香る月、美しい風

飯田華

香る月、美しい風

 美風。

 目で捉えることのできない風を『美しい』と表現した私の名前には、叔母曰く、『目に見えないものを大切にできるように』という意味が込められているらしい。

「綺麗な名前、貰ったね」

 叔母はよく、独り言を漏らすみたいにポツリとそう口にする。

 居間で食卓を囲んでいるとき。玄関でパンプスに爪先を通しているとき。何の脈絡もなく、けれど彼女にとっては何ら疑問を抱かないタイミングで、そんな言葉を私に投げかけてくる。

 今はもういない、母親からの願い。

 それを受け止めるとき、私は毎回、どんな顔をすればいいのか分からなかった。

 自分には分不相応で、壮大で。

 風の軌跡を捉える日は、いつになっても訪れない。

 叔母の紡ぐ「綺麗」ですら捉え切れない私には、到底無理な話だった。

 

 

 

 

 風の吹き抜けていく音がする。

 三月下旬の早朝、換気のため開けていた窓から吹き込む温度は、まだ冬に近く肌寒い。日差しも強くないからか、フローリングをぺたぺたと歩いていると足裏にじくじくと冷えが刺さって痛いほどだった。

 床から伝わってくる感覚が上へ上へと浸み込んでいく最中、まだ足を踏み入れて間もない部屋をぐるりと見渡す。

 コンクリートの床が剥き出しとなっているベランダ。

 ローテーブルと本棚、クローゼット以外はなんら家具の置かれていないリビング。

 通路に沿って備え付けられているIHコンロはピカピカで、これから汚さないようにとつい身構えてしまう。

 入ってくる風を妨げる物が少ない、生活の香りが最小限に抑えられた部屋。

 けれど、これから暮らしていくうち、様々な匂いに埋め尽くされていくのだろう。 

 そんな予感を鼻先で捉えて、息を吐く。

 物寂しさが、息と共に口元を伝った。

 そのままぼぅっと突っ立っていると、後ろからふいに「はぁ……はぁ……よっこらせっと」という掛け声が聴こえてきた。その後すぐに、ドスンと重い物を床に打ち付けたような音が響く。

 振り返ると、玄関先には床に置かれた段ボールに手を突きながら、荒い息を立てる叔母の姿があった。

「はぁ…………これで大体終わったかな?」

「たぶん。ベッドも引っ越し業者の人が組み立ててくれたし」

「じゃ、あとは段ボールの中整理するだけかぁ。疲れた~~」

 その場でへたりと腰を下ろし、天井を見上げる叔母。肩甲骨に先がかかるくらいの伸ばした髪を鬱陶しそうに背中の方へと流して、持っていた手拭いで汗を拭いていた。破裂しそうだった雫が薄い布地に吸い込まれていく。

 一日中かかると思っていた引っ越し作業は意外にもあっけなく、正午近くにほとんどの段ボールと移動させ、午前中に届いた家具もとんとん拍子で組み立てることができていた。

 叔母が腰に手を当て、「どう、気に入った?」と問いかけてくる。

 口元にはにんまりとした笑みが浮かべられていて、「いい部屋、見つけてきたでしょ」とでも口ずさみそうな唇の形をしていた。

 去年の秋に学校推薦で進学先を決めていた私は、ある程度余裕をもって引っ越し先の選択をすることができたけれど、当事者である私よりも叔母の方が部屋探しに熱心だったのを今でも覚えている。

 オートロックは絶対。その方が安心できる。

 口酸っぱくそう唱えていた叔母は一ヶ月前に見事、『オートロック』の項目をクリアした、大学から歩いて十分ほどにあるアパートを探し当ててくれた。

 水色のペンキが塗られた真新しい三階建ての建物を賃貸不動産のサイトで目にしたときは、あまり実感が湧くことはなかった。自分がここに住むのかもしれないという想像力も働かなくて、隣の県にあるそこに足を向けるときが来るなど露ほどにも思っていなかった。

