みに、地面に激突して潰れたであろうスイギンスパーダの死体を見ておこうと思ったのだ。そうでもしなければ、いつまでも続くこのひどい耳鳴りへの、鬱憤が晴らせない気がした。


『止まります』

「?」


 エレベーターの電子音声がそう告げた時、やっとこの吸血鬼はアナウンスに不審を抱く。ここは一階ではない。最上階から少し下がっただけだ。この地獄の一丁目に、一体誰がエレベーターに乗り込もうとしているのか。

 エレベーターのドアを挟んで反対側にいる少女が唱える。


「変……身……」


 セキショクウインドの耳鳴りが止まった。


『ドアが開きます』


 エレベーターのドアが開いて乗り込んで来た少女を、ウインドは少し驚いた後、快く招じ入れた。


「これは、これは……このような場所でお会いできるとは光栄です」


 ウインドは彼女の姿を観察する。彼女の服は、幾重にも影のような包帯が体を包み、まるで漆黒のドレスを形作っている。右手にある闇色の指輪は魔法少女の印。その顔には、ただ静かな氷の表情が浮かんでいた。


「天罰代行、暗闇姉妹」


 常闇の少女はおもむろに短い棒のような物を取り出す。彼女がそれをひねると、端部からダガーのような刃が飛び出した。極端に柄の短い槍のようだ。


「殺された者たちのうらみ、今晴らします」

『ドアが閉まります』


 彼女を連れて帰れば、今回の失敗の埋め合わせになるだろう。そう考えたウインドは慇懃に頭を下げた。


「愛しのトコヤミサイレンス、どうぞ僕と踊りましょう」


「それにしてもここは……」


 ウインドは大きめに見積もっても2メートル四方の床面積しかない箱型の空間を見回す。


「これでは翼をもがれたのも同じですね。なるほど、さすがは暗闇姉妹。仕掛け慣れていらっしゃる」


 トコヤミがその手に持つ短槍を動かそうとした時、スナップを効かせたウインドの裏拳が素早く彼女の面を打つ。トコヤミをノックアウトするほどの威力は無かったが、彼女の顔から鼻血が流れた。おそらく、そのハンドスピードはトコヤミを凌駕している。


「あなたはヒーラーですが、ご自身の体は回復できない。さぁ、エレベーターが一階へ到着するまでに接近戦で僕を倒せるでしょうか?」


 トコヤミは短槍の柄を側面から噛むように口に咥えると、ウインドへ向けて縦拳のラッシュを放った。ウインドの方は殺到する拳を掌で捌くように方向を反らし、トコヤミが右拳を伸ばしきるまえに左拳で彼女の頬にカウンターを叩き込む。


「む!?」


 見るとトコヤミの右手がウインドの襟を掴んでいる。縦拳の連打は掴みかかる動きを巧妙に隠していた。トコヤミは柔道で言うところの小外刈りでウインドの背をエレベーターの壁にぶつける。


(この手に波動を!)


 ウインドはトコヤミの右手首を、自分の右手で掴む。


「がっ!?」


 しかしすぐさまトコヤミの頭突きがウインドの顔へ刺さった。波動は高度な技術だ。痛みで集中力を削がれた状態では使えない。トコヤミはむしろ握っていたウインドの襟を手放し、逆に自分の右手首を掴んでいたウインドの右手を掴み返した。

 小手返し!手首を極められたウインドの体が回転を始める。


「甘い!」


 ウインドはエレベーターの壁や天井を走るようにして投げられまいとする。しかし今度はトコヤミが肩で体当たりし、床面に足がつく寸前だったウインドを転倒させた。


「!」


 尻もちをつく形になっているウインドの顔に向けて、トコヤミの膝蹴りが何度も襲った。エレベーターの床面に血が飛び散る。ウインドは両腕をクロスさせるようにして防御するが、トコヤミはその上から、ウインドの両腕ごと潰すつもりで膝蹴りの連打を続ける。


「くそっ!」


 余裕が無くなったウインドは右手の爪を硬質化させ、横向きに薙ぎ払った。トコヤミは後ろに退いて避けようとするが、狭いエレベーター内ゆえに完全には避けられず、爪はトコヤミの腹部に切創を作る。


「はっ!」


 ウインドは、今度は上から大きく振りかぶって斬りかかるが、トコヤミは姿勢を低くして懐に飛び込み、ウインドの右腕を抱え込んで一本背負い投げをした。といって、人が投げ倒されるスペースなどない。


「がっ!?」


 自然、体が前に倒れようとするウインドの頭はエレベーターの壁に衝突する。トコヤミはウインドの右腕を抱えたまま、壁に足をつけて垂直に駆け上る。足が天井に付くほど駆け上がると、今度はそのまま落下し、ふたたび背負投げの体制をとった。しかし、目的は投げることではない。

 ウインドの硬質化していた右手の爪が、勢いよく床面に突き刺さった。


(やられた!!)


