二十一話

 鈴子が髪を切ってしまう事があってから半年が経った。


 その間、鈴子は吉勝と文のやり取りをしていた。彼からは仕事が忙しくて会えないと言ってきている。鈴子は自分の髪が腰まで伸びるまでは待ってほしいと伝えていた。

 現在、鈴子の髪は背中の真ん中を少し越すくらいまでは伸びている。小宰相や周防が毎日頑張って黄楊の櫛で梳いたり髪を早く伸ばすという香油を使ったりしていたおかげだろうか。はっきりとした事は鈴子にはわからない。

 今日も静かに手習いをする。歌を詠んだり日記を書きつけたりしていた。

「……姫様。今日も寒いですね」

 宰相が声をかけてくる。鈴子は頷いた。

「そうね。火桶の側で暖まりたいわ」

「ええ。手習いはおしまいにして火桶の近くにお行きください」

 宰相に促されて鈴子は火桶の側に膝立ちでにじり寄った。手を上にかざすとじんわりと温かさが伝わる。

 ほうと息をついた。宰相の他にも女房達が控えているが。鈴子の表情がほころぶのを安心したように見守っていた。確か、宮中に仕えていた清少納言という人が冬は朝と言っていた。かの人は枕草子とかいうものを書いていた。少しだけ鈴子は読んだ事がある。清少納言はなかなかにはっきり言う人だったようで。鈴子は一回会ってみたいなと思う。

 まあ、無理な話ではある。宰相が用意した綿入りの小袿を羽織った。なかなかに暖かくはなったが。寂しいなと思うのだった。




 あれから、さらに一月が経った。鈴子の髪はさらに伸びて腰に届く長さになった。やっとこれで吉勝と結婚できる。そうは思ったが。

 父と兄に知らせないといけない。仕方なく鈴子は女房に言って先触れをさせた。

 少し経って父の右大臣が鈴子の部屋にやってきた。

「……どうかしたのかね。話があると聞いたのだが」

 父が言うのを聞いて鈴子は居住まいを正した。

「父上。その吉勝殿の事についてなのですけど。髪も伸びてきましたし。そろそろ結婚を考えてもいいかなと思ったのです」

「吉勝殿か。ふむ、彼も鈴子の事を気にしておったぞ。体調は大丈夫かと兄の中将に言っていたしの」

「そうなんですか。じゃあ、父上から吉勝殿に声をかけてくださいませぬか?」

 鈴子が言うと右大臣は顎を撫でながら考え込んだ。

「……そうさの。声をかけても良いが。鈴子、吉勝殿の北の方になっても世間からは後ろ指をさされるぞ。そこの所はわかっているのか?」

「覚悟はしています。父上、東宮様には申し訳ありませんとわたくしが申していたとお伝えください。それだけでわかってくださるでしょう」

 そう言うと右大臣は眉を八の字に下げた。袖で目元を拭いながら娘のこれから歩むであろう険しい道のりを思い浮かべた。

「鈴子や。そなたは何があってもわしの娘だ。吉勝殿と何事かあったら父と兄を頼っても構わぬよ。そなたがこれから歩む道は平坦なものではない。険しいものと言えよう。それでもわしらがいる事を忘れないでおくれ」

「……ありがとうございます。何があっても忘れません」

 鈴子も袖で目元を拭う。親子二人で御簾を隔てながらも涙を流したのだった。



 半月ほどして鈴子は吉勝と結婚した。後朝の歌のやり取りや三日夜の餅、所顕し(ところあらわし)の儀式もつつがなく終わる。吉勝は鈴子を正妻として扱うと約束してくれたが。

 それでも右大臣や兄の中将は心配していた。吉勝の役職は多忙を極める。陰陽師と文官の役職である治部大輔を兼任している為に三日夜が過ぎたら文ばかりの日々が到来する。

 それでも鈴子は待ち続けた。彼から届く文に律儀に返事をして手習いも続けている。結婚してから早くも一月が経ち、鈴子は吉勝の袍などを女房達と一緒になって縫う日々を送っていた。