 けれど。

 結局のところ、時間は残酷なまでに過ぎていった。

「うん、気に入った。ほんとにいい部屋」

 嘘偽りのない感想を叔母へ返す。

 日当たりが良くて、立地も申し分ない。部屋を決める前までは本当に必要なのか疑問だったオートロック式の外玄関も、今になってみるとかかせない要素なのだと思えた。

 良いところには枚挙に暇がない。それでも心にはぽっかりと、いつまで経っても埋まらない穴が空いていた。

 これから、ここで暮らしていく。

 一人で。

 自分で決めたことのはずなのに、行き場のない思いが穴の縁を辿る。窓から吹く風がその空洞を通り抜けて、全身にしんとした温度を行き渡らせていった。

「明日で華の大学生だけど、何か抱負とかある?」

 いつの間にか傍らに立っていた叔母が、こちらの肩をポンポンと叩きながらそう訊いてくる。

「うーん、とくには……強いて言えば、単位を落とさないことかな」

「美風ならちょちょいのちょいだよ。わたしには似ても似つかないから」

 当然だけどね。

 叔母がいつものようにそう締めくくり、ほとんど両目を瞑っているウインクをした後、口元を淡くほころばせる。唇の端からちらついた八重歯が鮮烈に光った。

叔母と姪。血は繋がっているけれど、形質を直接引き継いでいるわけではないから似ていないのは当たり前のことだった。

 お母さんと叔母はよく似ていたらしいのだけど、今となっては確かめようもない。

 そよ風に揺られる栗色の短髪に、上向きにやや伸びた目尻。端正に引かれた顔の輪郭。

 こちらを見据える焦げ茶色の虹彩にはこちらの全てを見透かしているような、艶やかな光沢が宿っていて、視線を合わせることをつい躊躇ってしまう。

 …………まぁ、目が合わせられない理由は、それだけではないのだけど。

「わたしが大学生の頃は、よく自主休講してたなぁ」

 叔母が遠くの景色を眺めるような目つきをして、そう呟く。

「自主休講って、ただのサボタージュでしょ」

「ちがうちがう。明確な目的があって、そのために休んでたの」

「二日酔いの頭を休めたいときとか?」

「そんなときもあったね、あっはっは」

 フローリング全体を揺するような笑い声が部屋中に響く。肩甲骨を乱高下させるような笑い方はいつ見ても、客観的に言えば相当な美人であろう叔母には似つかわしくない仕草だった。

「でも、休みたいときに休めるのは大学生の特権だよ? それに、二十歳になればいつだって、深夜にだって缶ビールを開けていい」

「深夜はダメでしょ」

 私が胡乱な視線を投げると、叔母は気取った所作で額に張り付いていた前髪を払った。

「いいのいいの。一人暮らしはそのくらいしても大丈夫。ここから大学まで近いんだからさ」

「それでも深夜は、太るよ」

「おっ、若いときから健康志向なんてすばらしい」

 叔母がぱちんと手を叩く。まるで思ってもいないような口調だった。

 …………それにしても。

「一人暮らし、か」

 軽口の応酬の最中、叔母の口から放たれた、放たれてしまった言葉を舌先で、恐る恐る突くようになぞる。さっきの冷え冷えとした感覚が内からではなく外から訪れたような気がして、余計に現実を直視せざるを得なくなってしまった。

 私の独り言を聴いていたのか、叔母が「寂しくなるねぇ」と、宙にため息を吐き出しながらそう言った。

「一人でもやっていけそう?」

「……うん、もちろん」

 一瞬言い淀んでしまったけれど、何とか軽々しく聴こえるように返した。

それからは言葉を交わさず、二人で窓の外に視線を向ける。

 感覚を研ぎ澄ませると、どこかから華の匂いが漂ってきた。アパートの隣に建っている大家から来ているのだろうか。

 音のまばらな平日の午前。隣に並び立つ叔母も、同じ香りを鼻先で感じ取っているらしく、鼻をスンスンと鳴らしている。その先端の尖り具合を、訳もなく横から眺めていた。これで見納めだというくらいに。

 もうすぐ隣から、彼女がいなくなる。

 母親代わりだった。今まで育ててくれた。

 そんな言葉たちが脳裏に浮かび上がって、けれど、そこから引き出せるものにどこか、釈然としない感覚を抱いてしまう。

 目に見えないものを見ること。それを期待されて『美風』と名付けられた私は今、自分に空いてしまった穴を覗き込んで、何かを見つけようとしている。

 穴を通して、叔母を見つめて。

 感謝でも、寂しさでもない感情の輪郭を探る。

 当てなんてあるわけもないそんな行為をいつまで続けていられるのか。落ち行く陽を透かすように目を細めても、秒針は浮かび上がってこなかった。

 

 

 

 

 小学三年生の頃だった。

 お母さんが交通事故でいなくなって、私は叔母と一緒に暮らすこととなった。父親はおらず、母方の祖母も老人ホームで暮らしていて、まともに頼れる親類は叔母しか残されていなかったからだ。

 引き取られる以前は存在すら知らなかった叔母との生活。最初はたどたどしかったけれど、時間が経つごとに関係性は何とか軌道に乗り、今では軽口を叩き合える仲になっている。

 目に見えない絆らしきものを、きちんと構築できていた。

 けれど。

 

『おぉ、結構偏差値高いとこじゃん。がんばれ~』

 高校三年生の夏。第一志望の大学を伝えたとき、叔母はいつものようにあっけらかんとした様子で、一切の思慮を挟まずにそう返した。

 一方の私の方はというと、「あのさ」や「えっと」で時間稼ぎばかりして、語尾が震えてしまうのをどうしても抑えることができなかった。

 叔母の家からでは到底通えるはずもない、県外の大学。

 大学進学を機に家元を離れる人間などざらにいる。そんなことは分かっているはずなのに、それを躊躇ってしまう自分がいるのを認めたくなかった。

 叔母はただ、受け入れてくれた。

 親のいなくなった私を引き取ったときも、受験する大学を告げたときも、彼女は何一つとして苦言を呈さなかった。見当違いのことをしたら怒られるけれど、それ以外は「ふーん」で済ませてしまう。けれど決して放任主義というわけではなく、小学校や中学校の授業参観のときにはほとんど顔を出してくれたし、困ったことがあれば必ず力になってくれた。

