第7話 ドーナツプレート

 痩せなくちゃ。

 と思って歩いていた。朝には軽く筋トレをしてプロテインを飲んで、たんぱく質が多い無糖のヨーグルトにオリゴ糖を掛けて食べた。昼はオートミールに小分けにして冷凍したほぐしささみともやしとえのきとキムチを卵でとじた雑炊。結構美味しいしお腹にたまる。そのあと軽く筋トレをして、今は外を歩いている。

 ダイエットはそれなりに順調だ。二カ月前まで人生で一番太っていた。仕事のストレスで、夜中にコンビニでお菓子とお酒を買って、youtubeを見ながら食べて、食べ過ぎて気持ち悪いなあと思いながら寝る。当然むくむくと太っていったけれど、外見なんかどうでもいいような気がしていた。もう三十を過ぎて、なんだか全部どうでもよくなっていた。ある程度女性として整えた見た目じゃなくちゃいけないというこれまでの常識を捨てたかった。別に綺麗になりたくなんかないのに、そのために払う労力が惜しくなった。一年で十キロ以上太ったし服も入ればいいという気持ちで選ぶようになり

 職場の配置が換わって、急に時間が出来た。定時で帰ることが増えた。久しぶりにゆっくり料理をして、ずっと登録していただけの配信サイトで見たいと思っていたドラマを見た。二話終わったあともまだ十二時になっていなくて、そのまま寝た。七時間。次の日もそうだった。おそるおそるそういう日々を過ごした。

 前の部署では仕事なんてそんなもの、と思って過ごしていたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。仕事にもいろいろあって、これも仕事だ。毎日ジャンクフードを体に詰め込んで思考を停止させないといけないようなものだけが仕事じゃない。

 すると、そんなつもりもなかったのに体重が落ちてきた。全身が少しすっきりとしてきた。

 そうだ。痩せよう。

 思いついた。ダイエットレシピを検索したり、軽い筋トレや有酸素の動画を見たりもした。体重はどんどんと落ちてきた。嬉しかった。自分を取り戻したい。そう思った。きちんと食事をして、きちんと睡眠をとって、きちんとお風呂に入って、きちんと仕事をして。そうやって、自分の生活と肉体を、自分のコントロール下に置きたい。業務量とそのストレスの解消だけで過ぎていく生活に戻りたくない。そう思って、頑張っている。一時間ほど歩いた。立ち止まって、額にかいた汗を拭く。

 お腹が空いた。疲れた。

 ダイエットを始めてから食事の直後以外はいつもうっすら空腹だ。でも案外それが気持ちがいい。痩せていっている、という実感があるし、太っていっている時期は、なぜか食事の時間が空いてもお腹があんまり空かなかった。何かがいつも詰まっている感じで、体が重かった。

 だから空腹が嫌ではないのだけれど、今は、体に力が入らない気がする。ちょっと無理をし過ぎたのかもしれない。コンビニで飲み物でも買おうか、と思っていると、看板が目に入った。

『喫茶もかもか』

 カフェオレでも飲んで、少し休もう。ふらふらと吸い込まれるように、その店に入った。民家みたいな外観のお店だ。

「いらっしゃいませ」

 犬だ。ふかふかの可愛い犬が、とことこと迎えに来てくれた。反射的に撫でながら顔を上げると、若い男性がいた。意外な組み合わせだった。

「可愛いですね」

「ありがとうございます。人間が好きなので、構っていただけると喜びます」

 店員さんはそう言ってくれるけれど、当の犬はしれっとしている。お腹まで大人しく撫でさせてはくれるけれど、はしゃいだりはしない。それがなんとも可愛い。犬は何をしててもどんな性格でも可愛いけど。

 ひとしきり撫でた後に、メニューを見た。

『本日のごはん ドーナツプレート』

 ドーナツプレート? ごはん?

