沼のほとり

朝吹

沼のほとり

 

 老婆の差し出すアイスはいつも玻璃の器に盛られ、鎌倉彫りの盆には銀の匙と緑茶が添えられていた。

 召し上がれ。

 手製のアイスクリーム。卓袱台の向かいに座るのは、観音様のような、きれいな老婆だった。老婆に見守られるようにして少年はアイスを口にはこぶ。青空をわたる涼しい夏風が平屋を吹き過ぎ、風鈴を鳴らした。

「ごめんください」

 誰かが来た。老婆は絽の着物の襟元を整えると、すいと玄関に立った。老婆はすぐに戻ってきた。

「残りは、お家でおあがりなさい」

 老婆は小型の魔法瓶を台所から持ってくると、魔法瓶の内側の銀色の洞窟にアイスクリームを閉じ込め、家に帰るようにと少年を促した。玄関の引き戸の前には年老いた男が背筋を伸ばして待っていた。

「何度訊かれても同じことですのに、藤田さん。蛇神さまが連れて行ってしまったのよ」

 優美な所作で老婆は老人を家の中へと招き入れた。藤田。アイス入りの魔法瓶を抱え、少年は家までの路を辿った。訪問者の名は藤田というのか。

 少年の通う小学校にも藤田が何人か在校している。だから老人の名を憶えてしまった。屋根の向こうには、少年が生まれた年に完成した東京タワーが赤い糸細工のようにそびえ建っていた。



 1910年。日露戦争の終結から五年が経っていた。鎮守の森の、日蔭の沼に、熊川弥彦の遺体が沈んでいるそうだ。そんな噂が邑中に広まっていた。

「弥彦だけか? 楢一郎は」

 誰が云い出したのかは分からない。しかし熊川弥彦と藤田楢一郎の両名が、もう十ヶ月近く、行方知れずになっているのは事実だった。

「あいつらは彗星に連れて行かれたのではなかったのか」

 青年団の男たちは鎌を手に、雑木をかき分け、噂の真偽を確かめに沼に向かった。鎮守の裏手に広がる森はそのまま山へと繋がり、迷うと二度とは帰れない。古くからそう云い伝えられている。神の化身の大蛇がすまう森なのだ。

「大勢で立ち入るが、社でお祈りもした。人探しならば大蛇さまも怒るまい」

 男衆は紅葉の奥に向かった。

「弥彦と楢一郎と、それから新島キサ。三人が一度にいなくなったからなぁ」

「キサは奉公先にも一度も戻っていないそうだ」

「同じ日に失踪してしまうとは」

 落葉の赤や黄が森の底に降り積もり、色鮮やかな溜まりの中にも腐敗の匂いをすでに刷いていた。森の中の恵みを邑人たちは手に取ろうとしない。蛇神に祟られるからだ。

 やがて沼に出た。

「不作の年には、この沼に人柱を投げ入れていたそうだ」

「それは何百年も前の話だろう」

 昼下がりの沼はしんと静まっていた。男たちは沼を前に立ち尽くした。そもそも誰が最初にこの沼に弥彦の遺体が沈んでいると云い出したのだ。

「遺留品を探してみるか」

 沼の縁をまわり、木の枝で水面を悪戯にこすった。沼に小石を投げ入れてみると、石は青く濁った粘膜に包まれるようにしてすぐに消えた。底なし沼と伝えられていた。

「水死体は一度は膨らんで水面に浮かんでくるものだと駐在さんも云っておられた。あれからもう十ヶ月。夏も越している。この沼で誰かが死んでいたとしてもすでに骨となって泥の底だろう」

「待て。何かある」

 男衆は沼の周囲を廻る一点に駈け寄った。朽木のそばに、金属の筒が落ちていた。

「砲弾か」

「違う。水筒だ」日露戦争に従軍経験のある男が水筒を取り上げた。

 男は水筒を調べた。

「テルモス製。これは新島キサのものだ」

「本当だ。見覚えがある。奉公先からキサが帰郷した折に、邑の子どもたちにひと匙ずつ、この中に詰めた『あいすくりん』を土産に配っていた」

 その水筒がなんでこんな処に。

 男たちの脳裏に、新島キサの声が甦った。

「これは独逸で開発された魔法の水筒です」

 キサは邑の子どもたちに語った。

「二層になっていて真空が間にあり、半日以上経っても熱いお茶がいつまでも熱く、冷たい井戸水も冷たいままなの」

 横濱の馬車道通りの『氷水屋』が売り出した舶来物あいすくりん。『氷水屋』の主人とキサの奉公先の女将が親戚で、特別にもらいうけた氷菓子をキサは魔法瓶に詰めて持ち帰ったのだ。あれはまさに彗星騒ぎが始まった頃の、まだ寒い春先のことだった。

