渇き

柚木呂高

渇き

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。回想のあと、一瞬の暗転の後にも、市場の食べ物がゆっくりと熱に熟れていくような、ねっとりとした香りがまだ鼻孔に残っている。喧騒から一転、耳を突くようにしんと静まり返った部屋に戻り、僕は自分の両手がやはり年老いて皺が目立っているのを見て、置かれた状況に疲れ始めているのを感じため息をついた。目を閉じて目頭を指で揉むとじわりと光がにじみ、いつも通りだった今朝を思い出す。順番に話そう。


 部屋のカーテンは閉められており、陽の光が隙間からかろうじて朝であることを主張していた。

「意識の混濁状態で前後不覚になる現象はあとを絶たず、現在では同症状に陥っている人間の数は国内の約二割を超える見込みです。これは全世界に於いても発生しており、ここ二ヶ月で爆発的な広がりを見せています。現状ではウィルスなどの影響ではなく、特殊な菌類による寄生のような状態と見られており……」

 僕はタブレットで流していたニュースの音量を絞り、ゲームにログインする。定年退職をしてからというもの、学生やニート、夜勤の社会人たちと一緒に朝からゲームをプレイする。その日のデイリーミッションの消化が終わったら、のんびりとコーヒーを飲みながらボイスチャットを楽しむという具合の毎日を過ごしている。VRゴーグル越しに見える自分のアバターの手はつるりとしていて、年齢を感じさせない。自分の年齢にしては矍鑠な動作も相まって画面を見つめる限りは僕の年齢は不詳のままだ。

 僕は談笑をしながら朝の時間をのんびりと過ごしていた。そしてまるでヘッドセットをシャットダウンされたみたいに意識が消えた。何者かたちが僕の家に侵入したのだろうか、両耳も両目も別世界と繋がっていたから全く気配に気付けなかった。そして目が覚めたときにはこの薄暗くて高級感のある部屋に拘束されていたというわけ。困惑しながら固定された腰に手を当てて、もがいていると暗闇の向こうから加工された声が響いてくる。

「今流行している意識の混濁状態になる現象、あれは私が引き起こしているものです。いずれこれは全人類を飲み込みます、あなたも例外ではない。ですがおめでとうございます、あなたにはチャンスが与えられました。あなたが過去のベトナムで出会った人物の中に、あなたと関わったことで今の現象を引き起こすキッカケを得た者がいます。いいですか、あなたはこれから五回だけ、過去を非常に精巧かつ五感の再現性の高い『回想』を短時間行うことができる。そこから私が誰かを導き出して下さい。あなたはこれだと思う人物を指定することで、その人間を過去から消去することができます。もし成功すれば未来が変更され人類は意識の混濁などどこにもなかった世界で生きていくことができます。失敗した場合、全人類は意識を喪失することでしょう」

「本当は色々聞きたいことがあるけれど、一番聞きたいのは、もし間違ってた場合、その人物は消え損ってことなのかってやつ」

「概ねそう思ってもらって構いません。この技術に関していくつか検証しましたが未来の道筋はそう簡単に変更されるものではありません。事象に関して関連性の低い個体の消失によるパラドックスは些事として処理され、未来に影響がありません。ただ、事象にはクリティカルで中心となるものがあり、それが消失するとなると事情が変わりました、事象の中心の影響力の変化は大きなものから小さなものまで観測され、しかし確実に変更されていました」

 自分の置かれた非人道的な立場にとっさに反応したのは胃で、その蠕動運動は僕に軽い吐き気を催させた。ゲームは好きだけれど、ベットされているものが大きすぎる。人類と人一人の歴史。僕はここまで恙無く歳を取ってきたからわかる。人間一人が歩む人生というのは濃淡はあれど色鮮やかなのだ。そこには宇宙空間に投げ出されなかった様々な感情が詰まっていて、今もまるで海のように波立てている。人間の人生とはそういう箱なのだから。

