第7話波の下の都




 僕がそのバイトに呼ばれたのは急なことだった。警備会社で夜間のバイトをしていた僕だけれど、あまりに突然なことで他にあてがない、とそこに派遣されたのはちょっと驚く。

 工事現場でも店舗でもなかったから。博物館、なのだという。実際に行ってみたら想像していたようなものではなくて、もっとずっと小さな博物館だった。

「なんか気味悪」

 建物を前についこぼしてしまった。夜になっていたせいもきっとあるのだろうけれど、嫌な雰囲気がしていたのも確かだった。

「あぁ、よく来てくれました」

 迎えてくれたのは館長だという。それにも驚いた。小さな博物館だから人手が足らないのかもしれない。初老の男性は僕の姿にあからさまに安堵していた。

「ちょっと色々ありましてね」

「というと? 差し支えなければ」

「いやぁ」

 言葉を濁されて聞くのではなかったかな、と思う。が、困っていただけらしい。館長曰く「異臭騒ぎがした」とのことだった。博物館で異臭騒ぎとはどういうことなのだろう。首をかしげつつ館長に従って館内を行く。

「ポリネシア展をやっとるんですよ」

 僕の視線に気づいたのだろう。夜とあって必要最低限の明かりしか灯されていない館内は薄暗く、展示物も気味悪く見えた。館長はそんな僕にあれは何、これはどこから、と説明してくれる。ちょっと贅沢だな、と内心に笑ってしまった。

「それで、これが問題の像でね」

 一通り見たあと、館長はそう言って僕を一体の彫像の前へと連れ出す。一見してぞっとするような像だった。いったいこれは何を表したものなのだろうか。僕には見当もつかない。

「どうもこれを見た人がね、具合が悪くなる」

「は?」

「変な臭いがしたという人もいたし、嘔吐が止まらなくなった、という人もいた」

「そんな馬鹿な。……あ、いえ。すみません」

「いやいや、気持ちはわかる。私も馬鹿なと思っているからね」

 だが館長としては放置はできず、致し方なく明日には専門の調査に入ってもらう予定なのだそうだ。それまでに万が一のことがあってはならないから、警備を依頼したとのこと。

「気持ちのいいものではないだろうけれど、悪いね」

「とんでもない」

「まぁ、何事もないに決まっているから。君は朝までいてくれればそれでいいよ」

 つまり館長は何もしていない、と言われることを恐れてとりあえず警備を置いてみました、という体裁がほしいだけらしい。僕にも異存はない。

「わかりました」

「暇だろうからね、見てまわってていいよ」

「いえ、それは……」

「あぁいや、この部屋の中だけだけどね。けっこう色々あるから暇潰しにはなる」

 館長にはそうだろうけれど、ポリネシアがどうのと言われても素養のない僕にはさっぱりだ。館長も僕を気遣ってくれただけなのか、更に勧めることはなく帰っていった。

 途端にしんと静まり返った博物館だ。あまり気持ちのいいものでもないけれど、バイトで慣れている僕には確かに暇なだけでもあった。

「これがねぇ」

 自然、気になったのはその彫像。像から異臭とは意味がわからない。つい臭いを嗅いでしまったけれど、別に何か臭うわけでもなかった。

 ただ、気持ち悪い像だとは思う。単に歪んでいる、とも言えない。蛸に蝙蝠の羽をつけて烏賊の足を生やしてみて蚯蚓と蛞蝓を足してみたら――。

「まだ足りないなぁ」

 本当にどんな人がどんな意図で作ったのだろう。小さな像だった。台座の上にちょこんと置かれているだけでガラスケースすらないのは、さして貴重なものでもないせいだろう。館長の扱いも雑ではないが真剣でもなかった。

 あまり眺めていて気分のいいものでもない。吐いたというのはまだわかる気がする。僕は一旦その場を離れて室内の展示物を見てまわる。

「うん、やっぱりわかんない」

 そもそもポリネシアってどこだ、としか思えない。南の方だよな、程度の僕にこれを鑑賞する目はないと思う。そういえば東北の方にハワイのテーマパークがあった気がする。あのポスターで見たようなものが展示してあったから、そちらの方なのかもしれない。

 ぐるりとまわって、再び台座の前に戻ってきた。やっぱり見ていたくない。視線を外して別のものを見る。キャプションがついていたからけっこう楽しめた。というか時間は潰せた。

 なのに、気づいたらまた台座の前にいた。他を見てしまったから、ではない。なぜか足がこちらに向いた。引き寄せられているみたいで嫌な感じがする。僕はわざわざ背中を向けたのに、やっぱり気がついたらまた像を見ていた。

「なんだ、これ」

 そんなに見て楽しい彫像ではないというのに。むしろ気持ち悪いというのに。まじまじと見ていて、喉の奥から込み上げてくるものがあった僕は慌てて口許を押さえる。異臭騒ぎで呼ばれたバイトが吐いていては世話はない。

 ――いや、逆? マジだったってこと?

