人魚の恋

@tsukieda_haruka

人魚の恋

 海を捨てた人魚が遠く沖合を見つめて泣いていた。

 ふるさとの珊瑚の入り江、海草の森、旅を続ける鯨の歌、海底に横たわる冷めた流れ、光の届かない深い海に孤独にちらちらとまばたく光。

 人魚の話を聞いた漁師が、人魚を舟に乗せてやった。だが、すっかり海に囲まれると潮風が彼女の胸を引き裂いた。

 それならばと、別の漁師が人魚をせせらぎに連れて行った。でも、そこへたどり着くまでに木々の葉が彼女の肌を傷つけた。

 鯨の歌ほどやさしい歌は地上になく、晩春の夜風は冷たすぎる。

 ある夏の夜、漁師の妻が人魚のかたわらで彼女の海の中にあるという故郷の話を聞いていた。

 妻も遠い山の向こうの故郷の話をした。そこは栄えた町で、こんな夏の夜には大きな花火が空を飾った。

 ふたりは線香花火に火をつけて、ひととき煌めく故郷を偲んだ。


 海を捨てた人魚に、網本の息子が豪奢な着物を着せた。髪を結いあげて、街へ連れ出し隣を歩かせた。

 人魚はきゅうくつな身なりで歩くことに慣れておらず、一日の終わりにはくたびれ果ててしまった。男は家に帰ると人魚を休ませたが、人魚が男の話もきかずに船を漕ぎ、夜が更けると波の音を聞くと言って出て行ってしまったのでたいそう腹を立てた。

 日に焼けた体躯の立派な若い漁師が岩場から真珠貝を集めて、虹色に輝く貝の殻で腕飾りを作った。人魚の腕にそっとはめてやり、髪に触れようとしたが、人魚はかつての友人を思い出して言葉を失っていた。

 草の中に座ってぼんやり目を漂わせている人魚を漁師の妻が見つけて、その日は温かい椀物をともにした。もう会えなくなった子供時代の友人の話をしながら。

 

 海を捨てた人魚が漁師の妻に打ち明けた。

「私は海を捨てたんじゃないんです。かえれなくなっただけ。」

「私も街を捨てたんじゃない。帰れなくなっただけ。」

「もしも帰れたら、みんなまた私たちと前と変わらずに過ごしてくれるかしら。」

「そんな人もいるし、変わってしまった人もいる。私もここの生活で知らないうちに変わったと思われた。」

「じゃあ、あのふるさとはどこにあるの?」

「思い出の中にいつもある」

 人魚は線香花火の灯りのなかに故郷が見えたことを思いだした。

「もう帰れないなら、忘れることはできる?」


 海へ帰れない人魚の問いかけに、漁師の妻は胸に大きな穴があくのを感じた。

 女はなにか正しい答えを探していた。思い出は今を苦しめることもあれば、辛い現実を耐える支えにもなる、と言おうか。過去を忘れてしまえば、今の自分が何者かも忘れてしまうことになる、と言おうか。忘れて、今の現実を生きることで新しい暮らしに馴染める、そう言おうか。でも、どれも本当ではない。

「帰りたい。帰れないなら、忘れたい。忘れられない自分を馬鹿だと思う。自分の選択が重なってここへ来たのに。こんな思いをするとは知らなかった。」

 人魚は目をぱっと開いて女を見つめた。

「あなたがそんなに辛いなら、私があなたの夫を殺してあげる。そうしたらあなたは『漁師の妻』ではなくなるわ」


 だって、やさしいあなたが辛い思いをしているのはいやだから。

 波のように揺れて光を集める髪と海の深い緑をした瞳を女は静かなまなざしで見つめかえした。火花がぱちっと音を立てた。

「今はいい。」

「今は…?いずれ…?」

 漁師の妻は人魚を風呂に入れて、髪を念入りに洗った。潮の香りが落ちるように。この町で、そんなことができるはずもないのに。


 網本の息子が亡くなった。前の晩まで様子に変わったところはなかった。若かったのに。気の大きい、ぼんぼんらしい若さんだったのに。

 その朝、人魚は川で念入りに顔と髪と体を洗っていた。身体じゅうから汚れをそぎ落とすように必死に自分の身体をこすっていた。そして、ひと気のない岩陰で横になった。


 人魚が岩場に倒れているのを漁師が見つけた。声をかけても目を覚まさない。でも、胸を見れば上下する。生きているようだ。

 漁師は人魚を背負って家へ連れて帰ることにした。背中に人魚の体温を感じて心臓がとくとくと早まるのを感じた。頭が自然とのぼせる。だが、家が近づくにつれて妻にこんな顔を見られてはまずいと、努めてぶっきらぼうな表情をつくった。

 ただいま。

 意識を失った人魚を背負った夫の姿にいったい何があったのかと目を白黒させる妻に向かって、岩場に倒れていた、お前の友人だから連れて帰ったと夫は淡々と言葉にした。

 妻は、人魚を火の側で温かくしてやりながら、こういう優しいところが気にいってあなたと一緒にいたんでした、と言葉にした。

 夫は顔を背けて、納戸で寝てしまった。


夜半、人魚は目を覚ました。暖かな日が静かに燃え続けている。人魚の隣で女が寝息を立てている。

善良な苦労人、日に焼けた強くて優しい肌。

人魚は女に口づけした。女がうっすら目を開けると人魚は女に覆いかぶさって囁いた。

 網本の息子は死んだ?あいつ私を無理矢理寝床に引き込んだの。とても乱暴に。おかしいの。女のことを人形くらいにしか思えない輩なの。

 人魚は声をふるわせた。人魚の肌もつめたく震えていた。女は手のひらで人魚の肌を温めるようにそっと撫でた。起き上がって背中をさすってやった。人魚は涙をこぼさなかった。ただ身体を震わせたまま話し続けた。

 私と交わると男は死ぬしかないの。毒にあたってしまう。あなたに私の毒をあげる。この毒があれば、男を魅了して、そしてすぐに自由になれるわ。大丈夫、女は私の毒で死んだりしない。


数日後に漁師が舟から落ちて見つからなくなった。女が海に向かって、帰りたいと泣いていた。

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