 叔母は、とてもいい『保護者』でいてくれたと思う。

 申し訳なく思うくらいに。

 ときどき、自分は叔母の人生に対して横槍を入れているのではないかと思うことがあった。

 突如としてやってきた、姉の顔立ちを幾分か引き継いだ子供。

 放り出すことも、邪険にすることも難しいそんな存在を、叔母は一人で抱えることになった。

 迷惑だっただろう。昔を振り返るたびに胸の内から湧き出てくるその言葉から逃れるために、私は叔母の元から離れることを決意した。当初考えていた県内の大学から偏差値を吊り上げて、県外の有名私立に照準を定めた。

 私は槍を引き抜かねばならない。

 遠くに足先を伸ばして、叔母を安心させなければならない。

 そう思っての志望動機。何の躊躇いもないはずだった。

 それなのに、気分は晴れない。前向きである決意の向こうに、活き活きとした自分を見つけ出せない。

 空回りする舌先を上から見下ろすように実感して。

 私は。




 叔母から離れたくないのだ。

 

 

 

 見通したくもなかった感情を再確認しつつ、叔母を横目で見やる。

 乱れた髪から覗く小振りな耳。ほんのりと熱を帯びたそれに視線の先が縫い留められて、首の方向が寝違えたときのほうに不自然に曲がっていた。

 最近はいつもこうだ。横向きの重力が働いているみたいに体が無意識に動いて、叔母ばかりを視界に入れてしまう。

 見えないもののことを考える暇もなく、現実の人間に引っ張られている有様にため息を吐きたいけれど、本人に気づかれたくはないから細々と息を吸うに留めた。


 私は叔母に対して、これから何を行えばいいのだろう。

 家具と荷物を運び終えた今、私ができることと言えば『これから訪れる新生活に備える』くらいで、正直パッとしない。もちろん、ありったけの感謝を伝えたくはあるけれど、それだけじゃぽっかりと空いた穴を埋めるのには不十分だった。

 叔母と離れたくない。

 自分で離れる決断を下しておいて、今さらそれを拒絶している。身勝手で、でも、どうしようもなくて。結局はここまで来てしまったのだから、私は叔母と離れる前提の現実で何ができるのかを考えなくてはならなかった。

 別に、綺麗なさよならを言いたいわけじゃない。「夏休みになれば帰省する」とか、「こまめに連絡する」とか、物理的な繋がりを重視する台詞を言いたいわけでもない。

 きっかけが欲しい。

 部屋中に、ちくたくと時を刻む秒針の音が響く。それが心地よいのか、叔母は静かに瞼を降ろして、風で散ることのない音に耳を澄ませていた。

 ぴくぴくと動く耳たぶは、綺麗というより可愛らしさを抱かせる形をしていた。

「よし」

 数秒後、意を決した叔母がこちらを向く。

「お腹空いたし、お昼でも食べに行こうか」

「いいけど、ここら辺にある店知ってるの?」

「もちろん! ってわけじゃないけど、ま、検索すれば出てくるでしょ」

 フローリングに直に置いていたスマホを拾い上げ、すいすいと地図アプリを立ち上げる叔母。

「何か食べたいものとかある?」

「さっぱりしたやつがいいな」

 午前中の作業でほとほと疲れ切った身体と、今もなお揺れ動く優柔不断な思考。一刻も早くどちらも休めたいところだった。

「じゃあうどんとかは? 大学の近くにあるけど」

 叔母が翳してきたスクリーンを覗き込む。地元にもよく見られる、客入りの回転が速いことが売りのチェーン店だった。

「ここから近いの?」

「徒歩じゅっぷ~ん」

「じゃあ行こう」

 くたくたになった手足をぐぐっと上に伸ばして背筋を正した後、叔母の後ろに続いて部屋を出る。

 アパートの外通路を歩き、階段を降りて、外玄関の鍵を捻る。太陽はちょうど真上に鎮座していて、容赦なく道路を濡らす陽の光に思わず目を細めた。

 それからは二人並んで、見慣れない街並みを眺めつつ歩を進める。

 蕾が膨らみつつある桜並木。

 石塀の上を飄々と歩く野良猫。

 ビル一棟とっても叔母の家周辺とは違って、全てが新鮮な景色だった。

「浮かれてるねぇ…………ははっ、懐かしいな」

 大手を振って歩いていた叔母が、私の横顔を見て面白がるようにそう零した後、引っかかる言葉をアスファルトに落とした。

「懐かしい?」

 つい、拾い上げてしまう。

「いやぁなんか、昔のこと思い出しちゃって。美風が小さい頃、っていってもほんの数年前のことだけど、今みたいにきょろきょろしてたなぁ」

 叔母が一息おいて。

「あ、私たちの家に来てすぐのことね?」

 と付け加えた。

 私たちの家、か。

「…………あの頃は、全部が珍しかったから」

 

