俺の推しは頭がおかしい

くが

推しとは?




「きゃっきゃっきゃっきゃっ」

俺の推しの口癖である。





季節は巡る。春が過ぎれば眩しい夏が来て、夏の暑さを感じながら葉の色づく秋を知り、次第に静かとなる寒い冬を覚え、爛漫の春に辿り着く。

ただそうした中でも俺の__真木悠一の生活はあまり変わらない。多少大学の長期休暇などが与えられはするものの、基本としては大学とバイトとオタク活動の三つで構成されている。

そう、俺はいわゆるオタクだ。特にコンセプトカフェ、メイド喫茶とかそういうもののオタクである。

メイド喫茶の何が楽しいんだと聞かれれば、そりゃあ可愛い女の子と自分の好きな話ができるのは楽しいし、可愛い女の子の可愛い仕草を見れるのも楽しみの一つではないか。オタクの戯言なので聞き流してほしい。むしろ聞き流さないと鼻の頭にデキモノができる呪いをかけた。地味に嫌だ。

さておき、今日も俺は中世ヨーロッパをコンセプトにしたカフェ『迷宮殿ラビリンス』に訪れていた。メイドさんや男装騎士のコスチュームに身を包んだ様々な女の子たちを見つめることもせず、スマートフォンの画面に目を落としてウーロン茶を一口。もう見慣れた光景と見慣れた衣装と見慣れた面々だからか、さほど違和感を感じることもない店内だ。

週二から週三で来る常連なので色んな店員さん__ここではキャストと呼ぶ__が携帯に目を落としていても話しかけてくれる。

男装騎士のコスチュームを着た少女__蘭丸さんもよく話すキャストの一人だ。

身長は高校男子くらいはあり、顔も綺麗なので本当に男装やコスプレが似合う女性である。そのかっこよさとのギャップに可愛らしい声というのもあって、彼女を推す男性は多く、また端麗な容姿を目当てに多くの女性も彼女を推している。推しているとかはオタクとして一般常識なので説明する必要などなかろう。

蘭丸さんは俺の席の前に立って、机越しに鈴が鳴くような可愛い声を聞かせた。

「マキくんおはよー、今日月ちゃんは五時からだよー」

「もちろん知ってますよ。ただ蘭丸さんともお話したかったので」

「嬉しいこと言うじゃん! マキくんの話面白いから私も話すの好きだよ!」

「面白いって言うほど面白くもないですよ」

けらけら笑いながらこうして蘭丸さんと話すのは好きだ。キャストと客いうより、同級生や友達のような関係性にも感じる。しかしこうしてキャストと客という立場は崩してはいけない。中には仲良くなった結果、お店に内緒でお付き合いをするなどやSNSで繋がっていくなどの行為もあるが、そういうのはしないのが鉄則だ。店に出入り禁止になってもおかしくない行為なので店に来続けたいならば、しないというのは基本である。まぁ繋がったところで店にバレたり、相手の本性が見えたりして破綻傾向にあるのがオチなので『したところで意味がない』という独自理論が俺の中にあるのだが。

と、店の中の時計が十七時、午後五時を告げた。

刹那、店のバックヤードがあるであろう場所から一人の少女が高速で出でる。世界記録に挑戦する勢いで出てきた女性は、月という名の女性であり、我が最高の推しキャストである。金髪をボブカットにし、膝丈のメイド服を着たあどけない顔の女性。

推しである月は人類最高速度を叩き出すつもりなのか、俺のテーブルまで一直線に走り寄ってくる。

ただ、

「おいテメエ私がいない間に蘭丸さんにデレデレしてんじゃねえよ殺すぞ!!」

「キャストが言う言葉ではないな!!」

口の悪さにビビり倒した。

俺の推しはかなり頭がおかしいのでこういうことは日常茶飯事である。というのもあってか、彼女は面白キャラとして定着しているせいで本人曰く推されたりすることは少ないらしい。それを客に言うな。

「まぁとりあえずなんか飲む?」

「やった! きゃっきゃっ! ハイボール飲も」

「赤ちゃんかと思ったら急に大人になる癖やめない?」

月は二十一歳だ。俺と同い年である。割と酒好きとしても周知されているため、乾杯などでは酒をよく飲んでいる。

この店には、キャストに飲み物を出せるというシステムがある。『乾杯』というこのシステムは、キャスト自身からも嬉しい話らしい。乾杯を出されたキャストはプラスで何百円かの給料が入るようなので、乾杯を出すと喜ばれる。だからそれを客の俺に言うな。

