Step 5 嵐と、夜

13話 『嵐と、夜』


法律事務所長の日記


3月某日 水曜日


 軽い風邪をひいた。さほど熱はないが、大事をとってホーエンローエ侯爵夫妻のサロンへ行くのをやめた。あそこのアルゼンチン出のコックが作る特筆の鶏肉パイと煮込み料理は月に一回の楽しみにしているのだが、残念至極だ。

 ブレーズが「風邪にはたっぷり、熱にはちょこっとだでよ」と昼食の量を増やしてきた。果物を少しでいいと言ったのだが、無理やり口に詰め込まれ、ベッドに放られる。だめ押しに、問答無用とばかりコケモモ酒を唇に押し当てるものだから、むせて吹き返してしまった。

 願って叶うものならば麗しの乙女に看護してもらいたい。可憐な、コーディリアのような……

 ブレーズではどうもむさ苦しいし、これでは虜囚の扱いだ…

 暇なので本棚から数冊引っ張り出してベッドで読んでいた。様子を見に来たブレーズが「こんあんぽんたんが、治る気がねえだか」と頭をはたく。私を子供だと思っているのか、無礼だ横暴だと抗議した。すると「おらの妹は風邪から肺炎になっておっ死んだだ。ナメてかかるもんでねえ」と言われた。

 ウトウトしている間にイアンが来ていたらしい。事務所の追徴金に対しての税務上の処理を頼んでおいたのだ。

 私を起こさず書類を置いて帰ってしまった。ブレーズは「水くせえだ」だのなんのと言うが、きっとイアン一流の遠慮だろう。その証拠に一度買い物をしに出て、ヨーグルトをト瓶差し入れてくれた。「召し上がったら安静に寝ていてください」との書き置きも一緒に。ただ、苦酸っぱくて堪らなかった。試みにスグリのジャムを加えてみたら、中々いける味になった。



3月某日金曜日


 雪がどっさり降り、馬車も拾えず徒歩で裁判所に向かうさなか、屋根から落ちてきた雪庇が私をすっぽり包んだ。そのまま窒息するかと思った。

 イアンが一緒にいて助けてくれなかったら、どうなっていたことか……

 一瞬だが本当に死にかけた。お笑い沙汰になるような最期など真っ平だ。

 今回は父親殺しの弁護を引き受けた。

 被告はヨーゼフという新兵のように真面目で初々しい青年。会社勤めであるが非常な貧乏。勤務態度は良好であったようだが、平素の身形みなりがあまりにみすぼらしく、上司から度重ねて服装について注意されていたようだ。

 昇給もそのせいで滞り(本末転倒もはなはだしいなりゆきだが)、追い詰められた彼は、せめて人並みな衣服のあてにと別れて暮らしていた父親(郵便局を四十年勤めあげたザスマン=フォン=フリーデル子爵)を探しあて、道端で捕まえて懇願した。

 しかし彼の訴えはすげなく無視され、以来手紙を送ったが無しのつぶて。思い余り、数日前のある嵐の夜に父親の邸宅の寝室に忍び、誰何した父親と揉み合いの末刺殺に至った。

 皮肉なことには、彼が召使に捕縛されたその日(犯行当日)付けの遺言状が寝室(現場)から発見され、そこには「我が全財産を愛する息子ヨーゼフに委ねる」と記されていたのだ。

 陪審を取り揃え寝室での揉み合いの際のやりとりを再現してみるも「僕です、あなたの息子のヨーゼフです。話し合いたくて罷り越しました」という彼に「誰ぞ。うぬ、おのれ賊めが。余の物に触れるな」と子爵がハサミをかざして襲いかかったという点が信憑性に欠け、好反応を得るのはなかなか難しい。

 被害者に遺言書の執筆を強要し、抵抗を受けたので殺害した…というのが検察側の所見だ。

 私の見解は、自己防衛による偶発的殺人。加えるならば不法侵入。ヨーゼフの様子からして間違いはないと信じているのだが、どうも足元が覚束ない。

 子爵の行動の謎。息子の声、言葉を聞いていてなぜ向かって行ったのか。周囲に黙って遺言書を用意したのはなぜか?