「ドーナツプレートとアイスティーを」

 疑問に思っているのに、気付いたらそれを頼んでいた。頼んだことに、どきどきした。ドーナツなんて、本当に、滅多に食べない。ダイエット中だから避けている、というより、食べたい、という選択肢に入ってない食べ物だ。食でストレスを解消していた時期にも食べた記憶がない。

「ドーナツ、美味しいかな」

 わけもなく動揺しながら、犬を撫でた。ふわふわ。ふさふさ。そういう感触。ふと、もかもか、という言葉が浮かんだ。もかもかしている。カウンターの下のベッドに、『MOKAMOKA』と名前が書いてあった。なるほど。もかもか。もかもかちゃん。もかもか。

「そろそろできます」

 と言ってもらったので、丁寧に手を洗った。もかもかちゃんの可愛さに忘れていたけれど、本当にお腹が空いた。

「ドーナツプレートです」

「わあ」

 どういうものなのかわからないまま頼んだドーナツプレートは、とても美味しそうだった。ふんわりとした大きめのリングドーナツに、薄い生ハムが巻き付いて、サラダが添えてある。その横に、クリームがちょこんとはみ出した粉砂糖を纏った丸いドーナツ。しょっぱいドーナツと甘いドーナツの組み合わせだ。

「いただきます」

 生ハムの方を、ちょっと迷って手で取って食べてみた。まだ温かいドーナツと、冷たい生ハム。さっくりとした表面を齧るとドーナツが伸びて裂けていく感触が楽しい。生地がほんのり甘くて、生ハムのしょっぱさとちょうどいい。添えてあるサラダのドレッシングは酸味が効いている。野菜の歯ごたえと小さな苦み。そしてまたドーナツと生ハム。

 すっごく美味しい。

 あっと言う間に食べ終えて、手を拭った。アイスティーを一口飲んで、クリームドーナツを手に取る。ずしっと重たい。そっとかぶりつくと、クリームが零れた。つめたいカスタード風味のクリーム。生クリームと合わせたクレームディプロマット、というやつかもしれない。どうやってもきれいに食べられそうにないたっぷりとした量のクリーム。諦めて、行儀悪く口周りを汚して食べた。ドーナツなんて、お行儀よく食べるものじゃないのかも。粉砂糖でお化粧していても生地の弾力がどこか子供っぽくて、気楽だ。

 ものすごく、美味しい。

 口周りを拭って、手を拭いた。お腹が、いっぱいだった。たっぷりとカロリーを摂った。まだ夕飯の時間には遠いのに。こんなにカロリー、特に脂質を摂取してしまって、とダイエットモードの脳みそで思う。たんぱく質も少ないし、ダイエット向けの食事では絶対にない。明日には体重が増えているかもしれない。

 でも、食べてよかった。

 心からそう思っていた。だって美味しかったし、美味しい、と思える自分がいた。後悔がないことが、嬉しかった。なんていうのか、本当に、私は自分の生活を取り戻したんだ、と実感していた。自分の体と心を労わったり、美味しいものを食べたりして、楽しく暮らすこと。体重を落とすのはその一つの側面で、今はそれも楽しいのだ。自分の体が変わっていって、ちゃんと自分のコントロール下にある、という感覚が。だからやめたりはしない。しばらく続けながら、ちょうどいいところを探していきたい。この体がちょうどいい、快適、という感覚を。よく食べて、よく動いて、よく眠って、健康でいたい。それで楽しく過ごしたい。

 ストローでからからと氷を動かしながら、ゆっくりとアイスティーを飲む。カウンターの下から、もかもかちゃんが私を見ていた。黒いつやつやの目。ちっちゃい鼻。もう撫でないのかと催促しているようでもあるし、もう撫でなくてもいいよと一人でくつろいでるようにも見える。どちらにしても、とってもかわいい。

 たまにはここに来て、美味しいものを食べて、のんびりしよう。

 ここに来るのは、すごくちょうどいい気がする。そう決めた。

 それがいいよ、と言うように、もかもかちゃんのまあるい尻尾が揺れた。

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喫茶もかもか 古池ねじ @satouneji

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