 迫り上がってくるものを飲み下しながら僕はまだ像を見ていた。もしかしたら、本当にこの彫像は吐き気を催すような何かを発しているのでは、と。思った瞬間に笑い飛ばす。こんなバイトをしていると怪談には慣れる。

「そうだよな。怪談じみてるよな」

 彫像を見ただけで嘔吐するとは。笑ったはずの僕の声はなぜかしら空虚に響いて、そちらの方にこそぞっとした。それが、ちょっと悔しい。空気に飲まれたなんて馬鹿馬鹿しいではないか。

 だから僕は手を伸ばした。館長から警備に関しては聞いていたから、触ったといって警報が鳴るようなことはないとわかっている。ちょっとした悪戯。肝試し気分か。

「……っ!?」

 なのに、僕の指は像に触れなかった。違う、触れた。確かに触っている。僕の目には触っている指が見えている。なのに触れた感触がしない。それも違うか。ねとりとしたもの、ずぶりと沈んでいく指。感じているのに、わからない。慌てて何事もなかったかのよう手を引いた。

 ただそれだけの一晩だった。朝になって出勤してきた館長に挨拶をして帰る。それで終わりのはずだったのだけれど。

「本当にすまないが。もう一晩頼めるかな」

 調査の人の都合がつかず、今日は来ることができないと連絡が入ったのだそうだ。警備会社を通してくれさえすれば僕は別にかまわない。他のバイトもないことだし。快諾した僕に館長はほっと息をついていた。

 夜のバイトに向けて一旦寝に戻って、夜になってから博物館にやってきた僕は、玄関前で立ちすくむ。この先に行きたくない、体が拒絶しているかのよう。あの彫像がある、ふと思って躊躇した。気持ちの方は、そうしていたのに足は不思議と前に行く。首筋が涼しくて触ってみたら汗が滲んでいた。

 昨夜と同じよう僕は一人で館内に残る。すっかり見てしまったあとだから今夜は暇だった。馬鹿らしいと思いつつあの彫像からは視線を切ったまま。

 不意に音がした。気のせいだとは思うけれど、波のような音が。少し寝不足だったから、ぼうっとして半分夢でも見たのかもしれない。

 そう思ったときには、本当に夢を見ていた。なぜか夢とわかる。だけど起きているともわかる。夢の中では波の音が慕わしく響いていた。はっとして僕は首を思い切り振っては眠気を払う。

「そっか」

 気味悪いものでも見れば目が覚めるかも。そんな気分であの彫像を見た。だけでなく、また触ってみた。あの気色悪い感触を味わえば目などすぐ覚めるに決まっている。

 まるで痺れたかのようだった。ねっとりとした暖かな沼にはまっていくかのようで、背骨に電撃を通されたほどがくがくと震えが走る。

 そして見た。目の前に現れたそれは、都市だった。都、と言いたい床しい建造物の数々。曲線と直線が奇妙な角度で交差し、緑色の軟泥に覆われた、ここは島だろうか。見上げれば島の中心部に巨大にして荘厳な建造物がある。

「あそこだ」

 あれは、あれこそは神殿にして寝所、寝所にして墓所と確信が湧く。あそこに向かわねばならない。足を進めるたびにぞぶりと沈んだ。絡みついてくる海藻があり、幾何学を無視した、否、我ら卑小なる人間には知り得ぬ優美なる曲線を描く家屋がある。私は泣いていた、震えていた。なぜ私はここにいるのだと。なぜ地上に縛られて彼らの下へ行けないのだと。神殿にはいと高き尊き御方が坐す。恐れ敬い這いつくばりなお足らない御方が。

 そこで幻影は途切れた。僕は震えていた。警察のものに少し似せた制服がじっとりと濡れている。手の平は濡れて滑るほど。

 目の前の彫像は、変わっていない。けれど、変わっていた。わかっている。変わったのは僕の目だ。見方が変わってしまった。この彫像こそ、あの神殿の主だといまの私は知っている。

 こんなところに置いておけるか、そう思っていた。こんな粗末な場所でしかるべき敬意を払われるでもなく見せ物にされているなど、冒涜だと。

 私は知っている。この彫像こそ人類の主人たるべき神、我が神だと。小さな彫像ですらかほどに恐ろしい。この偉容を見た人間どもが震えおののいたのも当然だった。嘔吐に苦しみ逃げ出したのは無理もなかった。

 祈れ、敬え。恐るべき我が神は波の下の都におわす。それなのに、何も知らない人間どもは我が神の像を晒し者にして見物したのだ。

「あってはならない」

 我が神には我らが祈りとて路傍の石ほどにも役に立たない雑音に過ぎない。それでも我らは祈るしかないのだ。神の目覚めを待ち望み、いずれ到来する終末の日に我が神が顕現するのを待つしかないのだ。

 直接触れるなど恐れ多い。袖に包んだ手を伸ばし、恭しく彫像を抱き取った。ほんのりと冷気が漂ってくる。我が神の抱擁に違いない。私の敬虔さを嘉納されたのだ。そう思うとなんと喜ばしいことか。随喜の涙をこぼせば我が神の似姿を汚しかねず私は慌てて拳で拭いとる。いったい、いかなる偶然だろうか。その手が御像に触れたのは。

「……ひっ」

 なんで僕はこんなものを抱いているんだ。いまの幻はいったいなんなんだ。僕は見ていない、奇妙な角度の都なんて見ていない。神殿の中にいるのが何かなんて知らない、考えたくないし考えたこともない。

「知らない、なんにも知らない!」

 本当ならばこんな像なんて投げ出したい。けれどバイトで来ているのに壊すなんてとんでもない。理性なんて働かなければよかったのに。

 像と、目があった。呼んでいる、像が僕を呼んでいる。南洋に、ポリネシアの海に、あの都に、いまは波の下に沈んだあの都市に来いと囁いている。神が、恐怖の神が僕を手招いている。もう遅い。逃げられない。壊すのだった。投げてしまえばよかった。貼りついたよう像を握る手はもう剥がせない。

 やめろ、僕は知らない。恐ろしい支配者、水に封じられたクトゥルフなんて知らない。呼ぶな。僕は知らない、なんにも知らない知りたくない。死せる神よ私を招きたまえ。違う、僕を呼ぶな。

 あぁ、声が。声がする。僕は、私は、行かねばならない。声が。




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