 叔母の家の近くに、一軒の駄菓子屋があったのを思い出した。

 近所に住む小学生に大人気だったその店に、叔母と暮らし始めてすぐの頃、連れて行ってもらったことがある。

 まだ転校手続きを済ませておらず、叔母の家で何をするでもなく、与えられた部屋でぼぅっとしていたとき、叔母が提案してきたのだ。

「駄菓子でも買いに行くか!」 

 長くてすらっとした腕をこちらに伸ばしてきた叔母に促され、初めて叔母の家周辺を歩いたとき、見るもの全てが新鮮だった。

 屋根の色、道路の幅、道行く人々の服装。全部が全部新鮮で。

 そして、怖くも感じたのだった。

 私は一体、どこに辿り着いてしまったのだろう。

 自分の前にも後ろにも、母親はいない。どれだけ駆け足で進んでも、目一杯の力で振り返っても、母親の姿を目にすることはできない。

 帰ろう。そう声に出そうとした。道の先も後も、見たくないから。せめて部屋の中にいたい。心の底から願った。

 …………でも。

「あともうすぐだから。そこでラムネでも買おう」

 ふと隣から、叔母の伸びやかな声が聴こえてきた。

 そしてそのとき初めて、自分が手を握られていることに気づいたのだった。

 自分のものよりも華奢で、白くて。触れてしまえば先の方から解けてしまいそうな、そんな手が私と彼女を繋いでいる。手のひらは少し汗ばんでいて、歩くたびに滑って離れそうになるけれど、距離自体は遠ざかることなく、横並びの状態が続く。

 前にも後ろにも行かず、ただ、隣にいる。

 …………ああ。

 気が付けば、喉奥に渦巻いていた言葉がどこかへ飛んで行って、頭の中はこれから飲むラムネのことばかりになっていた。

「ラムネって、飲んだことない」

「えっそうなの? じゃあ初ラムネだ。叔母さんが上手い飲み方を教えてあげよう」

「……下手な飲み方があるの?」

「あるよ。ビー玉を上手く躱さないとぜんっぜん飲めないの」

 それからは、本当に他愛ない話をしながら駄菓子屋へ向かった。ラムネのこと。好きな食べ物。空の雲の形。話題がころころと切り替わって、そのたびに叔母が多彩に表情を変化させた。

 

 今はもう、その駄菓子屋は閉店してしまって、叔母と二人で出歩くことも少なくなった。ラムネよりもコーヒーを好むようになって、『私たちの家』も遠ざかって。

 手も…………。

 手も、握らなくなって。

 ふと、ぶんぶんと振られる叔母の左手に視線が滑る。あの頃と同じだ。なんの汚れもなく、日の光を滑らかに反射している。今は暑くないから、そこまで汗は掻いていないのだろう。優しくこちらを包み込むような手のひらを回想して、今度は私の額に珠の汗が滲んだ。

 じっと、前も後ろも見ずに、叔母の手を見る。

 昔のように、手を繋ぐことはなくなった。当たり前だ。手を繋がなくとも、一人で歩けるようになったのだから。

 軽くなった自身の右手をこっそり見下ろす。あの頃より大きくはなったけれど、てんで成長していないなと苦笑してしまう。

 私の手の内には、何も握られていない。見えない風も、そして、言い知れないこの感情も。全てが私の手をすり抜けて、どこかへ飛び去っていく。

 振られる叔母の手を、もう一度見つめる。

 一瞬、自身の指先がぱらぱらと零れていくのを感じた。指の関節がぴっと伸びて、何かを受け入れようとする形を取る。

 叔母と私の距離が、だんだんと縮まっていく。

 秒速一センチメートル。白い指先を探し求める自らの手に、力を込める。

「あ、そういえばさ」

 叔母の口先によって、落下する花びらに似た速度に拍車がかかる。パッと、伸ばしていた腕を引っ込めて、きつく脇を締めた。

 真夏が空から降りかかってきたかのように、額にはだらだらと冷や汗が伝っていた。

「昔はこうやって、手、繋いで帰ってたよね」

 唐突に、右手に熱が宿る。自分からではなく叔母から、何の気なしに与えられたその熱は柔らかくて、途端に自分の指先の輪郭が捉え切れなくなる。

「大きくなった。ちまちましてた頃がずっと前みたい」

「そりゃあ、そうでしょ。小学生の頃の話なんだし」

 叔母に手を握られている間、思うように舌先を動かすことができなかった。苦笑に似た表情を浮かべようとしても、それは自分でも分かるくらいに嘘っぱちなものとなる。

 手のひらに汗を掻いてはいないだろうか。ずっとそれだけが気になって、叔母の表情をちらちらと盗み見る。振り子になっていたのは私の眼球だったみたいだ。

 ぐるぐると目が回る。

 それからしばらく私の手を振り回した叔母は、私の成長具合に満足したのか、「これからもすくすく育っていけよぉ!」という捨て台詞を最後に、私の手をすっと離した。

 声を出す間もなく、熱が逃げていく。

 風に攫われたみたいだった。

 

 

 

 

 

 

 やっぱり私は、叔母のことを『保護者』と見做していないのだと思う。

 叔母はいつも私の隣に立っていて、気にかけてくれるが口出しはしない。その距離感は、『親』というよりは『大人』で、だからこそ迷惑をかけたくはなかった。

 だって、他人だから。私は今、他人の人生に割り込んでいるのだから。

 けれど、『迷惑をかけたくない』という想いよりも前に、叔母のことを他人にしたい理由があるような気がする。

 いや、気がするじゃない。

 見えない風をシューズの先で切り裂くたび、叔母に視線を攫われるたび、疑いは確信に変わっていく。自分のことを全部分かったようでいて、土壇場で意見を切り替てしまう自分にうんざりして。