「どういうことだ」

 水筒の蓋を取って中身を確認した男が声を上げた。

「まだ熱い。なかの白湯がまだ熱いぞ」

 水筒は落葉に埋もれもせずに、叢の上に置き捨てられてあった。

「外側に汚れもない。湯を入れてまだそう長くは経っていない」

「キサが近くにいるのか」

 周囲の樹々に男たちは視線を彷徨わせた。森に大風が吹いた。沼の面が鱗のように波立ち、高い音が聴こえてきた。岩の隙間を通ると風は笛の音を立てる。女の叫び声にも聴こえた。

 沼の方々に眼を遣っていた男たちは振り返って愕いた。先刻までそこにあったキサの水筒が消えていた。 



 曇った車窓についた水滴を指先で斜めになぞる。うまく灯りをあてれば、星々と彗星の幻燈になりそうだった。

「空気がなくなるそうだ」

 最初に自転車のチューブが街から消えた。彗星が来ると地上が真空状態になるとの流言飛語がとんでいたからだ。

「しかしながら自転車のチューブでは、一晩もつだけの空気を貯めるには足りんでしょうな」

「空き瓶を沢山用意するつもりです。それで代用できませんか」

 列車の中で見知らぬ男女が不安そうに囁き合っていた。キサは膝に抱えた魔法瓶を抱えなおした。魔法瓶は風呂敷に包んである。

「せめて子どもたちだけでも。空気も少なくて足りましょうし、金盥を被らせておけば持ちましょうか」

「しっかり戸を立てて押し入れに篭り、眼を閉じて伏せておくのがよろしかろう」

 彗星とはそういうものなのか。すでに姿を見せているが、これからもっと明瞭に、地上に近くなってくるのか。

 流れ星とは違い、彗星は尾を引いたまま静止している。

 奉公先から休暇で帰った邑で子どもたちにひと匙ずつあいすくりんを食べさせながら、キサは鬼燈ほおずきのような春の夕陽を見つめた。

「莫迦らしい」

 村役場に勤める熊川弥彦はキサの不安を笑い飛ばした。

「いいかい、キサ。彗星は何度も地球にやって来ている。空気が無くなるということはない。流言に惑わされるのは臆病者のすることだ」

 そうだとも、と邑いちばんの素封家の藤田猶一郎も口を出してきた。猶一郎は弥彦とキサが語らっていると必ず横入りしてくる。

「邑の外に出るからそんなことも耳に入るのだ。邑に戻って嫁に行くのがいちばんだ」

 弥彦は笑顔を引っ込めると、猶一郎から遠ざけるようにキサの肩に手をおいた。猶一郎の顔色が変わった。その様子を邑人も遠巻きにして見ていた。

 雨上がりの庭に咲く千日紅を縁側からキサが眺めていると、藤田家の末子の卯吉が兄の楢一郎からの伝言をキサに届けに来た。厭な予感しかしなかった。

「卯吉、あいすくりんは美味しかった?」

「兄さは鎮守の森の沼でキサさんを待っています」

 卯吉は困ったような顔でキサに打ち明けた。

「弥彦さんも一緒です」

 キサが身震いしたのは夕風の冷たさのせいではなかった。



 三人で話し合う間もなかった。猶一郎が「なんでお前がここに」と叫び、弥彦に跳びかかると隠し持っていた匕首でいきなり弥彦の胸を刺した。弥彦は沼に落ちた。どぼんと重たい水音を立てて弥彦の姿が沼に消えた。

 キサは魔法瓶を入れた手提を振り回して抗ったが、楢一郎に引きずり倒された。殴られたキサは雨に濡れた沼の縁に崩れ落ちた。

「蛇神など俺は怖くはない。彗星も怖くない。空気が消えて全員が窒息して苦しみながら死ぬのだと云ったのはお前ではないか」

 楢一郎の熱い息がキサの首筋にかかった。陽が落ちて頭上の空が昏かった。痛みでかすむ眼でキサは宵空を仰いだ。そのうちに白墨で書くような彗星がくっきりと夜空に見えてくるのだ。

 野分のような大風が森に吹きつけた。樹々がしなって鳴っている。猶一郎の背後に何かが蠢いた。黒い影だった。

 蛇神さま。

 這い寄る蛇神が猶一郎を呑みこみ、沼に引きずり込むのを最期までキサは見ていない。男の身体の下から逃れると、乱れた裾と解かれた帯を長い尾のように後に引いて、鎮守の森からキサは逃げ出した。


 