ハイボールをグラスに入れた月が戻って来れば、俺のウーロン茶のグラスで乾杯。それをしてお互いに一口飲んだ。月のハイボールが四分の三くらい減ってるのは何かの冗談だと思いたい。

「ぷはあ! カーッ! この瞬間のために仕事してるわー! 帰りてー!」

「ねえそれ推してる俺の前で言うのやめない?」

「お前が帰るまでやめない!」

「ははは、なんだこいつ」

「悠一の推しだよ? もっと甘やかそう?」

「普通に可愛いところ出してくるのとか名前呼びするのとか本当に反則だからやめてほしい。いくら出せばいい?」

「乾杯もう一杯分くらいかなー。飲んでいい?」

「はい可愛い〜! いいよ〜! 飲みな〜!」

「きゃっきゃっ」

誰だ俺のことを限界オタクって呼んだやつ。その通りだから褒めないでほしい。もう一杯ハイボールを入れながら、月は思いだしたように笑いかけてきた。

「そういえばこの間マキが言ってたラーメン屋行ったよ。あそこめっちゃ美味かったー」

「おお! あそこの醤油ラーメンめっちゃ美味いよなー、俺も食べたくなってきた……」

「まぁ私が食べたの豚骨なんだけどね」

「お前のそういうところ嫌いだわー」

「私は悠一のこと好きだよ」

「すいませーんシャンパンくださーい!」

「うん、いつものやつだから気にしないでー!」

はっ、うっかりシャンパンを頼むところだった……! 月め、恐ろしい女だ……!

とまあこんな具合に、俺と月の仲はかなり良好な方だと俺自身は認識している。割とお互いの素性や悩み事を多く話しているからだろうか、俺は月に対して心の扉が全開である。

ただ思うところはある。月は俺のことを嫌っていないかとか、俺のこの接し方を本当は鬱陶しく思っていないだろうかとか。こんなことを思ったところで、月からしたら面倒くさいだけで何の得にもならないので彼女には言うわけないのだが。

そうやって月とふざけ合いながら談笑していると、バックヤードの方からもう一人、少女が現れる。ロング丈のメイド服、長い黒髪、清楚なお嬢様を絵から引っ張り出してきたような少女。俺の二推しである真冬だ。この完成された綺麗さでまだ高校三年生というのだから将来が恐ろしい話である。

真冬は柔和な笑みを浮かべながら、まるで水が流れるようにゆっくりと俺のテーブルに歩を進める。かつ、かつ、と鳴るヒールの音が、俺に彼女を注視させた。テーブルに辿り着けば、軽くお辞儀をして、

「おはようございます、マキさん」と一言。綺麗な見た目に、少し低い声。とてもいいギャップを持っている。俺も微笑で言葉を返す。

「おはよう真冬。……あ、カラコン変えた?」

「ふふ、分かりますか? 少し茶色っぽいのを使ってみました。どうでしょう、似合っていますか?」

「うん、かわい__」

「__私は前の黒いやつが好きだなー」

俺の言葉に被せる形で言葉を放ったのは、月だった。俺のテーブルに頬杖をついて、真冬を見ることもせずに発言した。一度も真冬を見てもいないのにカラコンがどうとか言えるあたり、なんか怖い。

対して真冬は、月に寒気がするほどのにっこりとした笑顔を向ける。ひぇっ。

「あら、そうですか。月さんにそう言われてしまうと変えようかと思ってしまいます。もっと努力してマキさんに可愛いって言ってもらえるようにしないといけませんね。ふふふ」

「こいつ私以外にあんまり可愛いって言わないからなー。やっぱこれって推し特権?」

「あら、推し特権なんて羨ましい。でもマキさん、私にもちゃあんと可愛いって言ってくださいね。月さんには内緒にしておきますから、言ってくれていいですよ?」

「もーそれ本人の前で言う? 真冬ちゃん腹黒ー」

「あら私としたことが。今度は月さんのいないところで言うようにしますね」

「あはははは」

「うふふふふ」

「ははははははははははははは」

「ふふふふふふふふふふふふふ」

特に理由のない胃痛が俺を襲う……! キリキリと痛むお腹をさすりながら、のっぺりとした笑顔と凄まじいオーラをぶつけあうメイド二人に内心怯えまくっているクソザコオタクがいるらしい。俺だからこっちを見るな。

