ナイフでヒットマン

第17話 電車での仕事

 郊外から都市部へ向かう朝の列車は混んでいる。1平方mあたり、最低でも4人は詰め込まれているだろう。

 肌寒くなっている季節なので、誰もが通勤用のスーツの上にコートを着込んでいる。茶色、紺色、黒に白。上に乗っている顔の性別や年齢は様々でも、誰もが記号のように無個性に感じられる。


 その中で、誰も私の存在に意識を止める者はいない。身長160cm程度で、明るい色の髪を肩までの長さにした、20代終わりごろから30代初めの女。

 特に特徴のない顔立ちにワイヤーフレームの眼鏡をかけ、着ている黒のコートも普通の適当な品。まるで量販店で纏め売りされている靴下のような人間だった。


 私は視線を宙にさまよわせているように見せつつ、視界の端で一人の人間を追っていた。コートの海に隠れるようにしてたたずむ40ばかりの男。背は高く痩せており、着ているシープスキンのコートがだぶついて見える。頬骨の突き出た顔はかなりやつれ、頭髪が寂しくなっているせいで一層貧相に見えた。

 憔悴するのも当然だろう。自分に命の危機が迫っていることを知って、ここ何日かは常に移動を繰り返して逃げ回っている。

 だが、そんなことに意味はない。自宅だろうが路上だろうが、たとえ満員電車の中であろうが、運命が訪れるのは避けられない。


 次の駅のアナウンスが聞こえると、私はコートの袖に右手を入れ、左腕の前腕にストラップで留めたナイフの柄を握った。片刃で刃渡りは15cm。刀身は峰の部分が分厚く、刃先が角ばった形状をしている。

 使うたびに買い替えるのだが、このデザインは気に入っているので、いつも同じようなものを選んでいる。

 人殺しに適しているから。


 私は袖に隠したナイフを持ったまま、標的の方に一歩近づいた。距離は20cmもない。わずかに待つと、列車が減速して停止した。

 降りるために乗客が席を立ち、戸口の方に足を進めようとして、人の群れに動きが生じる。

 到着を告げるアナウンスが鳴った瞬間、私はナイフを引き抜いた。


 腕だけの最小限の動作で、ナイフを標的の左腰少し上――左の腎臓に突き刺す。鋭角に研がれた刀身は、驚くほどたやすく服と肉を突き破って体内に侵入した。

 ナイフをねじって傷口を広げ、もう一度突き刺してねじる。

 臓器に穴が空く事態に遭いながら、標的の反応は鈍かった。いきなりナイフで刺されても、たいていの人間は自分の身に何が起きたのか、すぐに分かることはない。

 衝撃や熱さを感じるだけで、理解が及ぶのは吹き出る血や体に突き立っているナイフを見た時からだ。

 それは何度もやってきた経験則からよく知っている。彼らが事態に気付くに頃は、もう手遅れにしておくのが鉄則だった。


 自分の体に何かが起きたことを察した標的が振り向こうとしたが、私は左手で背中を押さえてその動きを制し、続けて右側の腎臓も刺した。同じようにねじって傷口を広げてから素早く引き抜き、一動作で袖の鞘の中に隠す。

 返り血は間違いなく飛んだだろうが、黒のコートを着ているのでほとんど目立たない。それでも大量の血が付けば分かってしまう。吹き出る血液を避けるため、私は外に出る乗客の波に乗って標的からすぐに距離を開ける。

 電車から出るとき、視界の端で標的が床に崩れ落ちていくのが見えた。


 電車を出た私は後ろを振り返らずにホームを歩き、改札から駅を出た。地下駐車場に入り、あらかじめ監視カメラの目が届かない位置に停めてあった車に向かう。

 トランクを開けて返り血の付いたコートを脱ぎ、大きなビニール袋に突っ込む。手首のナイフも鞘ごと外して用意していた紙袋に隠し、テープでぐるぐる巻きにして開かないようにした。靴と手袋も同じように脱いで、仕上げにウィッグも外す。私の本来の髪は黒のショートだ。

 それらも同じようにビニール袋に放り込んで袋ごとスーツケース内に隠し、替えのコートと靴を身に着けると、現場から離れる準備が出来た。

 ねぐらに帰ってこのコートと手袋、靴、ナイフを処分すれば、仕事が完了する。


 標的の生死を確認する必要はなかった。あの男がもうすでに絶命していることは確実だ。これまで何度も同じことをやってきたのだから、あの部位を刺された人間が死ぬまでにどのぐらいかかるかはよく知っている。

 十数秒もかからず意識は失われ、1分前後で失血死する。

 仕事を行った場所から十分な距離を取って、車は予定していた場所で乗り捨てた。この車はレンタカーで、人を雇って返しに行かせる手はずが整っている。

 雇われた方は私と直接会ったことはなく、電話をして要求を伝え、現金を指定の場所に置いておく手続きだけでやり取りする。向こうも「余計なことを知らない」で済ませる便利屋のようなもので、その手のことは心得ていた。

 色々と詰め込んだビニール袋入りのスーツケースをトランクから引っ張り出し、しばらく歩いた先に止めてあった自分の車に乗せ変えて、ようやく私はねぐらへと帰っていった。

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