 僕は普段鏡を見るたびにそれが誰なのかを認識するのに少しタイムラグがある。どの年齢帯でも感じていたけれど、僕は高校生の頃くらいから中身がぜんぜん変わっていない、ただ使えるお金が増えて、果たせる責任の範囲が広がっただけで、年齢は常に、僕が月日を生きただけを表し、肉体の衰えだけを意味していた。

 けれどもこんな大きな責任を果たす役目を担うとは僕は思っていなかった。責任とは自分の決断の結果に伴うものであると思っていたが、その決断をする状況に置かれることに自分の意思が介在しないこともあり得るのだということを今更ながらに学んだ。


「次の回想指定は如何ですか」

 暗闇の中からじれた雰囲気を纏った声が投げかけられる。彼或いは彼女の加工された声は耳障りが悪く、僕の頭の中を小さなつららで浅くかき混ぜられるような痛痒い違和感を覚えさせられる。つまり非常に不快ってこと。

「ああ、ちょっと待ってくれ、なんだか寒暖差が激しくて。ここはひんやりとしているから」

「直接的な体温変化はしないのでご安心ください」

「いや、わかってはいるんだけれど、気持ちの問題と言うか」

「時間は多く残されていません、なるべく早く判断することをおすすめします」

 椅子にガッチリと固定された腰を軸に体を少し反らせると、人間工学に基づいた座り心地の良いチェアが絶妙な抵抗感で傾いて、眼前に展開された無数の空中ディスプレイを一望できる。そこには私の幼少期に行ったベトナムの風景がいくつも映し出されていて、指を伸ばせば対象の場面を追体験、回想できる。中央には游ゴシック風の文字で3/5と表記されている。なんだか現実離れした事象が身近なもので表記されていることに、ちょっと乾いた笑いを漏らした。残り三回。次の場面を選べば決断へ一歩近づく。僕は未だに覚悟が決まっておらず、しかし気持ちはどこか大き過ぎて他人事のように遊離している、そんなアンビバレントな状態にあった。

「こうしている間にも加速度的に意識混濁状態になる人間が増加しています、止められるのはあなただけですよ」

 声はどこか笑顔を感じさせた。楽しんでいるのだろう。僕はちっとも楽しくない。


「選んで下さい、回想を始めましょう」

 僕は深呼吸をする。進まない選択肢はないのだから、自分の感情を脇に置いて問題に向き合う。感情を脇に置くのは社会生活を送りながら身についたテクニックだ。最初の二回はハノイの市場とクチのトンネルを選んだけれど、ハノイでは外国人ばかり、クチではアリの巣のような狭い暗闇をガイドに従って進んだだけで家族以外の人間と会わなかった。回想の時間は三分から五分ちょっとくらい。幼少時代のことは昔過ぎて覚えていないけれど、その後二十歳くらいの頃に東南アジアを旅行した再、日本人と多く会ったのはどこだったか、恐らくホーチミンだ。残り三回はホーチミンにフォーカスして選ぶことにする。よし。僕は指を伸ばして、市場の画面をタップする。


 暗転。魚醤の香り。熱気が皮膚に張り付くような湿気。まるでそこに居るような現実感に圧倒される。僕は手元にフォーが盛られた器を持っている。右手には箸、その手がきめ細やかで若々しくふっくらとしている。それを覗き込むように二十代前半と思われる青年がこちらを覗き込んで言う。

「坊主、ここのフォーはな、めちゃくちゃうまい。けど、毎日同じ注文をしているのに毎日違う具材、味で出てくる。マジで適当だ。でもさ、店主の爺さんがクソ太い菜箸でフォーを混ぜて器に盛ってくれて、食うとさ毎回感動するんだよ。それでふと思うんだよな、日本人は注文したものが注文通りに来ないことにきっと怒るだろうけれど、その日だけの彩りってものはもっと歓迎すべきだって。一口食べてみろ、世界が色付くぜ、それが毎日違ったら、平坦な日々に十色の感動を得られる」

 小学生低学年くらいの子供にこんなことを言っても通じるわけがないのに何を言うのだろうか。しかし、日常の繰り返しの中の些細な変化というものがどれほど日々に爽やかな風を吹かせるのかがわかる。