 ウインドの爪が引っ張っても抜けない。右手の自由を奪われたウインドの右側頭部を、トコヤミは執拗に左肘で殴打した。読者も試してみればわかるが、左手だけで右側頭部をガードするのは困難だ。


(くそっ!どうしても爪が抜けない!)


 トコヤミは口に咥えていた短槍をアイスピックのように右手で構えると、ウインドの首筋に向かって突き立てようとした。ウインドは左掌でそれをガードする。短槍の刃がウインドの掌を貫通し、抵抗するその左手ごと、トコヤミは短槍を無理やり押し込み、首の動脈を狙う。


(波動!)


 ウインドは自分の掌を貫通している短槍を通してトコヤミに波動を流し込む。しかしトコヤミはそれを察知すると、右足でウインドの左足を踏みつけた。トコヤミの足に流れる波動がウインドへと帰っていく。


(波動返しか!?)


 しかしトコヤミも無事とはならなかった。足の力は健在だが、短槍を持っていた右腕に力が入らなくなったのだ。だらりと下がった右手から短槍が床面に落ちる。波動を返された方のウインドは、もともと自分の魔法なのでダメージはない。

 だが、それはそれでトコヤミは、再び左の肘打ちを執拗に頭へ叩き込んだ。


(ダメージを受けすぎている!このままではまずい!)


 投げ、頭突き、体当たり、肘、膝。いずれもこのような超接近戦では有効な攻撃ばかりだ。だが、トコヤミにはもう一つ、超接近戦を制する武器があった。


『一階です。ドアが開きます』


 そのアナウンスを聞いたウインドは、左手刀で自らの右爪を叩き折った。そのままウインドはトコヤミにタックルし、エレベーターから出たところでトコヤミを押し倒す。だが、右腕が使えない状態でさえなお、トコヤミに寝技勝負をしかけるのは危険すぎた。

 体位が下になったトコヤミは、ウインドの腿を蹴って彼女の体勢を崩した後、左腕をウインドの左腕に巻きつけるようにして制し、下から体を抜いて、ウインドがうつぶせに潰れるよう胸を彼女の背中に押し付ける。制していたウインドの左腕をトコヤミは両腿で挟んで動けなくした後、自由になった左手でウインドの右襟を下から掴み、捻った。

 超接近戦を制する必殺技の一つ、絞め技だ。柔道の送襟絞の変形だが、タキシードのように襟の詰まった服は、柔道着よりも首が締まりやすかった。トコヤミの胸でうつぶせに押さえこまれ、左腕は彼女の両腿に挟み込まれている。右腕は、そもそもうつ伏せに抑え込まれているので自分の体が邪魔になって動かせなかった。


「…………っ!!」


 声も出せないウインドの顔がみるみる赤紫色に染まっていく。だが、彼女は一人ではない。


「あっ!?あれは!」


 ロビーの二階部分で寝ていたサナエは、階下の騒ぎに気がついて飛び起きた。手すりに掴まって下を見ると、ウインドの上に誰かが覆いかぶさっているのが見える。漆黒のドレス姿は、アケボノオーシャンから聞かされていた通りだった。


「暗闇姉妹!どうしてここに!?……うわっ!?」


 サナエのすぐ後ろには窓がある。さきほどバイクと一緒に自分がガラスをぶち破りながらここへ飛び込んできた時の窓だ。外から大量の蝙蝠たちが殺到し、その窓からロビーへなだれ込む。


(……やれ!!)


