死ねない呪い

 朝。目が覚めると、いつも居るはずの妻が居なかった。時刻は五時。もう帰ってきていてもおかしくない時間なのに。息子と娘を起こさないように寝室を出て、リビングへ。人の気配が全くしない。玄関へ行き、靴を見る。彼女の靴は無い。一応靴箱も調べるが、やはり無い。彼女の携帯に電話をかける。出ない。古市さんにかける。出た。海が帰ってこないと伝えるが、電話口の彼は黙ったまま何も言わない。


「古市さん? 聞いてます?」


「……ああ。聞いてる。帰ってこないんだろう?」


 ようやく開いた口から出た声は、とても暗いものだった。カレンダーが目につく。今日は11月22日。語呂合わせでいい夫婦の日。だけど俺達にとっては、そんな語呂合わせより遥かに重く、深い意味を持つ特別な日。俺と妻の同級生二人が強烈なのろいを残して自殺した日だ。彼女達は妻の親友だった。二人の死は計画されたもので、妻もその計画を知っていた。知っていて、止めなかった。二人が世に放った呪いは、世界を揺るがすほどの強さはない。ただ、俺や妻を始めとした一部の人間には深く刺さった。刺さった人間はきっと、世界全体で見れば大したことのない数だ。日本全体に規模を縮小したところで、大したことないことに変わりはない。だけど、呪いは伝染する。じわじわと、少しずつ。二人の狙いはそれだった。俺の妻に計画を伝えたのは、遺書から痛いほど伝わった怒りや悲しみといった負の感情だけではない純粋な想いを受け継ぐ人が、呪いの本質を理解してくれる人間が必要だったからだろう。妻はそれを受け止めて、二人の呪いと共に天命を全うすることを誓っている。はずなのに。


「海くんはもう帰らないよ」


 彼女は誓いから逃げだした。新たな後継者に全てを押し付けて。

 嘘だと叫んだその瞬間、自分の悲痛な叫びで目が覚める。「おとー?」と、心配するような声に目をやると、先日幼稚園児になったばかりの幼い息子が心配そうに俺を見つめる。


「悪い……起こしちゃったな……ちょっと、怖い夢見ちゃって」


 そう話すと、湊は短い腕を俺の身体に回す。そして「げんきでた?」と真剣な顔で俺を見上げる。その優しさに泣きそうになりながら、小さな身体を抱きしめる。彼は「だいじょうぶだよ」と拙い言葉をかけながら、とんとんと背中を叩いてくれる。小さくて暖かくて、安心する。だけど、眠れはしない。今ほしい温もりは、これじゃない。背中を叩いてくれていた小さな手が、だんだんと動きを止める。完全に止まったことを確認して、起こさないようにそっと離して、ベビーベッドで眠る娘の様子を確認してから、寝室を出る。

 時刻は四時過ぎ。もうとっくに妻が帰ってきている時間だが、人の気配はない。今日は夢と同じ、11月22日。あれは正夢だったのではないかと不安になる。いや、大丈夫だ。俺だけならともかく、息子達を置いて人生を放棄するような人ではない。何かトラブルがあって残業しているのだろう。ごく稀だが、あることだ。落ち着いて深呼吸をして、震える手で携帯を取り、電話をかける。するとすぐに繋がった。要件を伝えるより先に「悪い。遅くなった。今すぐ帰るから、待ってて」と、全てを察したような優しい声が聞こえてきて、力が抜けて携帯を落とし、へたり込む。手から滑り落ちて床に叩きつけられた携帯から「大丈夫か? おーい」と苦笑するような声が聞こえてくる。力が抜けて立てない足を引きずり携帯に腕を伸ばし「鍵開けて待ってる」と伝えて電話を切る。

 玄関の鍵を開けて、玄関先でしばらく待っているとドアが開いた。玄関先で待ち構えていた俺に驚きもせず「ただいま」と微笑む彼女。立ち上がり、彼女の身体に腕を回す。外から帰ってきたばかりの彼女の身体は冷えている。だけど、この冷たさが本物なのか確証が持てなくて、縋るように背中に腕を回し、彼女の肩に顔を埋める。彼女も黙って俺の頭を抱いた。

 しばらく俺の頭を撫でていたかと思えば、俺を抱いたまま壁に押し付けた。「顔上げて」と囁かれ、顔を上げると、頬に手が触れる。その冷たさに思わず目を閉じると、唇に柔らかいものが触れる。その感触は何度も経験したものだけれど、何度経験したって心臓がうるさくはしゃぐ。その心音が彼女に伝わったのか、彼女は「ほんとうるさい」と小馬鹿にするように笑って、もう一度唇を重ねた。開けてと言うように、舌が唇を突く。そういうことをしてほしいわけでは無いのだけどと思いながらも、ついつい迎え入れるように唇を開いてしまう。彼女は良い子だと言わんばかりに俺の頭を撫でる。