「フルムーンパーティーが終わって、ついでにブラブラするかって来たベトナムでこんな良い思いができるなんて最高だぜ。大丈夫か、フォーが熱くないか?フーフーしてやろうか」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんは一人で遊びに来ているの?」

「いや、友達と一緒だよ、日中は別々に遊んでるんだ、みんな行ってみたいところは違うから」

「寂しくない?」

「あー、そうだな、確かに一緒の方が楽しいことは多いかな、人って笑うときに、それを見てくれる相手が居るほうが楽しいから」

「明日はみんなで一緒に出かけるのはどう? 僕はお父さんとお母さんと一緒に居るほうが楽しい」

「うん、そうだな、提案してみるよ。ありがとうよ、坊主」

 市場は薄暗くて、お店がひしめき合っている。東京のお店みたいに一軒一軒が箱のように閉じられているわけではなくて、みんなむき出しだ。回想の僕と変わらないくらいの子供がプラスティックの椅子に座って、白人のカップルに地雷原を表すようなドクロマークのプリントされたTシャツをホーチミンの真っ赤なTシャツと併せて三ドルで売ろうとしている。誰もが旅行者から少しでも多くのお金を取ろうとしているのだ。

「ここの子どもたちは頑張ってお店の手伝いをしているけど、僕は悪い子なのかな」

「文化によって子供から大人まで経験するものは違う。環境に基づく生活はそこに差があったとしても恥じることじゃあないぞ」

「よくわかんないや」

「わかんなくて良いんだって、それぞれがそれぞれの経験をする、戦争、受験、ポケモンを持ってなくてハブられる、それぞれの苦い経験に貴賎はないよ、キミが大人になってもスレずに純朴な顔をしていられたとして、そしてそれを例えば戦争を体験した同い年の人に遠回しに苦労を経験していないなんて指弾されたとしても、本当は恥じることはない、誇るべきことの一つだ」

 店の爺さんがもう一杯サービスしてくれた。虫が一匹浮いていた、けれど僕と青年は気にせず分け合ってフォーを食べた。とても、美味しかった。


「次に行きますか」

 口の中にまだ生もやしと米麺の食感が残っている。ベトナムの空気とここの空気はあまりにも違いすぎる。部屋は冷たく開けたてのスマートフォンのような匂いがかすかにするだけだ。

「ああ、ちょっと待って」

「あなたも感染しています」

「はい?」

「時間は多くありません、急ぐことをおすすめします」

 僕は言われた言葉を意味を飲み込めないまま背中が冷えた。嚥下できないそれを反芻しながら急いで次の場面をタップした。


 サイゴン川の船上レストランを後に、両親とその知り合いのバックパッカーの男と一緒にホテルへの帰路を向かおうとしている。湿気は高いが、夕方の風が汗をかいた体を冷やして心地が良い。僕の目には色々なものが飛び込んで来る。川の潺湲とした流れがキラキラと光を反射している。道には僕が生まれる前に行われた戦争の爪痕が残っていて、コンクリートの道路が抉れたままになっていた。道を歩くとそこここに体に欠陥のある人が物乞いをしている。僕は内心ショックを受けていたけれど、彼らを自然と受け流す両親たちに恥ずかしくてその感情を表に出せずにいた。

「ポストカードいりませんか、五千ドンです」

 完璧な日本語の発音に僕たちは思わず振り返る。小汚い少女が数種類のポストカードを手にこちらをまっすぐ見ている。僕はお小遣いの中から五千ドンを出して、きれいな川の写真が写っている青いポストカードを選んだ。

「お父さんやお母さんはいないの?」と母が聞くと、少女は「いません」と答える。

「今日、ポストカード売れなかったらもうやめようと思ってました。誰も相手にしてくれないから。一緒にいてくれる人もいません、だから、諦めようと思ってました」

 僕と少女は一つのポストカードを掴んだまま見つめ合った。

「僕、学校行くまで友達いなかったけど、今はたくさんいるよ。僕も友達になれるからそしたら仲間をたくさん紹介するね」

「友達?」

「そう、友達、よろしくね」

 少女は嬉しそうにニッコリと笑うと、丁寧にお辞儀をしてポストカードから手を離した。そしてくるりと回るとまた船上レストランから出てくる客に声をかけてポストカードを売りに行った。それを見送ってバックパッカーの男が口を開く。