 ウインドの危機を察した蝙蝠たちは、まるでそれ自体が巨大な黒い生き物に見えるほど密集し、勢いよくトコヤミへ襲いかかった。密集した蝙蝠の突進でトコヤミの体が宙に浮き、そのままロビーの外に面するガラスウィンドウをぶちやぶって、中庭まで吹き飛ばされた。

 トコヤミが散乱しているガラス片の中から起き上がると、密集した蝙蝠が再びトコヤミに狙いを定めて突進してくる。トコヤミはそこから後ろに飛び下がり、蝙蝠を十分に引き付けた後、左手を散乱したガラス片に向けた。ロビーのガラスウィンドウを回復魔法で直したのだ。砕けたガラス片がロビーまで戻り、もとの位置へと修復されていく。その過程でガラス片が蝙蝠たちを巻き込み、彼らの体をズタズタに切り刻んだ。


「トコヤミサイレンス!!」


 しかし、その同じガラスウィンドウが再び粉々にくだけ、そこから翼を広げたウインドが飛び出してきた。滑空する速度のままトコヤミの体を両手で掴み上げ、しばらく飛んだ後、彼女の体を唐突に離して中庭の木にぶつける。トコヤミはよろよろと満身創痍で立ち上がるが、空中を旋回してきたウインドが、再び彼女を捕まえて別のガラスウィンドウに叩きつけた。

 ガラスをぶち破って再びロビーに戻ってきたトコヤミの体は、大きなダメージを受けている。それでもなお立ち上がって、左手をガラスウィンドウのあった位置に向けると、回復魔法をかけた。中庭に散らばっていたガラス片が集まり、元のガラスウィンドウの形へ修復されていく。

 ウインドはロビーの中に戻るためガラスウィンドウに拳をぶつけた。大きなヒビが入ったが、そのヒビが瞬時に元に戻る。何発も何発も粉々にすべくパンチを繰り出すが、そのたびにガラスは回復魔法で修正された。ガラス面が、磨かれた鏡のように中庭の様子を映している。吸血鬼、セキショクウインドの姿を除いて。


「なるほど、いい勉強をさせていただきました。回復魔法にはこのような使い方もあるのですね……ですが!」


 ウインドは少し後ろに下がると空中へ浮かび、助走をつけてガラスに体当たりした。ガラスウィンドウが粉々になると同時に修復が始まるが、完全に閉じてしまう前にウインドの体が通り抜けた。修復されていくガラスを背にして、ウインドはゆっくりロビーの床に着地する。

 ウインドの目は、ボロボロになりながらも立っているトコヤミサイレンスの姿を認識する。ウインドは左手を懐に入れ、金色のナイフを取り出しながら言った。


「どうやら本気で戦わなければ僕の命が危ないようですね。とても手加減なんてできません。あなたに瀕死の傷を負わせてしまうかもしれませんが、僕たちの同士にもヒーラーはいます。帰ったらすぐに治してもらいましょう。どうぞ、ご安心を」


 その返答の代わりに、強烈な回し蹴りがウインドの横腹を襲った。


「!?」


 ウインドは驚く、自分を蹴ったのは前方にいるトコヤミサイレンスではない。誰かが自分を後ろから蹴ったのだ。そして、後ろを向くと、そこにもトコヤミがいる!


「どうして二人いるっ!?」

「やーっ!」


 一人目のまったく沈黙サイレンスではないトコヤミが、ウインドの背中に襲いかかった。その右手には、折れた刀身にカーテンの生地を巻き付けて持ち手にした、即席の小太刀が握られている。トコヤミはウインドの波動によって右腕は動かせないはずだ。つまり、間違いなくこちらが偽物だ。


(日本陸軍伝軍刀操法、基礎刀法、一本目……)


 暗闇姉妹に『変身』していたサナエは、刀の切っ先まで気を研ぎ澄ましていく。銀髪の少女の姿に戻った彼女は、頭上から刀を振り下ろした。


「大空斬り!!」

「がはっ!?」


 背中を割られたウインドは、血に染まった片方の翼を床に落とす。


「続けて、直前の敵!!」


 サナエは刀の峰に左手を添えながら、ウインドの胴体を突くように猛進する。


「このクサレボンクラがーっ!!」


 自分の翼を斬った少女の正体がスイギンスパーダだと気づいたウインドは、慇懃さをかなぐり捨て、体を反転させながらナイフを突き出した。二人の少女の肉を冷たい金属が裂く。相打ちである。


