第12話 大好きな色に染まる

「すい……」


 名前を言いかけたけど飲み込んだ。周りには女生徒も何人か歩いていることに気がついたからだ。放課後に私服姿の王子様が降臨したとなれば、パニックになりかねない。


「えっ、あのっ」


「いいから早く入って。歩きながら話そ。立ち止まってると目立っちゃう」


「ああっ」


 そのままぐいっと引き寄せられた。彼の胸に身を預けるような格好になってしまって、言葉が溶けてしまう。別に体温は感じないけれど、抱き合っているかのような距離感で、今にも呼吸の音が聞こえてきそうだ。


「行こ」彼の言葉でハッとして横に並び、駅の方向へと歩き出した。身長が全然違うのに歩調は不思議と合う。合わせてくれているのだろうか。お互いに黙ったまま、少しの距離を歩いた。


 絶えず打ち付ける雨の音に負けないくらい、心臓がうるさい。油断したら飛び出してきそうなほどに高鳴っている。自分が今どんな顔をしているかわからないし、翠川くんの横顔は大きなフードが邪魔をしてよく見えない。


「あ、そうか。うちまで帰ったなら、もう一本傘を持ってきたらよかったんだよね。草壁さん、よかったらひとりで使って」


 翠川くんは、沈黙に耐えきれなくなったみたいにそう言った。私が何も言わないのを、怒っているからだと思ったのだろうか。


 そうだよ、一本の傘を二人で分けて歩くなんて、どう考えてもカップルの行動だよ。私たち友達なのに――いつもみたいに軽くそう言いたいのに、全然言葉にならない。どうしてこんなに動揺しているのだろう。


 翠川くんは、なんとか私に傘を握らせようとする。いや、どうして彼が濡れなければならないのだ。さすがにそこまで図々しくはない。


「いや、そんな。私が出るから」


「待って、そんなつもりじゃないんだ」


 逃げようとしたのを肩を抱かれて止められ、思わず叫びそうになると、翠川くんは弾かれるみたいにして、私の肩から手を離した。


 気まずいいけれど、ここで逃げ出すのはかえって怪しいので、このまま並んで歩くことを決めた。


 ひたすら、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。それとまずは、今の不思議な状況を整理したかった。


「あの、私が傘持ってないってなんで知って……」


 私が何と言おうとしたかを察したのか、翠川くんはまたもや慌て始める。


「よ、読んでないからね!? ほら、朝、一生懸命、カバンひっくり返したりしてたじゃないか」


「ああ、現代文の教科書探してたときね」


「あの時、傘は入ってなかったなあって思って、もう一度来てみたんだ」


 どうやら、私のことをつぶさに観察していたらしい。本当によく見ているのだなと感心する。と同時に、あることに気がついた。


「え、待って。じゃあ、わざわざお家まで帰ったのに、また来てくれたってこと?」


「そうだよ。もし勘違いならそっと帰ろうと思ったんだけど。ああ、僕んちすごく近所だから気にしないで。あとえーっと、そうだ。駅前にちょうど用事あって、ついでだよ」


 私服姿だと思っていた彼は、よく見たら制服の上着を脱いで、黒いパーカーに変えただけの格好だ。グレーのズボンは全体的に水を吸っていて、暗い色に変わっている。スニーカーだって水たまりを何度も踏んだのかドロドロになっている。


 ついでだったと言うけれど、おそらく家から急ぎ足で学校まで戻って、私が通りがかるのをずっと待っていてくれたのだ。私に傘を差し掛けるためだけに。


「草壁さん?」


 駅まであと少しのところ、赤信号で立ち止まった。翠川くんの方を見ると、私はひとつも濡れてないのに、翠川くんの肩はおもいっきり濡れていた。


 濡らさないようにしてくれているんだ……その時、心を埋めていた灰色を押しのけるように色が満ちてくる。なぜか今の空の色でもなく、はたまた真紅でも翡翠色でもない、別の色。


 澄んだ水の色を模したといわれる、わずかに緑がかかった淡い青。私が一番大好きな色が、胸の奥から勝手に溢れてくる。


「だめっ」


 とっさに身体を丸めたけれど、どうにもならなかった。


「えっ……どうしたの? お腹痛い? ……あ!!」


 雨足は強くなっているのに、私たちの頭の上に、厚い雲を晴らしてしまったように澄んだ色が広がった。元は黒だった翠川くんの傘が見事な水色に染まってしまった。


 翠川くんは、目と口をまん丸に開いていた。上を向いたからかフードが脱げて、綺麗な顔があらわになってしまっている。


「あああ、ごめんね、勝手に染めて。本当にごめん」


 前後左右を確認するも、誰にも気づかれていないようだった。特に、後ろを人が歩いていないことが幸いだった。急に傘の色が変わったことをウチの生徒に見られたら、中に私が入っていることがバレてしまうかもしれないからだ。


「大丈夫!! これは何色? 空色?」


「ええっと、水色……かな。空色よりちょっと緑っぽいの」


「そういえば、水は透明なのに、『水色』があるのって面白いよね」


 目の前の信号が、赤から青になる。青と言いつつ緑だ。同じように青リンゴは青くないし、赤ちゃんも赤くない。お茶も茶色とは限らない。


 翠川くんの言うように、水は透明だけどそれを模した色がある。本来透明なものに、色が与えられているのだ。


 それは私の心の中に色が満ちるのと少し似ているかもしれない。それまで透明だったものに、ふとしたことで色がつくのだ。


 そういえば、今のはどうして真紅色でも翡翠色でもなくて、水色だったのだろう。


 多分、気恥ずかしいときは真紅色、翠川くんのことを考えたら翡翠色。


 なら水色は? 水色は、私の好きな色、私の好きな……好き?