 日頃から冷静、取り乱したことなどないという子爵が蛮勇を奮ったのは、やはりはじめから息子の殺意を感じ取ったからなのか……

 イアンは「父子といえど所詮他人ですから」と前置いてから「それでも私は被疑者を信じたいです」と言った。

 前半は私にはよく分かる。私も父を見たことがなく、抱きあげられた記憶も無い。残念には思うが、寂しくはない。私は父とは精神において他人だからだろう(それに私には兄上がいらっしゃる)。

 だが被疑者ヨーゼフに対しては、私もイアンと同じように信じたい気持ちでいっぱいだ。

 一つ厄介なのが、『隻腕の死天使』ことファルメライヤーが検事をつとめていることだ。彼はハナっからヨーゼフの悪意を断定し、彼の罪を拡大解釈してなろうことなら極刑が下されるよういやらしく攻撃してくる。まだギムナジウムの頃の悪戯を根に持っているようだし、やりにくい男だ。



3月某日 月曜日


 傍聴席に派手な虎人がいた。イアンのパリでの知己で、名をラウル=ド=リブロンという。

 閉廷後に爽やかな挨拶を受け、握手を交わした。「なかなか見事な弁舌で、聞き惚れてしまいます」と褒められた。それから耳元にささやくように「子爵の日記か、医者にかかっていたという記録をお当たりなさい」と言い、するりと居なくなった。

 決して悪い印象ではないのだが。妖艶というものか、物腰と声、洗練された子音の響きが妙に体の芯をくすぐってくる。色っぽい女性には出逢ったこともあるが、男でここまで魅力があるのは初めてだ。

「彼は学友達の間でも変人で通っていました」とイアンは何やら不審げだった。

 なに、変人ならば私も同様。彼が言っていたことも調べてみよう。こうなれば皿まで、だ。



3月某日 土曜日


 全てが解決!まるで凱旋するアレキサンダーの気分!

 判決は華々しく拍手のうちに下された!

 つまり真相はこうだ(長年憧れていた常套句!)。


 子爵は退職してから進行性難聴にかかり、それを周囲にひた隠しにしていた。それはひとえにプライドと、長年の勤務と引き換えに手に入れた所領経営者としての体面を保ち続けるためだったのだろう。

 氏は罹患よりずっと以前から誰に対しても寡黙だったため、召使いへの指示が口頭からメモに切り替わっていっても誰もが「歳をとって偏屈の度が増した」と思っただけだった。若干唇を読む技術を身に付けた子爵の聴覚に疑いを持つものなど誰もいなかった。

 氏の息子が街角で話しかけたときも、「自分にとてもよく似た青年だ」と感じはしても、発した一言も聞き取れず、病状を悟られる恐ろしさに逃げてしまった(氏の心の裡は日記において極めてつまびらかだ。誰とも会話のできぬ淋しさゆえか)。

 勿論、ヨーゼフの送った手紙にはすべて目を通していた。知らずにいた息子の存在、彼の謂われなき貧窮を救うべく、父親として財産の譲渡という手段を講じていた。

 その矢先にあの事故(決して『事件』ではない。むしろ『悲劇』だ)が起きた。

 要点はヨーゼフの侵入時に窓の風でランプ(子爵は就寝時にも灯火を絶やさなかった)が消え、寝室が真の闇にとざされたことにある。

 音の無い世界に生きる氏にとって、光は唯一のよるべ、最大の知覚だった。

 遺言状を真新しいペンとインクでしたためていたあの夜、巡り合わせの不幸が寝室にあやめもつかぬ暗黒をもたらした。

 氏の恐怖はいかほどだったろう。かすかな震動によってそれと知れる侵入者。退去の勧告をものともせず肩口に掴みかかる!

 このままでは自分の財産が、勤勉に積み上げ、つまりは息子ヨーゼフに譲り渡すべく天が配剤した浄財が、悪党の鉤爪にかかる…

「余の物に触れるな!」

 息子のためのものだ…と。

 なんたる父性、老いたる勇者!

 涙を禁じ得ない。

 ヨーゼフは晴れて釈放された。今後子爵家を名乗ることは禁じられたが(未必的とはいえ父親を殺害してしまったのだから)、財産を受け取り、父の菩提を弔う権利を勝ち取った。

 こうも後味よく落着した事件は久しぶりで、嬉しくて退廷が待ちきれなかった。

 事務所でささやかな祝いをした。イアンやブレーズと手を取り合って踊り、酒を酌み交わした。ブレーズにはしたたか足を踏まれ、イアンには「いい加減になさったらどうですか、大袈裟すぎます」と厭がられたが、とにかく誇らしい1日だった。

 リブロン君の助言がなければ真相は文字通り闇の中だったろう。

 彼の滞在先のホテルに問い合わせ、お礼にレストラン『ライディンガー』を予約した。

 あちらも何やら私に渡すものがあるという。落とし物だというので、もしやと尋ねれば、あにはからんや叔父上の片眼鏡!

 スペアが使いづらかったので本当に助かる。

 全く何から何まで、彼は天使のような人物だ。

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