「ぎゃああああ!?痛い、痛い、痛い!!死んじゃう~!!ああ~血が~!!」


 サナエはそう叫んで大騒ぎしているが、そのくせウインドに突き刺した刀を、絶対に手放そうとしない。


「うるさい!!」


 ウインドが右掌底をサナエのこめかみに叩きこむと、「きゅう……」という変な声を出して倒れた。脳震盪を起こしたサナエの手が刀から離れる。

 しかしその直後、黒い包帯がウインドの背後から飛び、彼女の首に巻き付いた。


「ぐっ……!?」


 それは本物のトコヤミの攻撃だった。ウインドの首を縛った包帯は、ロビー二階部分の手すりを回り込んでいた。トコヤミが自分の体から伸びる包帯を左腕に絡ませ、全体重をかけて引き下げる。すると、飛行能力を失ったウインドの体が、釣瓶のように持ち上げられた。


「………………!!(まずい、このままでは)」


 窒息するだろう。首を締める包帯を切断したかったが、悪いことにナイフはサナエの体に刺さったまま彼女と一緒に倒れている。右手の鋭い爪も、トコヤミとの戦闘中に自ら叩き折ってしまっていた。だが、ウインドにはもう一つ使える刃物があった。


「ずえいっ!!」


 ウインドは自分の体に刺さっているサナエの刀を引き抜くと、それで自分の首を吊る包帯を切断した。ウインドの体が地面に落ちる。切られた包帯はシュルシュルとトコヤミの体へ戻った。


「動くなっ!」


 ウインドはトコヤミへそう叫んだ。彼女は手に持った刀の切っ先を、気絶して仰向けに倒れているサナエの喉へ突きつけている。


「近づいたらこの女を殺すっ!」


 トコヤミはたしかにその声を聞いた。しかし、彼女はかまわずウインドへと近づく。息の根を今度こそ止めるために。


「本気だぞ!!お前の仲間なんだろ!?死んでもいいのか!!」


 トコヤミはかまわずウインドに迫る。


「ちっ!!」


 ウインドは刀を放り捨てて、走って逃げた。強力な回復魔法が使えるヒーラーを相手にして、人質作戦をとるのはあまりにも無謀である。


「なんということだ……僕がこれほどのダメージを負ってしまうとは……実力を完全に見誤った……僕一人ではだめだ。あの暗殺者は一対一の戦いにはとても強い。複数人でかからなければ……」


 ほうほうの体でタワーマンションから外へ転がり出たウインドはそうつぶやかずにはいられなかった。そんな彼女に、バイクから降りた白バイ隊員が駆けつけてくる。


「大丈夫ですか?あなたもすぐに避難を……」

「邪魔だ!」

「!?」


 ウインドに頭部を殴られた白バイ隊員は、ヘルメット越しであったにも関わらず吹き飛ばされて失神した。イライラしながらウインドは背後を見る。きっとすぐそこまでトコヤミサイレンスが迫っているはずなのだ。しかし、そこに彼女はいなかった。


「トコヤミサイレンス……追ってこないのか?」


 見ると、トコヤミはタワーマンションの奥へと歩いていくところだった。向かう先にあるのはエレベーター。エレベーターに乗り込み、振り返るトコヤミと目があう。


『ドアが閉まります』


 そんな電子音声がエレベーターを閉鎖し、分厚いドアがトコヤミとウインドを隔離した。


「……僕を見逃してくれるのか?そうか……暗闇姉妹は案外優しいんだな。まぁ、彼女自身のダメージも大きい。お互いに回復してからリターンマッチを狙うのが順当か」


 ウインドはそう思った。しかし、違う。トコヤミはウインドをここから逃す気など微塵もない。彼女はただ、必殺の準備を整えたにすぎない。自分がとんでもない見当違いをしてしまったことを、セキショクウインドはまもなく思い知ることになる。


  その変化はトコヤミが乗り込んだエレベーター周辺から始まった。トコヤミサイレンスとセキショクウインド。二人の魔女の戦いはエレベーターから始まり、そして一階ロビー、中庭へと破壊を撒き散らしている。それが時間を巻き戻すように修復されていくのだ。気絶して仰向けに倒れているサナエのお腹からもナイフが抜け、傷口がジッパーを閉じるようにふさがっていく。


「これは……トコヤミサイレンスは何をする気なんだ……!?」


 なぜか妙な胸騒ぎを感じる、そんなウインドの体の傷さえ治っていく。


「う、うーん……?」


 ウインドに殴り倒され、気絶していた白バイ隊員が目を覚ます。なぜか気絶する前より体の調子が良い気がする彼は、しかしそんなことはどうでもいいとばかりに、先ほど見た女性を探す。