「お方様。吉勝様から文が届いています」

 小宰相が遠慮がちに言ってきた。

 縫い物に没頭していた鈴子はゆっくりと顔を上げる。

「あら。吉勝殿から?」

「ええ。お文と差し入れがありまして。野苺と蘇ですね」

「……野苺はわかるけど。蘇は入手するのが大変でしょうに」

 そうですわねと小宰相も同意した。他の女房が折敷に盛り付けて持ってくる。

 野苺は皿に盛り付けてあり蘇もあった。女房が気を利かせたのか唐菓子もあった。

 縫い物を一時中断して鈴子は野苺を手に取る。口に運ぶと甘酸っぱい味が広がった。なかなかに美味しい。女房達にも食べて良いと言う。皆、待ってましたとばかりに野苺や蘇に手を伸ばす。

 鈴子もゆっくりと野苺を食べた。蘇も食べてみたら濃厚なそれでいてあっさりとした味に意外性を感じた。

「吉勝様もなかなかに気が効く方ですね。こんな美味しい野苺、滅多に食べられませんわ」

「そうね。蘇も美味しいわ」

「唐菓子も召し上がりますか?」

 そうするわと言うと宰相が唐菓子の盛り付けられた折敷を持ってきた。鈴子はその中の小麦を練って油で揚げた菓子を食べる。

 しばらく皆で菓子を食べながら雑談をしたのだった。



 季節は三月になり春だなと感じるようになった。梅の花から桜の季節になろうとしている。

 周防が吉勝が来たと知らせてきた。鈴子は髪を整えてお化粧も直した。

 そうこうするうちに吉勝が部屋にやってくる。彼は今日も爽やかな笑顔で声をかけてきた。

「久しぶりだね。鈴子殿」

「ええ。お久しぶりです」

 几帳越しで挨拶をする。

 吉勝は不満そうにはせずに話しかけた。

「しばらく仕事が立て込んでいてね。文しか送れなかった。すまない」

「いいえ。気にはしておりません。吉勝殿も忙しい事はわかっていますから」

 鈴子が答えると吉勝はそうかと安堵したらしく笑う。

「鈴子殿。その。今日はこちらに泊まっていけそうなんだ。いいかな?」

「あら。それくらいでしたらいいですよ。お泊まりになっていただけたら父や兄も喜びます」

「ならいいんだ。ここの所、泊まれる日がなかったから」

 吉勝はそう言いながら几帳を押しのけた。

 鈴子ににじり寄ってくる。そうしておもむろに抱きしめてきた。

「本当にすまないね。私が出世できたらあなたに苦労をさせずにすんだのだが」

「吉勝殿。そう気になさいますな。わたくしは無事に結婚できただけで幸せです」

「……鈴子」

 吉勝は抱きしめる力を強めた。

 鈴子はなすがままだ。吉勝はふうと息をつく。

「そうだな。鈴子、来年になったら吉野に行こうか。桜の季節に」

「まあ。それは良いですね。きっと綺麗でしょう」

「ああ。宇治や北山にも。嵐山も共に行こう。子ができたら一緒に連れて行ってやってもいいし」

 そう言うと鈴子はふふっと笑った。

「良いですね。男の子と女の子が両方いたら賑やかになりますし。嵐山やいろんな所に連れて行ってあげたいです」

「そうだな。鈴子、末長く一緒にいよう」

「……はい」

 鈴子は頷くと吉勝の背中に腕を回した。吉勝もさらに強く抱きしめ返したのだったーー。



 鈴子と吉勝はその後、たくさんの子供に恵まれたらしい。吉勝は出世して参議にまでなる。二人は末長く仲睦まじくいたという。

 ー完ー

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薄紅に染まりて 入江 涼子 @irie05

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