ご覧いただいて分かる通り、この二人はあんまり仲がよろしくない。推しと二推しが俺を巡って争っている説とかも考えたがそれは解釈違いなので理由は別にあると考える。例えば真冬が月のおやつを食べたとか、月が真冬のおやつを食べたとかそんな具合であろう。目玉焼きに醤油をかけるかソースをかけるか論争ぐらいに下らない理由になってしまった。ちなみに俺はケチャップをかける。

さて、内心で目玉焼きにケチャップをかけていると月の小指が俺の小指に触れた。微かに触れるとかではなく、小指の第一関節同士を重ねるように触れた。えっ好きなんだけど。

横目に、小指同士の触れあっている月を見やる。少しむくれたような様子でそっぽを向きながら、でも小指が俺に触れていた。限界だ! 好きすぎる! 可愛すぎる! 殺す気か!

とか内心で死ぬほど愛を叫んでいるとはいえ基本的にボディタッチは禁止なので、俺はポケットをまさぐるフリをしてその指から離れた。

すると真冬が目を細めて、

「あ、そうでした。そういえばマキさん、この間くじ引きでチェキ無料券当たってましたよね? 良かったら一緒に撮りませんか?」

おおっと! ここで真冬選手、俺の最推しを前にしてチェキを自分で撮れよという爆弾を投下ァーッ! ちなみにチェキとは写真の一種であり、キャストさんと一緒に撮影するツーショット、キャストさんだけを撮影するピンショットなど色々あると共に、落書きというメッセージなどを写真に書いて渡してくれることが多いぞ!

さておき、真冬が落とした爆弾処理の開始である。

「は? マキ、チェキ券当たったの? 聞いてないんだけどー?」

処理する前に爆発した。

「あ、いや、まあ先週来た時の話だからな。話す機会がなくて」

「そうだよねー、だって私先週入ってないし」

爆発。

「私が先週入ってないのにラビリンス来てるの、流石常連って感じだよー」

爆発。

「しかもくじまで引いちゃってー! くじって乾杯入ったら引けたんだっけー?」

爆発。

「もしかしてー、真冬ちゃんも推しちゃう感じ?」

大爆発。地雷源の上でブレイクダンスでもしているような気分である。

しかしここで諦めるわけにはいかない。そう、チェキ券を何故使わなかったかと問われれば、もちろん月と一緒に撮りたかったからだ。しかし真冬のお願いを断ってまで月と撮るというのは、二人の仲が芳しくない中で更に溝を深める可能性すらあるので個人的には取りたくない選択肢である。

故に俺は、財布の中からチェキの無料券ともう一つカードを取り出した。

「とりあえず、チェキ券で真冬と撮る」

言葉に、いつもは穏やかで静かな真冬の表情にいくつもの花が咲いていく。決して声に出して喜んだりしないあたり、真冬らしい喜び方とも取れる。

そんな真冬とは対照的に、月はどこか落胆したような顔でハイボールをぐびぐび飲んだ。ぐびぐびぐびぐび。

ただ俺は取り出したもう一枚のカード__この店のポイントカードを月に渡した。

「ん」

「ポイントカード……? ……ま、さか」

「そのまさかだ。俺は貯めてるポイントの中から三十ポイントをお前とのチェキの撮影のために使用する……!」

__世の中の多くのコンセプトカフェには、ポイントカードという制度が存在する。ポイントを貯めることで様々な特典を受けられるようになったり、一定のポイントを店の特典と交換することができるこの制度は、ぶっちゃけて言ってしまえばリピートを狙っている制度とも言える。おかげさまで俺もリピートが捗る。

ちなみに俺のポイントカードは現在五枚目の終盤。あと二ポイントで五百ポイントとなり、シャンパンを開けることができるわけだが、俺はその中から三十ポイントを使用することで月とチェキを撮ることを選んだ。

「お、お前正気か……!? あれだけ楽しみにしていたシャンパンを開けることを先延ばしにしてチェキに30ポイントを使う、だと!?」

「そうだ」

月の瞠目(小芝居in)に俺は首肯(小芝居in)した。

流石の真冬もシャンパンを開けることを目標としていた俺に目を剥いて、言葉を荒らげる(勿論小芝居in)。

「マキさんっ、このチェキ券で月さんと撮ればいいじゃないですかっ! シャンパンを開けることを先延ばしにする必要なんて!」

「俺はこのポイントを使って月とチェキを撮る」

言い放つ。

俺は曲げない。これは決めたことだからであり、月とチェキを撮りたいからだ。

それに、と俺は付け加えた。今から言うことはもう二度と言わないだろう。恥ずかしいからというのもあるし、なによりも本心を何度もさらけ出すのは、個人的に苦手だ。だから、この時だけの特別だ。