「いないな……どこに行ったんだろう?うまく避難しているといいのだが……」


 少しこの辺りを巡回してみよう。

 バイクにまたがった隊員が、今や唯一バイクが走れる、歩道に乗り上げて走り去った。


「うわああああああああっ!?ああああっ!?」


 ウインドの体は、わけがわからない力でタワーマンションロビーの床を後ろ向きに引きずられていた。誰かが彼女を掴んで引きずっているわけではない。すくなくとも『誰か』ではない。包帯だ。先ほどトコヤミがウインドの首を吊るために首を縛った包帯の端が、まるで引力にひかれるようにどこかを目指している。


(いや!!どこに行くのかはわかる!!それは……)


 エレベーターの中。つまり今トコヤミが居る場所である。この包帯は彼女の衣装から伸びていたものをウインドが切断した。つまり、それに対して回復魔法をかければ、包帯は元に戻ろうとする。その結果、たとえウインドの首がどれだけ締まろうとも。


「ぐふっ!!」


 ウインドの体は、そのままエレベーターの扉へ叩きつけられた。閉まっているドアの隙間から包帯の端は中へと入ろうとし、その力と同じだけウインドの首も締まる。


(包帯を首から外さなければ!!)


 ウインドの体もまた回復したことで、右手の爪も同様に回復している。自分の首の肉ごと包帯を斬ることになるが、致し方ない。


「ぐあああっ!!」


 首に鋭い痛みが走るが、無事包帯は切断された。やっと気道が確保されたことによりウインドは一息つくが、それもつかの間だった。


「なにいいぃっ!?」


 首から切った包帯、それ自体が回復魔法で直っていく。つまり、いくら切ろうとも包帯は再生し、ウインドの首を締め続ける。もちろん包帯を破壊しないでほどくことができたらこの危機を乗り越えられるだろう。しかし、トコヤミは何も蝶結びをしているわけではない。ふた結び。ロープを木や柱に固定するための基本となるこの結び方は、張力がかかっている限りほどくことができない。


(ならばエレベーターの中に入ってしまえばいい!!)


 ウインドは力の限り自分の肘をエレベーターのドアに叩きつける。が、報われない。ドアが破損するたびにドアそのものが修復され、状況は何も改善されなかった。


「壊……さなければ……いいんだろう……!?」


 ウインドはドアの隙間を指でこじ開けた。少しずつその大きさを指先の力で開いていったその時である。


「あああっ!?」


 ウインドの両指に激痛が走り、思わず手を引っ込めた。すぐに両手を見てみると、指が無くなっている。切断されたのだ。ウインドの脳裏にエレベーター内での激闘が蘇る。そういえばあの時、トコヤミは短槍をエレベーターに落としていた。それを拾って指を切断したということだ。これはメッセージだ。必ずここでお前を殺すというメッセージ。


「ひいいいいいっ!!た、助けてくれえええっ!!」


 ウインドはこの状況に発狂し、威厳も尊厳もかなぐり捨てる。切断された指はエレベーター内に残されたため、もはや抵抗すらできない。


「僕が悪かった!!げほっ、ごほっ!!もうこんなことは二度としないから!!君らも襲わない!!誰も殺さない!!があぁっ!!」


 それでも首を締める力は緩まない。


「い、ひぎっ!糸井、うっ、アヤを、返すから!!君らの、うっ!味方になるからぁ!!」


 それでも首を締める力は緩まない。


「お金でも!!なんでもあげるよぉおおお!!……うっ、うっ、いくらでも……足りなかったらぁああ!!後で払うから!!うげっ!殺さないでぇええ!!」


 お金。そんなものは望んでいない。たしかにトコヤミサイレンスは名乗った。暗闇姉妹であると。望みはたった一つ。命だ。


「許して……許してくれよぉ……ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 エレベーターの中にいるトコヤミからは、ウインドの顔は見えなかった。だが、泣いていることは手に取るようにわかる。


