第31話 泉の向こう


 果て成る水晶の迷宮の泉の向こうには、泉で禊(水浴び)をする女神がいた。

 傍らでは従者が、タオルを持って見守っている。


「ヴェーラ様。本当に良かったのですか?」

「これで良かったのですよ、エミス」


 鬼神のクラスチェンジのときに彼に囁いた声の主だった。

 女神の名はヴェーラ。従者の名はエミスといった。 


 泉で禊ぎを行う女神ヴェーラの背中に、従者エミスが尋ねる。

 ヴェーラの周囲には、泉の水のしずくが弾け、流麗な輝きを放っている。


 腰まで伸びた白金プラチナの髪をかき揚げ、泉の雫を散らすと、虹色の光彩が周囲に散った。


「しかしヴェーラ様。あの鬼神という男は……。とてもではありませんが【光】には見えません」

「水晶世界の精神汚染を浄化するには、手段は選んでは居られません。隣り合う異世界である我々妖精世界からすれば、彼のような力への意思は魅力的なのです」


「あのようなものに泉の力を与えるなど……、前例がありませんよ!」

「あっはは! いいじゃないですか。いまどき善だの光だのじゃなきゃ力を送り込めないなんて。老人達の迷信ですよ」


「ですが……」

「エミスは私と老人共。どっちをとりますの?」


 泉の光の中で裸体のままヴェーラは振り向く。豊かな胸が、果実のように揺れ、同性であるエミスにさえ畏怖と魅了を与えた。


「もちろんヴェーラ様です」


 禊ぎを行う裸体は、見るものを畏怖させた。

 美しすぎるものをみると、人は恐怖を覚えるのだ。


 従者であるエミスもまた、ヴェーラの輝きに圧倒され恐れを抱いていた。


 ヴェーラは一糸まとわぬ姿のまま、妖艶な笑みを浮かべる。


「うっふふ。〈隣合う異世界の浄化〉の管理を行うのも、女神の仕事ですが。そろそろ、この仕事の〈役得〉を望んでもいいかなって思ったわけなのです。あぁ……!」


 ヴェーラは裸体のまま、胸をかき抱く。


「ヴェーラ様……。また【発作】ですか?」

「いいのよ、エミス。心配しないで。すぐ収まるわ。あぁぁ……」


「いえ。心配などしていません。どうせ悶えているだけでしょう」

「冷たいのね」


「ここ数ヶ月。あの異世界の男……。鬼神のことばかりみていて。ずっとこの調子ですもんね」

「ええ。そのとおりよ!」


 ヴェーラは頬を赤くし、泉に濡れながら膝をつく。

 従者エミスは呆れ顔となる。


 隣接する異世界。【水晶世界(鬼神のいる世界)】のに肩入れしてから、女神ヴェーラはおかしくなった。 



「あぁぁああああ……。鬼神きゅん。しゅきぃ……。しゅきぃ!!」



 ちゃぷちゃぷと泉につかりながら、ヴェーラはうつ伏せになって泉に顔を埋める。


 泉の向こうには異世界の景色が見える。


「鬼神、きゅん!」


 妖精世界の女神であるヴェーラは、妖精を使役することで異世界へ干渉する役目を担っていた。


「しゅっっっきいいいいいぃい!」

「ヴェーラ様。それ以上泉にお顔をつけては窒息します」


「ごぼっ! ごぼごぼっ!」

「泉の向こうに目を向けたまま、お話にならないでください。あと今の汚れ芸は女神にしては極めてギリギリですよ?」


「ぶっはぁ!」


 女神ヴェーラは泉から顔をあげて、天をあおぐ。


「どうされました?」

「彼女、できちゃった」


「え?」

「鬼神きゅんに、彼女が。ああぁ……」


「別に、いいではありませんか。それにヴェーラ様は始めは嗜虐的であらせましたでしょう? 『力をどこまで注入できるかな?』とか。『限界を越えろよぉ!』とか」


「ええ。私は鬼神に魔力を注ぎました。しかしヘカトンケイルとなったのは彼自身の潜在能力です」

「はぁ」


「果なる水晶の迷宮の50階層は、私達の世界との境界になっていました」

「ですが我々は妖精世界の女神にすぎません。いくら隣の世界が【サイコパス禍時代】となり、荒廃を始めたからと言っても……。ヴェーラ様が肩入れするようなことは……」


「彼は非情に、バランスがいいのですよ。エミス」

「あの鬼神が、ですか?」


「ええ。ぶっきらぼうな癖に、会社の同僚のために迷宮を踏破する姿勢。なんのメリットもないのに、衝動だけで突き進む心根。折れない心。そして見た目が私の好みです」


「……おっさんじゃないですか。ただの。ちょっとお腹でてますし」

「腹筋が秘められていますよ」


「割れてないじゃないですか」


「とにかく。私は、彼に魔力を注ぎ込みました。はじめは『死んでもいっかぁ』って思ってたんです。そりゃもう寝転がってはちみつ舐めながら異世界に魔力を送り込んでいたんですよ」


「横にいたからわかります」

「ならわかるでしょう。鬼神きゅんは、底なしだったんです」


「はぁ……」


「私の魔力をあれだけ注がれて、肉体が爆発四散してもおかしくなかったのに。人の原型をとどめている。これはもう、救世主としか呼びようがない! しゅきしゅきしゅき……。ああ泉の向こうにイきたいぃ! ごぼっごぼっ!」


 女神ヴェーラは水に顔をつけ、ギリギリの声をあげた。


「はぁ。担当変わろっかなぁ」


 従者エミスは、鬼神押しとなってしまった女神ヴェーラを前に、憂鬱なため息をついた。


 そのとき泉が光りだす。

 

「え?」


 ヴェーラが転送を始めていたのだ。


「じゃ、ちょっくら鬼神きゅんのところに行ってくるから」

「いや、だめでしょ。おい待て女神ぃ!」


 ヴェーラは鬼神に会うべく、異世界転移を行おうとしていたのだった。


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