「三十ポイント分だけ、またお前らに会いに来ればいいだけの話じゃん?」

三秒ほど沈黙。かっこいいことを言ったつもりはなかったが、流石に気障な台詞すぎた気がして顔に熱がたまっていく。赤くなっているのが自分でもわかるくらい顔が熱かった。恥ずか死。

と、

「真冬ちゃん、集合」

「奇遇ですね月さん、同じことを言おうとしてました」

急に俺のテーブルから離れて会議が始まった。

うわー! これあれだ、「えっあいつキモくない?」「わかります、自分がイケメンだとでも思ってるんですかね?」「流石に今の台詞は鳥肌たったわ」「私も寒気がしました」みたいなやつだ……!

人生終わった! 完結! 帰ったら自殺します! 俺は机に突っ伏した。




……真木悠一が机に突っ伏したところで、ワシこと神様が少しだけ真木悠一の知らないことをお前たちに教える手助けをしてやろうかの。

そこの二人、月と真冬の緊急会議の様子を見せてやろう。真木悠一には内緒じゃぞ?

それでは、ミエールミエールセンリガーン〜。




『え…………? なに? え、悠一って天使か何か……? しんどすぎて吐きそうなんだけど……』

『月さん落ち着いてください……私も同じ気持ちです…………というか何ですかあの言葉……可愛すぎて推せる……』

『わかる……逆に私たちが悠一を推すまであるよこれ…………というか見た……? 発言した後の顔の赤くなり方……可愛すぎるだろ…………』

『わかります……無理すぎました…………しんど……好きでしかない……もうここで働いてほしいです…………マキさんのために普通にオタクしにきますよ…………』

『真冬ちゃん……結構わかってるじゃん……』

『月さんこそ……流石は推されてるだけありますね……』

『へへ……悠一がここで働き出したら一緒にシャンパンタワー立てようね……』

『賛成です…………』




思ってたよりあの二人は限界オタクやったようじゃのう。限界オタクの限界オタクってもう限界どころか世界の果てを見ているような気分じゃがそれはそれ。そろそろ真木悠一の魂を元に戻してやるかのう。

モドーレモドーレギャクサイセーイ。





なんか白髭の神様みたいな奴が出てきていた気がするし限界オタクの月と真冬を見たような気がする…………わけがわからない……。解釈違い……。

顔を上げると、そこには既に月と真冬が戻ってきていた。若干疲れたように見えるというか、精神を安定させるためにリソースを割いたような顔である。

そういえば先ほどまでチェキを撮る話をしていたのを思い出し、俺はウーロン茶を一気に飲んで立ち上がった。

「チェキ撮ろ!」

まだ居残っている恥ずかしさを追い払うように俺はわざと気丈に振る舞ってみせた。普段ならあんまりしないことだが恥ずかしさと一緒にチェキを撮るのも嫌だったし、推しとはかっこいい自分で一緒に映りたかった。

そんなわけでチェキ撮影である。まずは真冬と一緒に撮ることになった。撮影者はこの世を憎む悪鬼羅刹のような形相でこちらを見ている月である。握り潰さんばかりの握力のおかげでカメラがミシミシ言っているので、とりあえず壊れないことを今は祈るばかりである。

さて、チェキといえば、ポーズが重要になる。今回のようにツーショットならば二人で片方ずつの手を使ってハートを作るようなスタンダードなものから、土下座をしている客を踏んでいるチェキというネタにしかならないようなチェキも存在しているので、みんな記憶に残るようにポーズに工夫を凝らしていることが多い。

今回俺と真冬が考えたポーズは、向かい合って指切りげんまんをするという至ってシンプルなものである。ただシンプル故にとてつもなく恥ずかしい。さっき消したはずの恥ずかしさが第二形態となって出てきた。RPGのボスかよ。

小指を絡め、見つめ合う。近くで見れば見るほど、真冬は美しさを持っているのがわかる。糸のような髪も、薄い化粧も、整った顔のパーツも、どれにも美を感じる。そりゃあ人気になっているっていうのもわかる話だ。現に俺の二推しなのだし。

なのでカメラの方から怨嗟をふんだんに詰め込んだ月の声とミシミシとカメラの軋む音が聞こえるが気にしない。恥ずかしさより胃痛が勝っているが気にしないのだ……!