「ごめん……ごめん……」


「…………」


「……」


 命が沈黙へと還った時、トコヤミは『閉』ボタンから指を離した。


『ドアが開きます』


 城西地区の状況をテレビが映し続ける。

 その様子をオトハもまた、合流したアカネと共に彼女のアパートで見ていた。


「見てください!蝙蝠の群れが!蝙蝠たちが消えていきます!」


 命知らずにも現場に飛び込んだ男性レポーターがそう早口でまくし立てている。テレビクルーには原因がわからないだろうが、閃光少女の二人にはよくわかった。


「なんとか魔女を倒せたようね!」

「へ~、意外と強かったんだね~おギンちゃん」


 おギンちゃん、すなわちスイギンスパーダ/中村サナエを過小評価していたことに対して、オトハは考えを改める。


「これなら仲間になってもらうのに何の心配も無さそうだね」

「そうかしら?きっと一人じゃなかったはずよ?」


 アカネは少し意地悪な笑みを浮かべてテレビを指さす。レポーターが興奮しきった様子でマイクに叫ぶ。


「こ、これはどういうことでしょうか!?壊れた道路が、窓が、徐々に修復されています!!足の骨を折ったはずの人が立って……まるで魔法のように!!」


 オトハはしみじみとつぶやく。


「そっか~あの子が来てくれたんだ。暗闇姉妹のトコヤミサイレンス」

「トコヤミサイレンス?」

「あ、そっか。まだアッコちゃんには話してなかったね」


 その頃、遠く離れた別の部屋では、橙色の法衣を着た閃光少女、オウゴンサンデーもまたテレビで城西地区の様子を見ていた。

 女性レポーターが現場で実況する。


「現場はまさに戦場のような状況です!多数の死傷者も予想され……」


 そう言いかけたところで、画面外からの声に耳を傾けた。しかし、その耳が疑わしいような表情をしつつ、固い声色で実況を続ける。


「ま、まだ詳細は不明ですが、死傷者は0、いないという情報がこちらに入っています!信じられないことですが、現場は大変混乱し……」


 そこまで言ったところで、女性レポーターは、本当に信じられない物を見たような顔をして呆けた。カメラには映らないが、オウゴンサンデーはレポーターが何を見たのかわかっていた。目の前で、破壊されていた物が修復されている状況を見ればこうもなろう。


「……現場は大変混乱しております……一旦スタジオに戻します……」


「オウゴンサンデーさん、セキショクウインドの死体は回収した方がいいんですよね?」


 サンデーの後ろで、彼女の側近である魔法少女が質問するが返事がない。


「サンデーさん?」

「ぬあああああああっ!!」


 猛り狂ったサンデーは、両手でテレビを持ち上げて、床に叩きつけた。


(あー、こりゃそうとう怒ってるな)


 触らぬ神に祟りなしとばかりに、配下の魔法少女はしばらくその場を去った。


 そして再びアカネのアパート。


「アッコちゃん、話しておかなければならないことがあるんだ。みんなにも後で話すけれど、まずはアッコちゃんから先に聞いてほしい。今回の事件とも無関係じゃないんだ」


 オトハはオウゴンサンデーから電話があったことをアカネに説明する。暗闇姉妹トコヤミサイレンスの話に、糸井アヤの生存に関する持論。アカネは最初の方こそ興味深そうに聞いていたが、徐々に「うん」「そう」と口数が少なくなっていき、オトハは心配した。オウゴンサンデーの野望に対して、自分が啖呵を切って拒絶し、要するに宣戦布告をしてしまったと説明した時には、アカネはうつむき、無言で体中を震わせていた。


「よくも……よくも……」

「ええっと……アッコちゃん、大丈夫?」

「心配ないわ。ふふ、武者震いよ」


 アカネが顔を上げる。


「よく言ったわ、オトハ!アヤを助けるため、アンタを総大将に担いで大戦おおいくさよ!アタシの命をアンタに預けるわ!見事使い切ってみせなさい!」


 アカネは自分の掌に拳を叩きつける。


「骨になるまで戦うべし!!」

(うわ~女の子が絶対やっちゃいけない顔してるよ~)


 オトハは、サナエとツグミが城西地区から帰ってくるまで、この密室で修羅のようなアカネと二人きりで過ごすことに、胃に穴が開く思いがした。


(おギンちゃん、ツグミセンパイ、早く帰ってきて~)