「いっ……!?」


 突然、唇に鋭い痛みが走る。思わず彼女を突き飛ばすと、彼女は「ごめん。やりすぎた」と苦笑いし、俺の唇を指で撫でた。唇を撫でた指が赤く染まる。彼女はそれをしばらく見つめた後「綺麗にして。君が汚したんだから」などと理不尽なことを言いながら指を差し出した。


「いや、君が噛むからでしょ」


「良いから。舐めてよ」


 唇に無理矢理押し付けられた指を咥えて、赤い液体をなめとる。鉄の味に顔を顰める俺に彼女は「痛かった?」と悪びれる様子もなく笑う。痛かった。しかし、痛かったということは、これは現実だ。


「まだ不安? もっと痛いことす「いや、もう結構です」


 彼女の誘惑をばっさり切り捨て、噛まれた唇を労りながら、寝室に戻ろうと踵を返す。彼女は黙って後ろをついてきた。本当は、不安だったのはそっちではないのかと彼女の方を見ずに問う。彼女は答えず、俺の手を握った。振り返ると「まだ不安だろうと思って」と、俺を見ずに言い訳をする。寝室を覗く。湊も海菜も、全く起きそうにない。すると俺の後ろにいた彼女がそっと扉を閉めた。扉と彼女に挟まれる形になる。彼女はそのまま扉に手をつき、俺の耳元で誘うように囁く。「君が眠れないなら、少しだけ付き合ってあげても良いよ」と。振り返らずに「痛いことはもうしなくて良いから」と答えると「気持ちいいことは?」と揶揄うように返ってきた。


「しなくていい」


「エロいことは?」


「……しなくていい」


「なんだよその間は」


「なんでもない」


「期待して「無いから。ホットミルク淹れて」


 振り返り、彼女を押し返す。彼女は僕が淹れるのかよとため息を吐きながらも、俺を解放して去っていく。悪夢を見て起きた時とは別の意味で動悸がする。おさまるのを待ってからリビングへ向かう。いつも俺が座る席の前に、マグカップが置かれていた。マグカップからは湯気が立っている。その正面には彼女が座っている。マグカップと椅子を彼女の隣に移動させて座る。肩に頭を寄せても彼女は振り払おうとはしなかった。


「今日、なんで遅くなったの? なんかトラブル?」


「浮気じゃないよ」


「言わなくても分かってるよ。今日はそんな気分にはなれないでしょ」


「今日じゃなかったら浮気を疑ってたみたいな言い方だな」


「……別に、話したくないなら話さなくて良いよ」


「……まぁ、ちょっと事件があってね。男が連れの女の子の酒に睡眠薬入れてて」


「うわっ、えっ、大事件じゃん」


「いつもプライベートでしか来ないキャバ嬢の子がアフターで男連れてきてね。前から言われてたんだ。『あたしが仕事で客連れて来たら警戒してほしい』って」


「その人は大丈夫だったの?」


「身体はね。精神面はちょっと心配かも」


「……君は? 大丈夫だった?」


「僕は平気。けどごめんね遅くなって。今日は二人の命日だから早く帰ろうと思ってたのに」


「ううん。平気。……早く帰ろうとしてくれてありがとう」


「……別に君のためじゃないよ。僕があんまり長居したくなかっただけ。どうしたって、二人のことを思い出さずには居られないから」


 七年前の昨日から今日にかけて、二人は妻と会っていた。今も妻が働くあの店で、二人が最後に会話したのが妻だった。オーナーの古市さんに頼んで貸切で、三人で会話をしたらしい。逮捕されるまではいかなかったものの、当時彼女は二人を殺したのではないか、あるいは自殺を手伝ったのではないかと警察から疑われていた。俺も正直、一瞬だけ疑ってしまった。二人が亡くなる少し前に、妻から預かってくれと謎の箱を押し付けられた。時が来たら開けるタイムカプセルのようなものだと彼女は言ったが、中身はいまだに分からないままだ。


「ねぇ、海」


「ん?」


「七年前の今日、二人とはどんな会話をしたの?」


「……輪廻転生の周期は百年から二百年らしいから、先に行っても向こうでまた会えるねって。また会おうねって。そういう話」


「……そっか。……先は長いけど、また会えるんだね」


「会いたいの?」


「いいや。ただ……二人と居る君は、いつも楽しそうだったから」


「……あの世で再会したところで、僕はきっとあの頃みたいには笑えないよ。あの二人には言いたいこといっぱいあるから」


「……そうだよね」


「……でも僕は、二人の選択を責める気はないよ。こんな世界で生きたくない気持ちは、痛いほど分かる。けどね……最近の僕は、死ねないより、生きていたい気持ちの方が強いんだ」


 頬杖をついてそう言う彼女の視線の先には子供達が眠る寝室がある。「子供なんて、別に好きじゃなかったんだけどなぁ」と呟いた彼女の表情は優しく、親の顔をしていた。

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