起きたら身の回りのものがメモリになってた

比賀科 柵

ウロの夢

 視界が明滅する。まぶたを閉じる暗闇に挟まれて、解像度の低い薄暗い灰色の景色。息を吸って、吐く。埃臭いような、カビ臭いような据えた匂いが僕の肺を満たす頃には、視界の解像度はぐっと上がってきた。

 僕がいるのはだだっ広い空間である。広すぎて、遠く先は見えない。四方、暗闇の帳が落ちている。薄暗く見えているのは自身とその周囲のみ。着ている服はポリエステル製の安物のゆったりとしたズボンと、ブカブカのパーカー。僕が学校からの帰宅後に着ているいつもの寝間着だ。

 足元に視線を下ろす。安物のスニーカーでアスファルトの見た目の灰色の地面を踏みしめている。スニーカーで軽くこすってみると、見た目に反して土のような柔い反動。商業施設にある子ども向けのプレイルームを彷彿とさせるような感触だ。

 僕は狼狽えることなくしゃがみ込んだ。この地面、近くで見ると細かな溝がまっすぐに走っている。溝の走る方向を確認した僕は立ち上がり、それから溝に沿って歩き始める。歩いても歩いても先は見えない。暗闇がただ在るだけ。


 ずっと先まで何もない。遠く、遠い景色。

 これは、僕が毎日見ている夢。延々と続くがらんどうの空間の夢。

 夜眠ってから朝目覚めるまで、僕がただ一人で過ごす世界だ。


 踏みしめる地面の反発を確かめながら進む。僕は幼少期、物心がついたときからこの夢を見ている。今年で16歳になる僕だから、もう十年近くにもなるのか。はじめは理解の及ばない恐怖に怯え、ただ右往左往していた。地面の溝に気がついたのは小学生に上がってすぐ。あれからずっと、誰に言われるでもなく、ただ溝に沿って歩き続けている。

 僕の夢がおかしいと気がついたのは夢の話を小学校の友人としてからだ。どうやら他の人は同じ夢を毎晩見続けることはないらしい。それに、夢を夢と認識したり、感覚を完全に持ったりすることも無いんだとか。その界隈ではこういう夢を明晰夢と呼ぶと聞いた。


 それらの知識もこの夢を抜け出すのには役立たなかった。

 僕は夜の間、もうずっとこの何もない空間という牢獄に囚われている。


 だから今日も僕は、退屈な夜を過ごすのだとばかり思っていた。


「……あ、れ」


 立ち止まってから僕は足元を見下ろす。溝の向きは変わらず。しっかり沿って歩けている。それから遠くの方に目を凝らすと、線のようなものが見える。薄暗な暗闇に横向きに伸びる線。線を境として灰色と黒色が切り替わっている。

 息を呑んだ。こんな 変化は初めてのことだった。恐れのような感情が湧いてくる。しかしそれも、すぐに消えていってしまう。僕は溝に沿って歩くだけ。このまま、あの線を目指そう。

 歩み始める。


「線じゃないな」


 近づくにつれて線だと思っていたものの正体がはっきりしていく。そう、線じゃない。これは、灰色の地面と、そこにそびえ立つ黒い壁のようなものだ。黒い壁は空高く、そして左右にも果てしなく続いている。地面と壁の境目が線に見えてしまったのはこのためだろう。


「建物? 壁? 何だろう……」


 僕は更に壁に近づいていく。どうせ夢だ。不気味さはあるものの、僕は壁に手を触れてみた。固く、しっかりとしている。表面はガラスのようにツルツルで滑る。冷たい。丁寧に磨いた石の壁というのが感触の印象だった。

 しばらく壁に手を触れて呆然としていた僕は、思い切って壁を蹴ってみた。つま先から反動が返ってくるのみでびくともしない。出っ張りもへこみもないから登るのは難しそうである。となると――。


 僕は左右に視線を振る。先は見えない。


 ――また、歩くか。仕方ない。


 すでに僕の興奮は冷めきっていた。十年近い期間を経ての変化。初めて地面の溝に気がついた時のような気持ちだったのに。

 僕は右手を壁について、歩き始めた。歩く向きはなんとなくだ。別にこだわりはない。壁があったのだ。どちらであろうと、歩けば最果てにつくかもしれない。行き止まりだとしたら引き返せばいい。時間はある。朝になるまでたっぷりと。