 そして城西地区では、タワーマンションの一階ロビーで、ツグミが必死にサナエを起こそうとしていた。


「う~ん、もう食べられませんよ~」

「サナエちゃん、起きて!起きて!」

「うむむ?」


 大の字に寝ていたサナエが、ツグミに揺さぶられて目を覚ました。


「あ!ツグミさん!無事でよかったです!まぁまぁ、顔がこんなに傷だらけになっちゃって……」

「夢中だったから」


 ツグミはそう言って微笑む。蝙蝠たちはもう消えたと説明すると、サナエの表情が明るくなった。


「それにワタシの怪我も治っているみたいですね。暗闇姉妹さんがいい仕事をしてくれましたよ。はっ!?ということは!」


 サナエが想像した通り、新品同様に修復されたバイク、マサムネリベリオンが、二人にゆっくりと近づいてきた。見ると、家伝の日本刀も無事直っている。


「ああ~よかった~これでワタシはお爺ちゃんたちに殺されなくてすみます!」


 ツグミには何のことかわからないが、とにかくリベリオンが元気なのが自分にも嬉しい。


「ところで、セキショクウインドはどうなりました?」

「ええっと……」


 ツグミの視線の先に、エレベーターの前で倒れているウインドが見える。後にオウゴンサンデーの部下によって回収されるのだが、この時点ではまだ残っていたのだ。サナエは怒りの表情を浮かべ、立ち上がって刀を抜いた。


「えっ、なにをするの?」

「決まっています!ワタシたちをさんざん苦しめたこの恨み、一太刀浴びせなければ気がすみません!」


 ツグミは慌てて止めようとする。


「やめてよ、そんなこと!」

「止めないでくださいツグミさん!あいつには兄をバカにされた恨みも……」

「死んだ人のことをなんだと思ってるの!!」

「!」


 ツグミのあまりの剣幕に驚いたサナエは彼女の顔を見た。涙を流している顔は、さらに驚いたことに子供の頃の自分の顔だった。


「もう一人のワタシ……」

「えっ?」


 ツグミの顔がツグミの顔に戻る。しかしこれは変な表現だ。ツグミの顔に光を見出したのはサナエ自身の勝手だ。


「ごめんなさい、私……大きな声出しちゃって……」

「いえいえ、ワタシの方もどうかしていました。終わり良ければ全てよし!罪を憎んで人を憎まず!船頭多くして船山に登る!ですね!」

(最後のはちょっと違うような……)


 ツグミは涙を拭きながら内心つっこむ。サナエは刀を鞘に納めた。


「さぁ、もうアケボノさんたちのところへ帰りましょう!今からなら陽が落ちる前に帰れるはずですよ!」


 少女二人を乗せたマサムネリベリオンは再び高速道路に入り、城南地区への帰路を急いだ。風が少し冷たかったが、ツグミはサナエの背中にピッタリと抱きつき、この妙に人間くさい悪魔人間の体温にやすらぎを求める。無言で運転していたサナエがふと口を開いた。


「ツグミさん!ワタシたちって、もう友達ですよね!これからもずっと友達ですよね!?」

「…………」

「どうして何も言ってくれないんですかー!?」


 ツグミはふふっと笑う。


「悪魔は怖がった方がよかったんじゃない?」

「あ、はい。うん、まぁ、それはそれとして」

「友達だよ。とっくの前からもう友達」

「うふふふ」


 嬉しそうに笑うサナエは、このどこかもう一人の自分に似たツグミという少女を大切にしようと思った。そしてサナエはこんな疑問も頭に浮かべたりする。


(それにしても……あの暗闇姉妹って誰なんでしょうか?もしかして、ワタシの知っている人だったりして……)


『暗闇姉妹』

 人でなしに堕ちた魔法少女を始末する者を、人はそう呼んだ。

 いかなる相手であろうとも、

 どこに隠れていようとも、

 一切の痕跡を残さず、

 仕掛けて追い詰め天罰を下す。

 そしてその正体は、誰も知らない。


 城西地区での蝙蝠襲撃事件から数日後。

 城西署刑事部捜査一課のオフィスでは、まだ若い刑事たちを侍らせて、警部補の田中が椅子に座ってふんぞり返っていた。


「それで、だ。剣林弾雨のごとき蝙蝠の群れの中へ突入した俺はだな。すぐに署に応援要請をしたわけだ。すると逃げ惑う少女が電話ボックスの隣で倒れてな。俺は『お嬢ちゃん、この中に隠れなさい』って招き入れて、俺自身は拳銃を構えて外に出たんだ。蝙蝠たちも俺のするどい眼光に恐れをなして、近づいても来なかったぜ!」

「へぇー!田中警部補って勇気がありますね!」


 若い刑事たちは感心して田中を見つめた。


「おーい、中村!お茶はまだか!?」

「はいはい、ただいま」


 給湯室から、背が大きく、小太りで、冴えない顔をした猫背の中年男性が、のそのそとお茶を運んできた。そんな中村ジュウタロウからお茶を受けとった田中は、一口飲んで文字通り苦い顔をする。