 でも、そうなんだよなぁと、一人納得する。

 だんだんと歩幅を大きくしていく叔母に何とかついていけるよう、小石を蹴るように足先をアスファルトに擦らせる。

 叔母が急ぎ足になった訳は。

「あ、見えた」

 叔母が声を上げ、指を差した先に、茅色に染められた尖塔が姿を覗かせていた。

「でっかいじゃん。頭良さそう」

 私が明日から通う大学に対して、実に頭が悪そうな感想をぽつりと零す叔母。それに苦笑しつつも、大きいなという感想は私も同じだった。大きくて、今までの生活にはなかった色合いをしていて、明日からここへ吸い込まれていく生活が始まると知っていても腑に落ちない。

 腑には落ちないけれど、それが現実だった。

 歩く。黙々と『保護者』ではない、『他人』の叔母に足先を向けて。

 彼女に言うべきことを、頭の中で反芻しながら。

 

 

 

 

 それから、昼食としてざるうどんを食べて、来た道と同じ針路を辿り、途中でスーパーにも寄ったりして、アパート近辺を一通り巡った後、アパートの扉を開けた。

 外通路から見る新居はやっぱりがらんとしていて、これなら二人でも暮らしていけるのでは、なんて妄言を心の中でだけ吐き出しつつ、シューズを玄関で脱ぐ。

 叔母には仕事があるし、いくらがらんどうのワンルームであると言っても二人で暮らすには手狭なのは明白だった。

 明日、叔母は家に帰る。

『何か』を行える時間は、刻一刻と目減りしていた。

 叔母が両手に持っていたポリ袋をリビングに降ろし、ふぅと息を吐く。

「やることなくなちゃったなぁ~。しりとりでもする? そ・れ・か~?」

 ガサゴソと、ポリ袋から眩い装飾の張り付けられた缶を取り出し、私の眼前へぴっと突き出してくる。

 アルコール度数。

 私にはまだ縁遠い文字列が並んでいた。

「真昼間からお酒でも飲んじゃおっかな!」

「言ったそばから……」

「いいじゃんいいじゃん。今日は記念すべき、美風の門出前日なんだから」

「門出って……家からは出てるでしょ」

 叔母の家から、遥か遠くにあるワンルームまで。

 自分で考えておいて勝手に嫌な気持ちになってしまって、喉元がぴくりと引き攣る。門出。めでたい響きだけれど、今の私には到底受け入れられない言葉だ。

 咎めたのにも関わらず、叔母はいそいそとプルタブの裏に指先を滑り込ませていた。ほどなくして、プシュッという音と共に柑橘系の香りが部屋を満たしていく。

「美風も飲む?」

「私、まだ子供なんだけど」

「あっはっは、じゃあオレンジジュースだね。はい」

 スーパーで買ったペットボトルを手渡され、キャップを捻る。叔母の缶ビールよりはきつくない香りが鼻先を掠めた。

 叔母が飲み口に唇を合わせるのに視線を取られつつ、私もペットボトルに口をつける。

 ごくごくと喉を鳴らして、胃の中に冷涼な液体を通す。身体の内側から温度が整理整頓されていく感覚が心地よかった。

「あ~、酔いそう」

 叔母が千鳥足に似せた歩き方をしながら、ベランダの方へ向かっていく。がらがらと窓を開けて、「来る?」とでも言いたげな瞳の色合いに私を映した。

 今しかない。

 言うべきことはてんで定まっていない。けれど、何か行動に移すのは今しかないと、そう思った。

 叔母の後に続き、後ろ手で引き戸を閉める。ひくつく舌先を何とか抑えながら、西日の照りゆく空と向かい合った。

 高度がやや増したからだろうか、外を出歩いているときよりも空気の純度が濃いように感じた。息を目一杯吸って、吐く。柑橘系の吐息が、見えない風によって空へと運ばれていく。ぐんぐんと。もちろん、その軌跡を目で捉えることはできない。

 叔母も同じく、アルコールに浸した呼気を煙草の煙のように吹かしながらベランダの縁に身体を預けていた。視線はビルや家々が犇めく地平線に注がれている。

 叔母がアルコールの類を口にするのは、随分と珍しいことだった。昔はよく飲んでいたらしいのだけど、小学生の頃から今に至るまで、叔母が家の居間などで缶ビールを開けることはほとんどなかった。

 叔母の風変わりな行動に、頭と共に意識が傾く。

 すると。

「こうやってさ、埋めてるんだよ。穴をね」

「…………え」

「ほんとはね、わたし、美風がこっちの大学に行くと思ってたの」

 コトンと、ベランダの縁に缶が置かれる。

 缶につけていた唇が一瞬固く結ばれて、その後すぐにやんわりと解かれる。

 きつく縛っていた本音を、解き放つように。

「美風が一人暮らしをするなんて、去年の夏までは微塵も思ってなかった。朝起きたら二人分の朝食を作って、美風がしばらくしたら起きてきて。そんな日常がずっと続くって疑ってなかった」

