千代の話

篠崎亜猫

千代の話

千代は傘を忘れて、電停の、あるかないかの廂の下に、縮こまるようにして立っていた。最近冷えるが今日は特に寒く、もう三月も半ばなのに雪が降っている。街は、再び襲ってきた冬という眠気に負けてシンと灰色に染まっていた。車の通りも、人の通りも少ない。電停の隅に、千代と同じ、一般に聖女と略される女子校の生徒が校則どおりの黒い傘をさして2人でひそひそ千代と同じように縮こまっているだけである。

蛍光灯の瞬く音が耳に痛く、千代はぼんやりと下を向いていた。鞄に引っ掛かっているボールチェーンが、所在なさげに揺れている。元々ここにはフィガロがついていた。手のひらサイズの白黒の、犬のぬいぐるみだ。大好きだった叔父にもらった、真っ黒い目をしてビビット・ピンクの首輪をつけた犬だった。叔父は背が高く、洋楽と読書が好きで、時々会話の中で古風な言い回しをし、千代を可愛い可愛いと褒めてくれ、数 年前に事故で水死した。現場には死体と一緒に叔父の愛飲していた煙草の箱が浮いていた。その死はあまりに突然で、千代は葬式で呆然としたまま、泣かないでいたことを覚えている。

学校を出て、降雪から逃げるべく電停まで走っていたら、ちょうど橋の真ん中でボールチェーンが切れてフィガロは鞄から落下した。拾い上げたフィガロの白い胸元は凍った雪と溶けた雪の交じった泥を吸って、醜く汚れていた。手で払っても落ちない汚れだ。泥水を吸って重たくなったフィガロが惨めで、水葬だと言い訳しながら千代はフィガロを川へ投げ捨てた。可哀そうなフィガロ。彼はいつもどこか暖かい匂いがしていたのに。

そんなことを考えていると突然、夢現の景色みたいなぼんやりした視界に、ビビット・ピンクがバサッと咲いた。ハッと顔を上げると、鼻の高い青年がビビット・ピンクの傘を千代に傾けて笑っていた。


「お嬢さん、お茶しない?」


そういうカラーコンタクトレンズを入れているのか、彼の目は人間ではありえないほど真っ黒であり、短く刈った髪やダウンジャケットも、黒くじっとり濡れていた。人懐っこそうな笑顔の持ち主である。背は高く、    肌は白かった。千代はじっと彼の顔を見て、服装を見て、また彼の顔を見た。さっきまでこの人と会っていたような、見知った感じのする顔だった。


「どうしたの」

「あの、どこかでお会いしましたか?」

「ン?」

「いえ……」


千代は考えて、冷え切った手をこすり合わせた。青年は傘を傾けたまま、固まったように千代だけを見つめている。傘が青年を覆いきれていないせいで、肩に雪がうっすら積もり始めていた。千代はそれを視界の端にとらえながら、ああこの人を温めなくては、と思った。


「構いません」

「えっ」

「あの、お茶します」

「ええっ」


青年は一歩二歩背後に下がって大げさなほど驚いた。千代はその反応がなんだか恥ずかしくて、もじもじして「よろしくお願いします」と小さく言った。


「いいの」

「あなたが言ったんじゃないですか」

「断られると思って……まいったな。君ンとこ聖女でしょ。親御さんにばれたら俺、殺されないかしら」

「いいんです」


青年がまだ疑わしい顔をしているので、千代はもう三度ほど、「いいんです」を繰り返す羽目になった。洋一と名乗った青年は、千代を電停の裏の古びた喫茶店に連れ込んでケーキと紅茶を二人分頼み、千代に確認もせずに煙草に火をつけた。それが当たり前であるかのようだった。


「奢るよ」

「ええ、それもいいんです」

「でもこんな、知らない男との食事に金を使ったらお母様に怒られるでしょう。仮にも聖女だし、制服で……」

「特に言われません」

「そうなの」

「はい」


千代は紅茶をふうふう言いながら飲み、ケーキを食べた。洋一は漸く安心した顔をして、ほっと煙を吐き出した。そうしてぼんやり肘をつき、千代の顔を見て痛そうに目を細めた。


「君の家庭は自由放任主義なんだね」

「自由?」

「そう、放任主義」

「……Laissez faire」


千代は授業で習った単語をそのまま小さな声で唱えた。洋一はケーキをフォークで崩しながら煙草の煙を天井に投げて、「君は世界一可愛らしい“フィ”の発声をするね」と言った。脳みその奥の柔らかいところに針を刺されたような感覚があって、千代は小さく呻いた。水死した大好きな叔父と水葬された可哀そうなフィガロが一緒くたに混ざった紙くずになり、千代の喉に押し入ろうとしている。酷く喉が渇いて、胸がつかえた。


「I was dyed by sorrows blue」


洋一は低く歌い、「今の君みたいだ」と言った。千代はちょっと手の甲を頬にあてて、自分の顔の温度を確かめた。暖房のおかげで暖かく火照っている。いつの間にか外は雨に変わっていた。千代はもう一度紅茶を飲んだ。


「悲しそう、ですかね」

「寂しそうだよ」

「そうですか」

「It's like a bottomless sky. I fall. I fall. Fall. Fall……But don't help me. I have power of crawl up……まあ、俺は無理だったけど」


洋一は少し早口で続きを歌った。彼の歌声は低く、地面にしみていく泥水のようだった。ずんずん進んで、そのまま海底にまで沈んでいきそうだった。

彼は歌い終わった後、自分の分のケーキを千代の方へ押しやった。顎でどうぞと言ってくる。千代はちらっと洋一の顔を見た。洋一はもうそっぽを向いて、窓を侵食していく雨だれを真剣に見つめている。無言が気まずくて、仕方なく彼の崩したケーキを食べた。甘酸っぱくて、舌がチクチクした。千代がケーキを食べ終わったあと、断ってからトイレに立つと洋一はもう会計を済ませたらしくどこにもいなかった。千代はなんとなく洋一のいた席に座り、まったく口をつけられていない洋一の紅茶を飲み干した。酷く冷めていて、胃がキュッと痛んだ。千代は少しだけ泣いた。店員が不審そうに声をかけようとしてきたので、店を出て電停に走り、千代はまた下を向いた。


もう鞄にボールチェーンは揺れておらず、おそらくどこかへ落としたらしい。

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千代の話 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki

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