 老婆が死んだのは1964年。少年がその年を覚えているのは、東海道新幹線が開通し、東京五輪が開催された年だからだ。


 おとぎ話の王子でも 昔はとても食べられない

 アイスクリーム アイスクリーム


 ラジオから流れる『みんなのうた』。老婆は呟いた。

 次に彗星が地球に接近する頃にはわたしはもう生きてはいないわね。

 五輪を控えた町は大清掃の最中で、東京中の街路は町内会の手で塵ひとつなく掃き清められた。アイスクリームを詰めてもらった魔法瓶を返すために、少年は老婆の家を訪れた。呼び鈴を押しても返事がない。これでもう二日も空振りだ。踵を返すと、ちょうどそこにやって来た藤田老人に出喰わした。

「いないのか」と訊かれた。

 昨日から応答がないと伝えるや、老人は止める間もなく窓枠を破り屋内に侵入し、倒れている老婆を廊下に発見した。

 駈けつけた医師は自然死だと診断を出し、警察も事件性はないと結論づけた。

 少年の母が近所のよしみで老婆の顔に紅をさして死化粧をほどこした。

「きれいな方。とてもお若く見えること」

 老婆の名をはじめて少年は知った。キサというのだ。

 白菊を敷き詰めた清浄な棺のなかで、最初からそうだったかのように、キサは年齢不詳の石膏像のような顔をして眼を閉じていた。

 家の中はきれいなものだった。数年前から老婆は支度を終えていた。最小限のものしか所有しておらず、幾つかの家具と布団をのぞけば、あとは風呂敷が一つあれば全て畳めるほどだった。いつ死んでもいいように日頃から整えてあったとみえた。

 魔法瓶をどうしよう。

 火葬場にはこぶわけにもいかず持て余していると、藤田老人が少年の手から魔法瓶を取り上げた。

「この人は俺の長兄の行方を知っていたはずだが、最期まで蛇神が連れ去ったと云うばかりだった」

 藤田卯吉は無念そうに呟いた。

「兄さ、何処に消えた」

 猶一郎の失踪後、兄を探していた卯吉は沼のほとりで壊れた懐中電灯と水筒を拾った。水筒はキサのものだ。手提から落ちたのだ。

 卯吉に分かっているのは、あの日この森には兄の猶一郎とキサ、それに弥彦がいたということだ。

「あいすくりんを召し上がれ」

 キサが顎に手を添えて、匙で氷菓子を舌に落としてくれる。子どもたちは皆「ひやっこい」「文明の味はあまい」と笑っていたが、卯吉は間近にきたキサの眸や、あかい唇しか見ていなかった。

 兄がキサと森で逢うと知った時、卯吉は咄嗟にそれを弥彦にも知らせた。兄を止めて欲しかった。

「弥彦さん、兄さがキサさんを鎮守の森の沼に呼び出した」

 熊川弥彦は懐中電灯を手にしてすぐに鎮守の森に走った。卯吉は隠れてその後をつけた。

 薄闇にぎらりと刃が光った。

 卯吉が見たのは、兄が弥彦を匕首で刺して沼に突き落としたところまでだ。震え上がった卯吉は何度も転びながら家に走って帰り、その夜から熱を出した。


 おーい、猶一郎、弥彦ー

 キサ、何処だー


 数日のあいだ、夜も松明を連ねて探索が行われたが、誰も鎮守の森には行こうとしなかった。

 床払いがすんだ卯吉は森に行ってみた。拾った水筒に熱い湯を入れてみると、確かに長時間熱いままだった。熊川弥彦は自分のせいで沼に沈んでいる。兄とキサは何処に消えたのだろう。

「弥彦は沼に沈んでいる」

 何ヶ月も独りで胸に仕舞っていたが、良心に堪えかねて、卯吉はそんな噂を流した。誤算だったのは青年団の出動が想いのほか早かったことだ。

 いつものように沼のほとりで放心していた卯吉は慌てて隠れたが、水筒の回収を忘れた。

 隙をみて水筒を取り戻したが、卯吉はそれを持っていることが怖くなり、次の日、水筒も鎮守の森の沼に投げ込んだ。


 

 弥彦はずぶ濡れで沼から這い上がってきた。身に突き刺さったままの匕首を引き抜くと、弥彦は背後から猶一郎の背に刃を突き立てた。そして猶一郎の首を弥彦は両手で絞めた。彼は沼の泥で全身を黒く変えていた。

 空には彗星があった。

 お前は此処で俺と死ぬんだ。俺と来い。俺たちの墓は沼の底にある。

 キサ。

 逃げろキサ。

 突風が夜の森をかき乱し、板ベラからこそげ落とすようにして樹々の葉が片方に流れていた。岩の隙間を裂く風が鬼笛のような音を吹き鳴らす。

 満天の星空が広がり、彗星が蛇のように浮いていた。

 蛇神さま。

 蛇神さまが助けて下さった。

 夜の森を駈け抜けるキサの背後で、大蛇が水に落ちるくぐもった音がした。

 


[了]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沼のほとり 朝吹 @asabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説