 叔母が空を見上げる。西日に夜の藍色が浸み込み始めていた。

「あっはっは、子離れしないとなのにダメだよね~。まぁ、美風は子供じゃないんだけどさ、もう。姉ちゃんが見たら飛んで喜ぶくらいに」

 叔母の手が、私の頭をぽんぽんと叩く。

「こんなに背も大きくなっちゃって、追い抜かれるのも間近だね」

 こちらを見つめる叔母の瞳は、遠くの光景を見据えるように細められていた。過去の私と、今の私。どうしたって不揃いで、重ね合わせるには時間が経ち過ぎている。

 叔母の言葉が一音一音、耳に届く。

 その意味を頭の中で何度も何度も咀嚼して。

 意を決して、口を開いた。

「わたしはまだ、子供だよ」

 自分の欲に心中を振り回されてしまうくらいには。

 叔母を心配させないように言葉を紡ぐことはどうしてもできなかった。目の前にいる叔母は、数年間私の面倒を見てくれた『保護者』で、全て見透かされてしまう。  だったらいっそ彼女のように、包み隠さずという訳にはいかないにしても、縛っていた紐を解いてぶちまけてしまった方がいい。

 自分勝手に現状を解釈してみる。そうでもしないと、いつまで経っても西日が地平線に沈み込みそうにはなかった。

「私だって、明日も、ずっとその先も、私たちの家にいるんだと信じ切ってた。でも、遠くへ行かなきゃとも思ってたから」

「……なんで?」

 叔母の首が柔らかく右に曲がる。こちらを覗き込むような首の角度にどきっとして、開いていた口から熱が漏れた。

「他人になりたかったのかも、しれない」

「急に悪口?」

「え! 違う違う!」

 言葉選びを間違ってとんでもない誤解を与えるところだった。反射的に両手を振る。

「他人になりたいってのは悪い意味じゃなくて、ええと」

 さっきまで考えていたことをそのまま口に出すのではなく、どうにかして加工しようと頭を捻る。

 他人になりたい。本心だと思う。けれど、その言葉の前に何か一つ要素が足りない。

 他人。た。「た」から始まる単語を脳内で列挙する時間が静かに流れる。朱色の差す沈黙の最中、叔母は怪訝そうな視線をこちらへ注いでいた。

 怠惰、退屈、大変…………対等。

 頭上の銀河にばら撒いた言葉の一つを、緩慢な所作で摘まむ。これだ、という確信を手に、私はゆっくりと口を開いた。

「対等になりたいから、叔母さんと」

 対等。横並びになっても引けを取らず、堂々と視線を交錯させられる関係。重力に左右されなくて、大手を振って一緒に『どこか』へ迎える間柄。

 あと数センチほど伸びれば、私と叔母の目線はほぼ同じになる。けれど、そういうことではないのだった。

 今度は、私から。

 気が付けば夕日は半分以上を空の端に追いやっていて、頭上に広がる色合いにぽつぽつとした星が浮かび始めていた。

「ふぅん。よく分からないけど、対等か……」

 私の宣言を訊いた叔母が、「うーん」と唸りながら顎に手を当てる。言葉の意味を測りかねているのか、涼やかな風が二人の間を吹き抜ける間、叔母の唇は一文字に固く結ばれていた。

 やがて。

「それって、一旦距離取って、また四年後に会おう! みたいな文脈?」

「え、いや、別に離れてからずっと会わないってわけじゃ」

「じゃあ一週間に一回はこっち来てもいいの?」

「それは……流石に子離れできてなさすぎかな」

「ふふっ、言えてる」

 叔母の笑顔が、藍色の空に散る。釣られて私も口角が上がって、それからは近所迷惑にならない程度、二人で笑い声を空へ浮かべた。

 

 

 

 

 見慣れない天井が、閉じ切っていないカーテンの隙間から漏れた光に淡く照らされている。秒針が零時を回った深夜、寝付けなかった私はその光をただぼんやりと見つめて、明日のことを考えていた。

 アルコールを摂取したからか、晩御飯を食べてから、叔母はいつもより流暢に話をした。

 私と住むようになってからのこと、初めて授業参観に行って苦労したこと、料理がめきめきと上達したこと。

 舌の回転が勢いを失う頃には夜遅くになっていて、風呂に入り、敷布団を床に広げるとすぐ、叔母は泥のように寝入ってしまった。

 私一人、ベッドの上で仰向けになり、取り残される。

 ベッドから見下ろす叔母の寝顔は健やかで、閉じ切られた目蓋が月光を細々と照り変えてしている。微かに開いた唇から立てられる寝息は細々としていたけれど、静寂が満ちるこの部屋において、それを聞き取るのは容易いことだった。

 目、口、耳。無防備な叔母の顔全体に視線を滑らせて、ひと息吐く。

 ベランダでの会話で、心の澱を幾分か取り除けたような気がしていた。『対等』の二文字が思いのほかしっくりときて、今となっては昔ながらの標語のようなものとなっていた。

 背筋を伸ばして、自立して、叔母の隣を歩く。

 今なら眠れるかもしれないと、再び瞼を降ろして仰向けに寝そべる。外から聴こえてくる音は少なくて、鼓膜を震わせるのは叔母と自分の呼吸音くらいだった。

 それが心地よくて、同時に寂しい。


 対等になった後。

 私は叔母と、どうなっていきたいのだろう。

 