「あー、あれは日本人じゃない、現地の女の子ですよ、発音がきれいなんで騙されるんですけれど、こことかフィリピン、タイとかカンボジアには多いですね、聞き慣れた日本の発音にオッとなって振り向くんですが違うんです。物乞いと一緒ですよ。物乞い、特に子供にはお金を落としちゃダメです。癖になるんですよ、物乞いで食べていけるようになるから、いずれ楽に稼ぐ方法に傾く、薬物の末端の売り子や売春、彼女らの将来を考えたら何もしちゃダメです」

「そうなんですね、不注意でした。だってよ、今度は買っちゃダメだぞ」と父が僕に言う。

「少年、良かったらそのポストカード、俺に売ってくれないかい、日本に居る恋人に一通書きたいんだ」

 僕は少し迷って、それを差し出した。彼は一ドルくれた。僕はなんだか自分も商売をしているようでちょっと嬉しかった。

「きれいな写真だから、恋人さんも喜んでくれると思う」

「そうだな、ありがとう、少年」


 暗転。肌を撫でていた柔らかい涼しい風が無機質な冷気となって僕のやつれた身を冷やしている。完璧に管理された空調、生命力を感じさせる湿気も、熱も、ここにはなく、まるでこの空間で自分がこれからミイラに加工されているかのような気分になった。現状を思い返すたびにあちらのほうが現実のような錯覚に陥る。しかし、先程までの暑さも鼻に残る臭いも全て回想という技術が生み出した幻に過ぎない。

「時間がありません」

 その言葉も僕を無闇に焦らせる。時間がないのは僕なのか、人類なのか、彼/彼女なのか、深く考えると心が重みで潰れそうになる。悪い予想を振り払うように頭を振る。今はゲームに集中しよう、人の命、歴史が賭けられたゲーム。また吐き気がする。どこにも思考の逃げ道が無いように思う。僕は問題を脇に置くだけ。せめて少しでもイニシアティブを取り戻したくて相手に言われる前に先回りして言う。

「次に行こう」


 母親と一緒にスーパーからホテルに戻る道だろうか、信号機のない大きな道路を二人で手を繋いでゆっくりと渡る。すると大量に走っている原付きバイクたちが自然と避けて行ってくれる。原付きバイクには一人の人も居るが、小さな子供を乗せた家族四人全員で走るものもある。日本では考えられない光景で、この群衆の流れだけでも空中からタイムラプスで眺めたいという気持ちに駆られる。もちろんその感情は当時の僕のものではなく、今回想を眺めている僕の感想でしかない。二人は道路を渡りきると少し緊張を解してお互いを見やった。母がニッコリと笑ったので、僕も安心しているのが感じられる。安心、年齢を重ねるごとにすり減っていく感情の一つだ、あるのは茫漠たる不安とそれを避ける精神の動きだけ。日差しが僕らの頭をジリジリと焼いて、髪の毛の中で熱が溜まっているあの独特の感覚に集中していると、誰に会うこともなく恙無くホテルまでたどり着いてしまった。ハズレの回想を選んだのだろうか。不安を胸に抱いていると、エレベーターの前に初老のおばさんがいる。と言っても僕の今の年齢よりも若いのだけれど。

「あら、日本人の方? このホテルに同じ国の人が泊まっていたのね」

 おばさんはそう言うと、僕の頭に手を乗せて軽く撫でた。

「こんにちは、暑いですね。ホテルの中は本当に涼しくて良いですけれど」

「本当にね。この国、トランジットじゃないと来られないでしょう、直通がないから日本人は珍しいわね。東南アジアを中心に歩き回るバックパッカーくらいしかいなくて、純粋な観光客は少ないと思っていたわ」

「そうですね、私たちも観光で来ましたが、やはり西洋の方が多い印象です」

「ここのホテルなんかは三ツ星ですからトイレもちゃんとしてますけれど、外なんかだと、穴が空いていて雑巾が一つ転がっているだけみたいなのもあるじゃないですか、なかなか馴染むのは難しいですわね」

