第1話 巻き戻された世界

 赤く燃える炎、焼け焦げていく肌、そして全身を駆け巡る苦痛。その全てからやっと解放された少女クロエは、意識の底へ落ちていく。

 自分がどこにいるのか、自分が何者なのかも彼女には分からず、僅かな記憶も薄れていく。それでも、なぜか彼女は安堵していた。

 自分という存在が消えていく感覚に、彼女が身を任せたその時。


「…ま、…様!」


誰かの声に身体が引っ張られた。その声に導かれるがままに、意識が浮上していく。

 私を呼ぶのは、誰?————


***


「クロエ様!」


 はっきりと自分を呼ぶ声に起こされ、クロエの意識は覚醒した。しかし起きようと試みても、重い瞼が邪魔をする。

 徐々に感覚を取り戻してきたクロエは、自分の身体が熱いことに気がついた。身体が重く、喉が酷く渇いて息苦しい。自分はまだ炎の中に居るのかとさえ思わせるようである。

 熱を帯びた手首を、ヒヤリと冷たい手が掴む。唐突に触れた冷たい何かに反応して、クロエはうっすらと目を開けた。


 目に映ったのは、その髪と同じく茶色い瞳が綺麗な女性。見覚えのある顔に、クロエは掠れた声で小さく呟いた。

「リナ…?」

「はい!お分かりになりますか、クロエ様?」

 聴き慣れた懐かしい声に、クロエの意識がはっきりしてくる。目の前の女性・リナを完全に認識した彼女は、安堵のため息を漏らした。


 あぁ、やっと終われたのか。


 自分が死んだことを、クロエは疑わなかった。自分が火あぶりにされたことも、今目の前にいる侍女のリナが拷問の末に息絶えたことも、はっきりと憶えているからだ。

 自分の手を見てみれば火傷はなく、それどころか肌が若い気すらする。手が以前より小さく見え、痩せてもいない。

 見覚えのある部屋に、随分と久しい柔らかいベッド。ここは走馬灯の一部なのか、それとも死後の世界なのか。それにしてはやけに生活感のある世界だし、走馬灯だとしたら一瞬で終わるものだろうに、とクロエは不思議に思う。


「クロエ様、お加減はいかがですか?水をお持ちしましょうか?」

 確かに喉が渇いていたので頷くと、リナはすぐに水の入ったコップを持って来た。身体を支えてもらいながら一口飲むと、身体の熱さが一瞬だけ楽になった気がする。


「お倒れになって、丸一日経ったのですよ?本当に心配致しました!」


 倒れて丸一日も寝込んだ?そんなこと前にあったかしら…。


 寝起きで上手く働かない頭で記憶を遡る。クロエは決して病弱ではなく、それどころかなかなか体調を崩すことが無い。珍しいことなので、すぐに思い出せると思ったが…。


「…リナ、今日は何年かしら?」

「えっ⁉︎どうしてそんなことをお尋ねに?まさか高熱のせいで記憶が混濁されているのですか⁉︎どうしましょう…皇太子殿下に何とお伝えすれば…!」


 リナの言う皇太子とは、第一皇子アルノルト=フェリシア。クロエが処刑される四年前に流行病で急死した、彼女の実兄である。


「…やっぱり、兄様も生きているのね。」

「クロエ様、今何か?」

「なんでもないわ。それより、教えて。今は何年?」

「現皇帝陛下の即位21年の年です。」

「即位21年…。」


 クロエの処刑は、即位25年のこと。その四年前は、アルノルトが急逝する年だ。


 クロエは考えあぐねていた。彼女は実の兄が亡くなった年のことを鮮明に憶えているが、体調を崩した記憶など無かったからだ。


「ねぇ、アルノルト兄様は?」

「皇太子殿下は、現在辺境の町へ視察に出ていらっしゃいます。そのこともお忘れになってしまったのですか?」


 話せば話すほどクロエの記憶が曖昧になっていることが浮き彫りになるので、リナは軽くパニックになっていた。しかし、クロエ本人も別の意味でパニックだ。

 アルノルトが急逝したのは、視察から帰って間もなくのことだ。なのでもちろん、その時期に自分が倒れたことを忘れるはずがない。そこからクロエが出した結論は…。


 時間が巻き戻っている?


 幼い自分、死んだはずの人間がここに居るという事実、存在しないはずの過去。仮説が合っているとしたら、それらの要素が全て繋がる。確定できるものではないが、それ以外の候補が今のクロエには思いつかなかった。


 そして、その仮説が思い浮かぶと同時に彼女の頭によぎったのは、『絶望』の二文字だった。


 クロエは思う。また生きなければならないのか?この理不尽な世界で、自分に対する優しさなど無いこの世界で、もう一度生きなければならないというのか?どうしていつまで経っても、自分は解放されないのか?

 生きる希望なんて、あの処刑場に立った時に失くしてしまった。神なんて居ないと、全てを失った時に悟ったはずだった。それでも終わらぬ生という名の地獄は、彼女を絶望の底に突き落とすには十分だった。


「どうかなさいましたか、クロエ様?やはりご気分が優れませんか?」

 リナの心配の声すら、彼女には聞こえていない。アルノルトが病死してからの四年を思い返せばこそ、クロエは独りでに追い詰められていた。


 コンコンッ。

 扉を叩く音が、彼女を現実に引き戻す。リナが出る前に扉は開き、一人の男が駆け込んできた。

「クロエ!」

 懐かしい声に、クロエの心臓が跳ねる。

 気のせいじゃない。この懐かしい声は、自分が過去でずっと想っていた人の声。


「兄様…?」


息を切らせたこの男こそ、現皇太子・アルノルトであった。

 生きている兄を目の当たりにしたクロエは、熱があるのも忘れてベッドを飛び出した。それを見たアルノルトは、ふらつきながら向かってくるクロエを駆け足で迎えに行く。


「寝ていなくちゃダメじゃないか、クロエ。」

「兄様なの?本当にアルノルト兄様なの?」

「当たり前だろう?誰だと思ったの?」

 膝をついて目線を合わせた兄の問いに、クロエは首を振る。しかし自分の目に映る光景が信じられなくて、二言目は何も言えなかった。


 アルノルトが生きている。それはリナの話からも分かっていたことだったが、話を聞くのと実際に目の当たりにするのでは感じ方が大きく異なる。


「クロエ、どうしたの⁉」

アルノルトが声をあげる。クロエ本人は首を傾げ、アルノルトはひどく慌てている。

 クロエは泣いていた。しかし本人は気づかない。過去の苦しい経験を経て、素直に泣く方法すら忘れていたのだ。

 泣いていることに気がついた時、クロエは自分自身に驚いた。涙を流すような優しい感情なんて、ずっと前に枯れたものだと思っていたから。


「にいさまっ!」

「え⁉」

 感情が一気に溢れたクロエは、勢いよく兄に抱きつく。

 全ての感情を思い出したとは言えないかもしれない。しかし、兄との再会を喜べる感情は、彼女の内に確実に戻っていた。


「どうしたの?どこか痛いの?」

アルノルトの問いに彼女は何も言わず、首を振りつつ兄の温もりを噛み締める。夢でも現実でも良い。そんなことは今のクロエにとってどうでも良かった。

 アルノルトは尋常でない妹の様子を疑問に思ったものの、彼女を安心させるように優しく抱き締めた。


 失われたはずの幸せな時間が、ただゆっくりと流れていく。

 過去のトラウマも、未来への不安も、この間だけは姿を消したのだった。




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