「おい、中村!いつも言ってるがお茶っ葉を入れすぎだ。……まぁ、いいが」


 今日はあまりいびらないでやろう、と田中は思う。なにしろ自分が今ふんぞり返っていられるのは、あの日自分が見せた醜態を、中村ジュウタロウはすっかり忘れてしまっているからだ。そんなジュウタロウが田中に問いかける。


「田中警部補も、今回の事件で悪魔を信じるようになりましたか?」


 さすがにこれについては田中も容赦しない。


「馬鹿言え中村!あれは突然変異した蝙蝠の異常発生だ!おおかた工場の汚染水が原因だろ。21世紀をむかえた昨今。自然と人間の関係を考える、いい教訓となるべき事件だろうな」


 などと、もっともらしく言うが、側にいた若い刑事が疑問を挟む。


「でも、壊れた道が元に戻ったり、怪我人の体が治ったのはどういうわけなんでしょうか?」

「そうだな。じゃあ、あれだ。きっと政府に不満を持つテロリストが催眠ガスをばらまいたんだ。俺たちはまんまと幻覚を見せられていたということだな」

「じゃあ田中警部補が助けた少女も幻覚ですか?」

「うっ!」


 田中が言葉をつまらせると、ジュウタロウは急に「あ、そうそう思い出しましたよ」とポンと手を叩く。


「中村、何を思い出したって!?」


 田中は自分の醜態を今になって思い出したのかと焦るが、ジュウタロウは自分の鞄から書籍のようなものを取り出し、まったく別のことを喋りだした。


「あの時私は、正義の魔人スイギンスパーダに会いましたよ。たぶんあの人が蝙蝠の親玉をやっつけたんでしょうな」

「正義の魔人スイギンスパーダ?」


 捜査一課の面々が中村に注目する。


「ほら、これ」


 中村がそう言って指さしたのは、漫画『必颯必中閃光姉妹』単行本第7巻の表紙である。そこには空飛ぶバイクにまたがる、体が銀色と赤色にぬり分けられたヒーローが描かれていた。しばらくキョトンと静まり返った捜査一課は、まもなく哄笑でオフィスが満たされた。田中でさえも笑った。


「ははははははは!このでくのぼうの言うことが幻覚だった何よりの証拠だ!中村!ぼけ治しに聞き込みに行ってこい!お前にはそれしかできねぇんだから!」


 交通課の方では本田マサルの上司が、自分のデスクに置かれた『辞表』の封筒を渋い顔で見つめていた。


「警視庁としての公式見解では、今回起こった事件の真相は、政府に不満を持つテロリストが散布した催眠ガスによる集団幻覚ということになっている。ゆえに君も含め、隊員たちがやった違反行為は、全て不問に処されるんだぞ?」

「ですが、市民の目は、あの時何が起こったのかをちゃんと憶えています。やはり、誰かがけじめをつけませんと」


 本田は一礼して退室しようとするが、そんな彼の背中に上司が言う。


「君は街を救ったヒーローだぞ?」

「いいえ、本当のヒーローは私ではありません」


 本田は爽やかな笑顔でそう答えると、そのまま出ていった。


(本当のヒーロー?)


 本田は上司に中村ジュウタロウのことは話さなかった。全ては自分の独断専行。それでいいのだ。


 この街は本当のヒーローが誰なのかを知らない。

 でも、きっとあなたは有名になることなんて望んでいないでしょう。

 これでいいんですよね?中村さん。


 城西地区を今日も中村ジュウタロウは歩く。


「おはようございます、中村さん」

「おはよー」

「はいはい、おはよう」


 朝の散歩を楽しむ老夫婦とすれ違う。


「あー、中村さん!またネクタイ曲がっちゃってるよ!」

「いつも恐れ入ります」


 商店街で八百屋の大将に頭を垂れる。


「中村さん!パンの耳を揚げパンにしたの!よかったら持っていって!」

「こりゃいいものを。パンの耳はうまいですからなぁ」


 パン屋の女性店員から紙袋を受けとった中村ジュウタロウは、公園のベンチに腰掛けて、ボケたように、雲一つない青空を見上げる。


「毎日がこんなだと、いいんだがなぁ」


 ジュウタロウはそんなことをつぶやきながら、むしゃむしゃとパンの耳を頬張った。


 赤色編 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天罰必中暗闇姉妹 赤色編 村雨ツグミ @tenbatuhittyuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