 今日の朝の出来事が、パタパタと蘇る。翠川くんと二人で机をくっつけて、小学生の時の話をしたこと。


『好きな子と隣になれますようにって願ったりしなかった?』


 翠川くんには、好きな人がいたことがあって、今もいる。


――じゃあ、私の好きな人はだあれ?





「草壁さん」


 翠川くんに呼びかけられ、ハッと気がついた。グルグルと考えているうちに、駅に着いてしまったようだ。


『東翔大前駅』は学生や、職員、附属校に通う小中高生で朝と帰宅時間帯はそれなりに賑わう場所。ただ、今は少し中途半端な時間なので人通りは少ないと思う。


 私たちは、附属高生が主に利用する北口改札の前に立っていた。大きくせり出したひさしには雨が激しく叩きつけていて、目の前のやや傾斜がついた道路を水が滑っていくのが見える。


 翠川くんはフードを被り直して、畳んだ水色の傘を片手に立っている。その表情は、なぜか悲しげに曇っていた。


「ごめんね。僕が勝手なことしたの、怒ってるよね。最近ちょっと寒くなってきてるし、濡れたら大変だなって思っただけで、その」


 どうやら、私は傘の色を聞かれて答えたきり、ずっと黙り込んでいたらしい。


「ちょ、ちょっとだけ待ってて。すぐに戻せるから。ほんと、すぐに」


 噛み合っていないのは分かったけど、自覚してしまった今はこれを先になんとかしたい。翠川くんの手から傘をひったくるように取る。


「えっ!? 何!?」


「ごめん! 怒ってるわけじゃない! 来てくれてすごく嬉しかったけど」


「だったら」


 傘の柄を両手で握り、じっと念じる。


 お願いだから、恥ずかしいから早く戻って。


 でも、傘はなぜか元の色に戻ってくれない。いくら息を整えても、胸のザワザワが落ち着かなくて狙いがうまく定まらない。


 こんなにままならないことは、今まで一度もなかった。


「ごめん、本当に怒ってないの。ただ、これだけは」


「じゃあお願い、戻さないで。そのままにしておいて」


 翠川くんは、少し頭が冷えた私の手から傘をそっと取りかえした。手袋越しだけどまた手が触れたことに、心臓が弾むように跳ねる。


「でも、こんな色。なんか女子みたいじゃない? もし何か言われたりしたら」


 女物の傘はカラフルだけど、男の子というより、男の人が差す傘は黒かネイビー、もしくは透明のビニール傘しか見たことがない。


「そんなのどうでもいいよ。僕は好きだよ。この色」


 私の言葉を封じるように、翠川くんはキッパリ言った。いつもは子犬みたいに柔らかい彼の、初めて見る真剣な表情に、私は息を呑んだ。


「ほら、試しに見てみてよ。きっと悪くないと思うんだよね」


 翠川くんは雨が降りしきるひさしの外に一歩出ると、何のためらいもなく、パステルブルーの傘を差した。


「あっ」


 まるで日差しの下にいるかのようなまばゆい笑顔だ。端正な顔をしているからなのか、彼には明るい色の傘も違和感なく馴染んで、というよりびっくりするくらいよく似合っていた。


 どこのモデルさんだろうと感心したのもそうだけど、なによりも嬉しそうな顔に胸がきゅっと音を立てる。


 緊張して、とか焦って、とは全く違う胸の高鳴り。その正体に気づいてしまった今は、彼のことを考えれば考えるほど、心の中でいろんな色が混ざりあってしまう。


「そろそろ電車来るみたいだし、僕は帰るね。また明日」


「よ、用事あったんじゃないの?」


「……あ。何だっけ、忘れちゃった。まあ、たぶん大したことじゃないと思う。あはは」


 翠川くんはとぼけたように笑ってから、じゃあねとこちらに大きく手を振って、来た道を早足で戻っていった。明るい水色の傘は、灰色の景色のなかでとてもよく目立った。


 顔は好みじゃないし、かっこいいのになぜか自信がなくて、背筋が少しだけ曲がってて。困り顔の子犬みたいで、野菜が嫌いで、ちょっと子供っぽくて。


 勝手に人の心を読むし、こっそり後をつけるし、私と友達になりたいって言うし、怒られるのが嬉しいらしい変な人だけど。


 でも勇気を出してくれた。こんなにも優しくしてくれた。『染色』の能力をバカにしなかった。


 それに、私を見る目はいつだってまっすぐだった。


 ソーダの泡みたいにパチパチと音を立てて、たくさんの色が弾ける。


 切なくて悲しくてチクチクと痛いのに。雨は全然止みそうにないし、靴下だってずぶ濡れなのに、たまらなく嬉しくて幸せで、清々しくて、勝手に笑顔が込み上げてくる。


――私は、翠川くんのことが好きなんだ。


 その時、今までずっと透明だった感情に色がついた。大好きな色がついた。

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