 今はそれが目下の疑問となっていた。

 瞼に力を込める。見つめる暗闇をどうにかして濃くしようと必死になって、やがてカーテンを閉めればいいことに気がついた。

 ベッドの縁に腰かけ、足を床に降ろす。そのまま叔母の身体を踏まないように窓の方へと向かって、中途半端な位置にあったカーテンフックを滑らせた。

 そのままベッドに戻ることはせず、暗闇に溶けた叔母の顔を見下ろす。

 星が瞬かなくなった部屋で、考える。

 対等になった後のことを想像してみると、温い手触りが手のひらを擽る。まるで本当に叔母と手を繋いだかのように皮膚が震えて、熱を孕む。

 指先から手首に至るまで、どくどくと血が巡る。

 この血は、叔母の流れているものと似通っている、はずだ。目には見えないけれど、その事実があるからこそ私は彼女の元へ辿り着くことができた。

 血で繋がった関係性の、次。自立して初めて踏む一歩の矛先。

 

 

 

 




 

 私は、叔母が好きなのだと思う。親愛とはまた違う、もっとどろどろとした感情。 細長い血管を内側から膨らませて、やがて弾けてしまうような、外へ漏れ出てしまえば取り返しのつかなくなる代物。

それを今、夜の縁に佇みながら抱えている。

 対等になってからのビジョンは、きっとそこに繋がっているのだと思う。

 しばらく叔母が寝転んでいるだろう場所を見つめていると、瞳孔がゆっくりと開いていくのが自分でも分かった。極端に乏しくなった光を、反射的に網膜が求める。自然と身体が前に傾いて、少しでも彼女の形を視界に取り戻そうと工夫する。

 見えないものを、大切にする。

 大切。その二文字を脳内に浮かべていると、ふと、記憶の水底から這い出てくる何かがあった。

 時の流れによって随分と冷やされてしまって、それでも仄かな熱を持つ景色。

 

 叔母の家に足を踏み入れたとき、最初に思ったのは「雑多なものが多いなぁ」という感想だった。

 リビングのテーブルに置かれている、何冊もの旅行雑誌。ソファにはUFOキャッチャーで摘まみ上げたのだろうか、熊や犬といったぬいぐるみが所狭しと並べられていた。窓の向こうに見えるベランダには観葉植物の植木鉢がどすんと腰を据えていて、瑞々しい葉が風に揺られていた。

 それらをきょろきょろと眺めていると、叔母が「ははは、とりあえず荷物下ろしなよ」と手で促してくる。私が背負っていたランドセルを床に降ろすと、余計に部屋の密度が増した気がした。

「晩御飯ちゃちゃっと作るから、椅子に座って待っててね」

 叔母の背中がキッチンへと吸い込まれていくのを見届けて、慣れないリビングチェアに腰を下ろす。

 友達の家以外で人の家に訪れるのは初めてのことだった。だからこそ心中がざわめいて、落ち着かない。しかも、今日からずっとここで暮らすというのだから、どんな顔をして過ごせばいいのかも見当がつかなかった。

 叔母さんが戻ってくるまで、テーブルの染みをゆっくりと数えながら時間を潰す。手伝った方が良いのだろうかとときどきキッチンに目を向けたけれど、立ち上がる気にはいつまで経っても起きなかった。勝手が分からないキッチンで、何か力になれるわけもない。

 しばらくして戻ってきた叔母が持ってきたのはシチューだった。湯気の立ち昇った皿を私の前に置いて、「さぁ! たんとおたべ!」と声を張り上げる叔母。そのまま向かいの席に腰を下ろして、いただきますと手を合わせた。

 私もそれに続いて、手を合わせる。

「いただきます」

 スプーンに摘まんで先を口に運ぶと、舌の上にまろやかな甘さが広がった。自然と、シチューを掬う速度が増していく。

 全て平らげるまで目立った会話をすることもなく、壁にかけられた時計の秒針がくるくると巡る。他人といる空間を気まずく感じて、「ごちそうさま」と言う頃にはじっとりと背筋に汗を掻いていた。

「どうだった? 味の方」

「…………はい、美味しかったです」

「そりゃあ良かった! いやぁ~わたし、人に料理振舞ったことほとんどないから、味がヤバかったら申し訳ないなと思って」

 頬をポリポリと掻く叔母と向かい合っていて、思う。

 この人と、これからどう接していけばいいのだろうと。

「あ、ていうか、別に敬語使わなくていいからね。叔母と姪なんだから、気安く叔母さんでもおばちゃんでも、どうとでも呼んでくれていいし」

「……じゃあ、叔母さんって呼ぶ」

「それでよろしい」

 満足そうに頷く叔母を見て、悪い人ではなさそうだと思った。微笑む叔母の表情からは、嫌なものを全く感じ取れない。

「わたしの方はどうしよっかなぁ~。ミカちゃん? とか…………いや、そのまま美風ちゃんの方がいいか」

 みかぜ、みかぜ。そう繰り返しながら、私の方を見据える叔母。その視線に若干射竦めらながらも、なぜだか悪い気持ちにはならなかった。

 視線に宿る柔らかな光に、懐かしさを覚える。

「美風、いい名前だよねぇ」

 頬杖を突いた叔母が、遠くの景色を眺めるように目を細める。私を見ているわけではないようだった。私の後ろにいる、誰か。

 きっと、お母さんだ。

「美風って、『目に見えないものを大切にできますように』って意味を込めてるんだってさ。知ってた?」

「え?」

 唐突に投げかけられた質問に、小さな息が漏れる。

「目に、見えないもの?」

「そう。どうやっても、目を細めても見えなくて、でも実際にそこにあるもの。風とか、他人の感情とか。そういうものを美しく思って、大切にしてほしいって、お姉ちゃんは言ってた」