 エレベーターが到着して、扉が開く。明るい色調の白い高級そうな箱に乗り込んで、母とおばさんがそれぞれの階のボタンを押下する。扉が閉まり僕は人見知りをしているのか母に隠れるように壁際に引っ付いている、現在の僕はというと、「エレベーターガールなんかはいないのか」、とぼうと考えていた。するとおばさんがカバンの中から何かを取り出して僕に差し出した。しかし、手の先に持つものがモアレのようになっており何なのか判然としない。焦点が合わないだけでは説明の付かない視界の曖昧さに驚いていると、おばさんが口を開いた。

「――――――――が――――――よ―――――……――――――――……――――?」

 自然界では発生しないような異常なノイズで何を言っているのか全く聞き取れない。名状し難い不快感に耳を塞ぎたいが、回想の僕を操作することはできない、ただその状況を甘んじて受けることのみ。逃げ道のない状況の中で僕はじっとおばさんの顔を見ている。その顔がバグのように顔が消失している。不気味さだけが滲んで、僕の感情に染み込んでいく。母親が笑い声のような破裂音を鳴らして僕の頭を撫でた。その顔は背景のエレベータの模様と混ざっている。私の母親の顔、どんな顔をしていたっけ。私の親はどんな声で、どんな言葉遣いをするのだっけ。悪夢に囚われたときのような金縛り感と思考のまとまらなさが僕を無力にしていく。ここから出してくれ! 体が動かない。幼少の僕はどうやら笑っているようだった。笑える要素なんてどこにあったんだ、僕はもがく。僕の体は僕の思うようには動かない。


 暗転。

「失礼しました、エラーが発生したようです」

 僕は脂汗を浮かべて椅子の上で体をバタつかせた。急に腰を固定しているベルトに対して強い嫌悪感を覚えて必死に外そうと試みたが徒労に終わることはわかっていた。

「観測者が極端に少ない事例は回想を完全にシミュレートすることは難しいようです」

「今のは五回の中に含まれないよな?」

「いいえ、含まれます。エラーが起きようと、多数の回想の中からそれが発生する可能性のある選択をしたあなたの責任です」

「不公平だ!」

「これはサービス業ではありません。さて」

 声が一つの間を置いて空気が変化したのを感じた。僕の混乱した状況がまるでなかったかのようにリセットされた雰囲気の中で、僕は自分の魂が急に重苦しくなった気がした。

「誰を消去しますか?」

 精神の痛みを脇に置いて。いや、こんな大きな重圧を脇に置くことなんてできるのか? 心臓が痛い、鼓動が乱れているように感じる。正直考えなんて全然まとまっていない、誰もが普通の人達じゃないか! 怪しいところなんてない、善良な人間たちだ! 回想の中の出来事を思い返す、人間というのはたったあれだけの時間の中になんて多くの経験や感情が渦巻いているのだ。

「誰を消去しますか?」

「時間がありません」

「誰を消去しますか?」

 声は無機質な音に変換されていても、その中に楽しんでいる、というのがやはり伝わってくる。こんな状況を楽しめるのは誰だろうか、フォーの店で会った青年? ポストカードを渡したバックパッカー? エレベーターのおばさん? 自分の破滅の可能性が近いというのに、それが楽しめると言うのはどういう神経だろうか、僕は未だにこの年齢になっても自分の死も直視できないというのに。

「誰を消去しますか?」

「待ってく……」


「?」

 一瞬意識が飛んだような気がする。思考が並列的に処理されているような奇妙な感覚だ。僕の中で渦巻いているいくつかの思考、責任の重さ、時間がない「何の?」、人間の人生に於ける感情の豊かさ、回想からの推理、これらが混線せずになめらかに取り捌かれている。

「……本当に時間がありません、次の質問で最後です、誰を消去しますか?」

 高速で回転する思考が、自分が理解するよりも先に船上レストランからの帰路の場面を示している。ポストカードが横切る。バックパッカーの顔に笑顔が浮かぶ。彼だ。

「サイゴン川の船上レストランの場面、バックパッカーの男」

「……承知しました」

 カチリと腰の辺りが小さく鳴って、僕は椅子から開放された。椅子から一歩踏み出したが足に力が入らなくて、うつ伏せに倒れてしまった。腕を伸ばして上半身を起こし、正座のような格好で暗闇の先を見つめた。

「正解か?」

 正解だったらここはどうなっている?