 それからしばらく壁伝いに歩いただろうか。何分なのか、何時間なのか。夢の中ですぎる時間は、本当だったらわからないらしい。だけど僕にはそれを知る方法がある。

 左腕を上げると、銀色の腕時計が視界に入る。その昔、母が父に贈ったという時計だ。今では僕の腕時計である。僕は起きているとき、普段の生活でもずっとこの時計をつけている。小さい頃からそうだ。そのせいなのかは知らないけれど、気づけば夢の中でも身につけていた。

 文字盤を見ると、10時半を指している。これは現実の時間ではない。12時を指したときが僕の目覚める時間で、それまでの残り時間を計っているみたいなのだ。困ったことに後一時間半もある。

 僕は更に歩く。大きな変化があったはずなのに、と落ち込む気持ちもありつつ、再び胸騒ぎがしてくる。なんとなく、今日は違うような気がするのだ。壁が現れた。それは確かに変化だが、もっと、とんでもない変化が起きるような、そんな気が――。


「――あ……」


 壁の先は相変わらず見えない。しかし、今右手をついている壁と逆の方、左側の遠景にも線のようなものが見える。わかる。線じゃない、きっとあれも壁だ。

 左の壁は右の壁と平行ではない。僕が歩いている方向に進むに連れて、徐々に間が狭まっていっている。狭まるということは収束点があるということ。その交点にあるのは行き止まりか、それとも別の何かなのか。

 自然と足が進む。止まれない。それどころか徐々に早足になっていく。再び湧き上がってきた興奮。駆け足気味になってきて、揺れる視界。その奥に、淡く光が見え始めた。


「行き止まりじゃない……何かある!」


 光はオレンジ色に揺れている。近づいてくるとそれが炎の光であるとわかってくる。そして、その場所には光以外のものもあるのだと、目の中に光景が入り込んでくることで認識できてくる。


 壁と壁の収束点はただの行き止まりではなく、扇状の舞台のようになっていた。石造りで段差のある舞台。その中央に椅子が一つ。誰かが座っている。……眠っている。男とも女とも付かない顔。体を黒くて濃い靄のようなものが覆っていて、服のようにまとわりついている。


 僕は息を飲んだ。この夢で、ひとに会うのも、まともな構造物を見るのも初めてだったのだ。僕は駆け足をやめ、ゆっくりと近づいていく。椅子に座る人物はまだ寝ている。肩まである黒い髪が揺れている。前髪も長く、目元はあまり見えない。だけど、何故か懐かしいような――。


「――ここまで来てしまったんだね」


 突然その人物が話し始めた。中性的で優しい声色。僕は驚いて立ち止まる。


「九空埜(くからの)希生(きお)。十年の歳月で踏破したか」


「僕の、名前……!」


 なぜ知っている。いや、知っていて当たり前か。ここは僕の夢だ。僕のことなんて一から十まで知っていて当然。ただ、僕の方はこの人間を知らない。


「何者ですか、あなたは」


 聞いてみる。するとその存在は「名は、ウロという」と名乗った。それから続けて言う。


「希生。この場に君が辿り着いてしまったことを、成長として喜ぶべきか。それとも、時間切れとして悲しむべきか。……この夢の主としては複雑な想いでいるよ」


「夢の、主?」


「そうだ。この夢は私が君のために用意した夢だ。……もう、用をなさないようだが」


 ウロと名乗った存在は、座った状態のままでその右手を掲げる。ウロの手に、その身にまとうような黒い靄が集まり始める。


「希生。せめてこれを渡しておこう」


 言うと同時。ウロの手から黒い靄が離れ、僕の方へとゆっくり漂ってくる。不気味な存在感のそれを、それでも僕は身動きもせずに受け入れてしまう。靄は僕の胸元まで来ると、じわりと溶け込むようにして入り込んでくる。特に何の感覚も感じはしなかった。


「今渡したのは『器(うつわ)の能力(ちから)』。この『ウロの夢』を去る君への手向けだ」


 言葉も耳慣れないし、何を言っているのかも正直あまり理解できない。「どういうことだ」と問いかけてから、視界が一瞬荒れる。まずい。これは。

 僕は咄嗟に腕時計を見る。いつの間にか12時になりかけていた。目覚めの時が近い。


「二度と、君と会わぬことを祈っているよ。さあ――」


 ウロが悲しそうな表情で、何か懐かしいものを見るように目を細める。それから僕の視界がどんどん荒れていき、最後にはその姿は見えなくなり、声だけが残る。


「――おはよう。希生。いい一日を」

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