 叔母と私の間に、涼やかな風が吹き抜けていったように感じた。

 自分の名前の由来について、お母さんに聞いたことは一度もなかった。だからこそ、叔母の話す『美風』の意味についてもっと知りたくて、つい前のめりになる。

 震える唇をそのままに、たどたどしい言葉を重ねた。

 

「どうやって」

 どんな方法で。

「見えないものを大切にできるの?」

 

 私の問いを訊いた叔母は「難しい質問だね」と首を傾げ、顎に手を当ててしばらく考えた後、

「わかんない、わかんないけど……」

 すらっと伸びた手が、私の頭をさらりと撫でる。

「『大切にしたい』って、とりあえず口にしてみるのはどうかな。まずは言葉にしてみて、その『大切』って響きが自分の中でしっくりきたら、大切にしてるってことになるんだと思う。だからさ」

 一呼吸挟んで。

「わたしも美風に大切にしたいと思う。わたしの心がたとえ美風に見えなくても、何度でもその気持ちを言葉にする。その方法が一番、わたしの性に合ってると思うから」

 髪の間に入り込んだ叔母の指先が、私の輪郭を確かにしていく。

「これからよろしく、美風」

 



 

 

 私も、そうしたいと思った。

 拳を握りしめる。何も見えない部屋の中ベッドに戻り、再び目を閉じた。

 意識がぬるま湯に溶けたときのように解けていって、降ろした目蓋の裏が熱を持ち始める。もう、昔の景色が浮かび上がることはない。

 明日を迎えるために、眠る。

 そんな夜を過ごすのは、随分と久しぶりのことだった。



 

 

 


 通勤ラッシュの人波が少し和らいできたプラットホーム。

 準急が到着するまで、あと四分。遠くから、車輪の回る音が聴こえる、気がする。もちろんそれは幻聴で、ただただ気が急いているからだった。

 電光掲示板に灯る文字がチカチカと点滅しているのを見上げて、喉をごくりと鳴らす。電車が到着するまでのこの時間が、本当の意味で最後の機会だった。

 視線を右へ滑らせると、フォーマルなスーツを着込んだ叔母が背筋をすっと伸ばして立ち尽くしていた。帰ってからそのまま会社へ行く必要があるらしく、右手でベージュ色の鞄を提げている。

 左手の方は、がら空きだった。

「ここまで着いてきてもらってありがとね、今日忙しいのに」

「別に大丈夫。入学式は昼からだから」

 正直に言えば、たとえ午前中に入学式があったとしてもここに来るつもりだった。

 私はまだ、叔母に対してやり残したことがある。それを済ませる前にキャンパスの門をくぐる気はさらさらないのだった。

 春の訪れを告げる風が、私の輪郭を素早く模る。

 目に見えない感情が一瞬、姿を表したような気がした。

 ぼうっと、前方に横たわる線路を見下ろす叔母の横顔をちらりと盗み見て、じりじりと距離を詰めていく。

 相手に気取られない程度の速度で隣に並び立って。

 

 大きく息を吸った。

「あのさ…………香月さん」

 初めて、叔母の下の名前を口にする。

「え…………?」

 私の呼びかけを奇妙に思ったのか、こちらへと振り返った叔母の虹彩が微かに収縮する。何、改まって。そう書いてあるような表情を愛おしく感じて。

 

 堪らず、爪先を彼女の方へと伸ばしてみせた。

 私たちの間を流れていた風が、本当の意味で見えなくなる。視界一色を叔母が占めて、私だけの月が網膜を濡らした。

 新鮮味のある熱が、口先から零れ落ちる。

 

 ほんの一瞬の出来事だった。電車が視界の右から左へ過ぎ去っていくくらいの速度で、周りにいる人も気づいていないくらいだろう。もしばっちり見られていれば…………気恥ずかしくはあるけれどしょうがない。一番手っ取り早い方法を選んだのだから、それくらいの覚悟がなければ伝わるものも伝わらない。

 見えないものを見えるように、伝わるようにするには。

 言葉で、意志で距離を詰めるしか、すべなんてないのだから。

 踵を元の位置に戻した後、今一度叔母を見る。

 叔母は。

 

 仄かに朱色の灯った頬が、目の前で私を迎える。

 電車が来るまで、あと少し。

 しばしの別れを告げる会話がどんなものになるのか、叔母にも私にも、見渡すことはできないのだった。

 

 

 

 







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香る月、美しい風 飯田華 @karen_ida

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