「消去が完了しました」

 声が無慈悲に部屋に響いた。コツコツと暗闇の底から人の歩む音が聞こえてくる。消去が完了した。「誰の?」その疑問のこだまだけが居なくなった人間が存在していたことの証左だった。無為に消えたのか?

「ゲームは私の勝ちでした」

 加工の消えたその声は年老いた女性の声だった。僕はこの残酷なゲームを思い付いた張本人をその目に焼き付けてやろうと眼前の黒の中に目を凝らした。照明が彼女の足元から頭までゆっくりと姿を照らした。黒いスッキリしたパンツスーツ姿に顔は、何かアメーバのような、木の根のようなものが不気味に絡みついていて表情すらわからない。そもそも人間なのか?

「わからないでしょうね、私がこんなことをする理由が」

「わからないね、僕は」普通の人間だから、と言おうと思ったが言葉が詰まった。その言葉が相手の心を刺してしまわないか心配になったからだ。それを察したのか、彼女はフッと軽く笑ったように思えた。

「この顔に気を遣ってくれたんですか? お優しいこと。これは菌類の一種です。これが私を導いているんですよ」

「聞きたいことがある」

「いえ、もうないはずです」

 僕は彼女が群れの中心であることを知っている。知っている? 彼女がただ友達を作りたいだけで生きてきて、自分が群れの外のゴミのような存在であったことの怒りを原動力に自我を保っているのを知っている。知っている? ただみんなと一緒になりたかっただけなのを知っている。知っている? おかしい、なんで僕は彼女のことを知っているんだ? 彼女は群れの中心だ。彼女に寄生する菌類がそれに寄生された人間の頭脳、精神を彼女へと統合させていた。それは彼女の意思でもあり菌類の導きでもあった。しかし、菌類の思惑は外れた。彼女は友人を求め、自分を孤独にし無視した世界を憎んでいた、その強い意思だけが彼女の精神を彼女のたらしめ、菌類の求める完全な集合精神に抵抗していたのだ。そして彼女は増殖していく並列化された頭脳を使って世界に干渉していた。だがその時間ももうない。

「キミは誰なんだ。どこにいたんだ」

「友達だって言ってくれましたよね」

 頭の中でポストカードがよぎった。あの少女、本当に日本人だったんだ。そうだ、最初の友達に僕を選んだ、そして胞子は僕ではなく誰かの手に渡った。誰の? 思考が平然と処理されるのに僕の心は乱れたままだ。

「あなたはゲームに負けて、私の自我ももう間もなく保てなくなります。あとは、全人類がこの菌類の理想を叶えるために集合精神となり、また端末となります」

 この年齢になって死も直視できないのに。僕はまっすぐに自分の精神的な死を眺めていた、それは大きな波浪の中でうまく知覚できない、ただ僕はまっすぐに見つめている。僕の心はどこにあるの?

「私と友だちになって下さい」

僕は恐怖した、恐怖しないことに恐怖した。彼女の中に乾いた砂漠が茫漠と広がっているのを感じる。彼女の自我を支え、彼女たらしめていた強い飢え。それが今押し寄せてくる膨大な思考の流れの中に消えようとしている。大きな砂漠だけを残して。僕はそれは寂しいな、と思った。人間の箱が、いっぱい逆さまに開けられて、混ざって、そんな中でずっと抱いてきた彼女の強い渇望だけが残るなんて嫌だった。

「……仲間をたくさん紹介するよ、多分ここにもいるから」

 砂漠に一滴の水が落ちて、沁む、その滲み、波、温度が僕の中に広がって、やがて消えた。

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渇き 柚木呂高 @yuzukiroko

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