「撮るよさんにーいちはい撮った! 撮ったから早く離れろ! キャストへのボディタッチは原則禁止となっておりますので!!」

「俺側の否かー」

早口で捲したてる月に急かされて離れる。真冬の小指が、名残惜しそうに俺の指先で震えた気がしたが、きっと気のせいだろう。

「ほら、月、撮るぞー」

「きゃっきゃっ、ポーズどうする?」

驚異の握力から解放されたカメラは真冬のもとに。今度は真冬が撮影するらしい。真冬はカメラを握りつぶそうともせず、ただ手のひらを見て惚けているだけだ。

と、月がポーズを思いついたのか、俺に壁へ背中を付けるように指示を出した。こういう時は何枚もチェキを撮っているであろう月に任せてみるのが割と手っ取り早い方法だったりする。

「真冬ちゃん、横から撮って! ……真冬ちゃん? まーふーゆーちゃーんー!」

「はぁい!?」と珍しく間抜けな声をさらした真冬はそれが恥ずかしかったらしく僅かに頬を紅潮させながら、横から撮影してほしいという月の指示に粛々と従った。

どういうポーズをするのだろう? あまりチェキというものを撮らないから、こうして月の決めたポーズをするのは何だか新鮮である。どういうチェキになるのか楽し__

__ドンッ。

俺の顔の横に月の左手が置かれた。何が起きたのかを理解するまで時間が、月への思考で埋め尽くされた。

だって鼻先が触れるほどの至近距離に月の顔がある。体温を感じれそうなほどの距離に月がいる。息がかかるくらいの近さで月がいる。月の肌はきれいだ。まつ毛も長い。髪もつやつや。ほっぺたもやわらかそう。深い海を思わせる目の色も好きだ、とかそんな短い思考が連続して行われている。ただ何を取っても言えるのは、俺が彼女を推していて、大好きだということが言えた。好きだ。これが恋愛感情だと言われればすぐにでも納得してしまいそうなほど、彼女に対する好きが溢れている。

正直、もう死んでもいいかもしれない。推しとこんな至近距離で見つめ合えるなんて幸せ、もう今後一生経験できないかもしれない。

一生分の時間を過ごしているような短い時間だったのかもしれない。瞬きするくらいの長くて永い時間だったのかもしれない。刹那だったのかもしれない。スローモーションだったのかもしれない。

心臓が何度も大きく鼓動を打った。その度に彼女との思い出が、話した言の葉が、駆け抜けた季節が、炭酸のようにぱちぱちと弾けながらフラッシュバックする。

月と出会った春があった。満開の桜が弾ける。

喧嘩になった夏があった。大輪の花火が散る。

誕生日を祝う秋があった。無数の紅葉が降る。

好きを深めた冬があった。純白の雪が花開く。

そして追いつかない思考の中で理解した。

これは『壁ドン』というやつだ。よく少女漫画などで少女がされるようなことを、俺はされている。

やっぱり俺は__

俺の思考を遮って、カメラのシャッター音が空虚に響いた。ただそのシャッター音も、店内の喧騒も、真冬の声も遠くに聞こえる。まるでこの場所だけ、俺と月がいるこの狭い空間だけがどの世界からも隔絶されているような錯覚を感じた。

そんな惚ける俺に、美しい笑顔を見せて垂れ下がった手にある俺の薬指を、月は指先で掴んだ。

その感覚でようやく全てが現実となって押し寄せた。恥ずかしい。でも月をもっと見ていたい。ただこの時間ももう終わる。チェキ撮影の時間なんて、そんなに長いわけじゃない。長くても一分などが相場だ。

なのに最後に月の唇が俺の耳元に添えられ、

「______」

言葉が紡がれた。言葉の意味はダイレクトに頭に叩き込まれ、その衝撃でくらくらと目眩すら起こっている俺を置いて、月は真冬のもとへ向かう。写真をチェックするのだろう。

月を目が追ってしまう。早鐘を打つ心臓にうんざりする暇もなしに、俺は月の虜だった。

そんな俺を知ってか知らずか、真冬の目を盗んで俺に見せた小悪魔のような笑みは、蠱惑的な芸術のような一場面であり俺の心を掴んで離さなかった。

……ふざけろ! こんなの、こんなの反則だ!

そういうところばっかり見せるから、好きになってしまうんだ。

俺の推しは頭がおかしい。こんなこと俺に平気でしてくるんだからやっぱり頭がおかしい!






「私だけ見てろよ」

でもやっぱり。やっぱり俺は、

__こいつをずっと推していたい。

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俺の推しは頭がおかしい くが @rentarou17

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