第17話 全力逃走劇
俺の身体能力は元々大したことなかった。決して運動音痴というほどではなかったが、精々クラスリレーの補欠に入るかどうかという具合だった。
しかし五年間の鍛錬の結果、俺は県内トップの走力を手に入れた。クラスでトップじゃない。県内でトップだ。
去年、100メートル走のタイムを計ってみたことがある。自分で手計測しただけで公認記録でも何でもないし、結構ズレはあると思うのだが、それが高校総体県予選決勝の一位のタイムを上回っていたのだ。
これには自分でも驚いた。自分を変えようと思ってやっていたことだったのに、想像以上の結果が出てしまった。
つまり何が言いたいかといえば、県内の高校生において、俺の逃げ足を上回る者など一人としていないということである。
「先手必勝‼」
俺は一瞬の隙をついて襖を蹴破り、その先に続いていた廊下を全力で駆け抜けた。
「あ! ちょっと!」
背後で牛見が何か言っている声が聞こえるが、その間にも距離はどんどん離れていく。俺が本気で逃げればこんなものだ。
こういう逃げ方をすると後が怖いのでできればもっと穏便に済ませたかったが、あらゆる手を尽くして無理だったのだから仕方ない。
「にしてもなんだここ。広すぎるぞ……」
よくよく考えてみれば、なぜ家の中で全力疾走できているのだろう。俺の家なんて大股二歩で端から端まで行けるのに。この廊下なんて50メートルくらい直線が続いてるぞ。どんな豪邸だよ。
あまりにも広すぎて、玄関がどっちなのかもわからない。家というより迷路だなここは。
「あれ……? ここ、さっきも通ったか……?」
スタートダッシュは完璧だったのだが、あまりにも闇雲に走り回ったせいで完全に迷った。
俺は方向音痴ではないつもりだが、こうも同じような構造が続く屋敷の中では方向感覚もぐちゃぐちゃに狂わされる。俺が逃げ出してきたあの部屋がどっちにあるのかさえわからない。
「えっと……こっちから来たから……あれ? なんでここに戻って来てるんだ?」
色々な部屋を通り、廊下を通り、ぐるぐると巡り巡って辿り着いた場所には見覚えがあった。
目の前にあるのは、俺が蹴り飛ばした襖だ。部屋自体はどこもかしこも同じようなものだが、倒れた襖なんてここにしかない。
「みぃつけた」
明るくも狂気に満ちた声が聞こえ、ゾクッと背筋に怖気が走る。振り向けば、そこには出刃包丁片手に口角を吊り上げる牛見がいた。
「残念。君はこの屋敷でまっすぐ歩くこともできないよ? そうなる呪いをかけておいたから。誰かに運んでもらわないと、絶対にここに戻って来ちゃうんだ」
「な……呪い? そんなものが……」
今さら彼女を、オカルトマニアの電波女扱いすることもできまい。彼女の言う呪いとやらも多分本物だ。現に俺は走り回った挙句ここに戻されている。
「さて、どうする? 諦めて私と結婚する? それとも清く正しいお付き合いから始める?」
「お断りする選択肢はないんですか?」
「君は頭がいいはずでしょ? この期に及んでそんなことが許されると思ってる?」
彼女がどういうつもりで包丁を持っているのか知らないが……とにかくヤバイ状況だってことだけは確かだ。
走れば彼女から逃れることは容易い。しかし逃れた先で彼女は待っている。先回りする必要はない。一歩も動く必要はない。だって俺は自分からここに戻って来るのだから。
戦えば勝てるだろうか? 包丁を持った人間相手に素手で? 一応護身術も基礎ぐらいは身につけてはいるが、実際に使ってみたことがあるわけじゃない。そんな付け焼刃の技術がどこまで通用するか……。
何をしても上手くいく未来が見えず、諦めかけていた時────ポケットの中に入ったスマホが、軽快な呼出音を鳴らしながら小刻みに振動し始めた。
「あー……誰かが俺を呼んでるみたい」
「私の前で別の女と電話するつもり?」
「女と決まったわけじゃないだろ」
「いいや、わかるよ。女の臭いがするから」
どんな嗅覚だよ、と思いながらスマホの画面に目を落とすとそこには真殿夏海と表示されていた。
(本当に女子じゃねぇか……)
ただの直感なんだろうが、女の勘というやつは恐ろしいな。……というか、俺って真殿の連絡先なんて登録してたっけ? 名前が表示されてるってことはしてたんだろうけど……いつしたんだ?
細かいことはこの際いいや。これはチャンスだ。真殿に助けを呼んでもらえば、この状況から脱する手立ても見つかるかもしれない。
牛見は不機嫌そうな顔をしていたが、無視してスマホを耳元に当てた。
「もしもし」
「あ、時谷君ですか? 真殿です。急に教室を出て行かれてしまったので、どうしたのかと心配になって連絡したのですが……」
「あー……今ちょっと立て込んでて……」
俺が状況を説明しようとすると、牛見がくわっと両眼を大きく見開いてにじり寄って来る。
下手なことを言えば、その瞬間に猛ダッシュで距離を詰めてきてずぶりといかれそうだ。
その攻撃を回避できる自信はあるが、ここから逃げ出す方法が見つかっていない以上、牛見を下手に刺激するのは危険かもしれない。
「えっと……そうだなぁ……ちょっと、モテ過ぎて困ってる……というかなんというか」
牛見を刺激せず、真殿に危機を伝える効果的な表現が思いつかず、ただ嫌味な男になってしまった。これじゃせっかく心配して連絡してきてくれた真殿も呆れて通話を切ってしまうぞ。
「………………モテ過ぎて? ああ、なるほど。大体わかりました」
「え? わかったって、何が?」
「実は、もう大体見当はついているんです。それでは後ほど」
それだけ言って、プツンと切れてしまった。
「……後ほど?」
どういう意味なんだ。後も何も、俺はここを脱出しないと告白の無限ループから抜け出せないんだけど……。
「相手は誰? 委員長?」
「なんでそんなことまでわかるんだよ。俺、名前言ってないよな?」
「わかるよ。邪魔になるとしたらあの女だと思ってたから」
なんだその言い方。まるで昔からの因縁の相手みたいな言い回しだな。
「まあいいや、だったら早く済ませよう。こっちに来て」
「嫌だね。俺は絶対に逃げるぞ。何が何でも逃げる」
「往生際が悪いなぁ……私の呪いはそう簡単には────」
何かを言いかけた牛見の言葉を遮るように、バキバキと木材をへし折るような轟音が屋敷中に響き渡る。
「なんだ……?」
音は段々近づいてくる。やがてその音の主はド派手に襖を吹き飛ばしながら、俺と牛見の間を遮るように姿を現した。
「────こんにちは、時谷君。お迎えに来ましたよ」
自分の身長の倍ぐらいある薙刀を振り回しながら、おしとやかな笑顔を崩さず挨拶してきたのは我らが委員長────真殿夏海だった。
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