第5話 入院している彼女の場合

 あまり色彩がないことと、薄暗いことだけわかる病室。重たい掛け布団が、窓からの光をぼんやり反射している。梅雨特有のべたつきさはないけれど、代わりにすうっと服の隙間から入る風のせいで肌寒く、私は指先まで布団におおわれていた。

 窓を叩く雨音と、エアコンの機械音以外はなにも聞こえない世界で、電話の通知音がなった。私は素早く手を出し、なんとかたぐりよせて、スマホをとる。

「はい、もしもし?」

『私、メリーさん』

 あら、と私は微笑んだ。

『今、明月院の紫陽花を見ているの。淡い色の花と、雨で濡れた新緑の色が綺麗だわ』


 明月院ということは、鎌倉ね。紫陽花で有名なところ。今は梅雨だから、きっと綺麗ね。

 しばらくして、また電話がなった。


『私、メリーさん。今、箱根にいるの。とろろお蕎麦が美味しいわ。ロープウェイから見た景色も綺麗だった』


 箱根かあ。ユネッサン、もう一度行きたいなあ。退院したら、行きたいな。


『私メリーさん。横浜の中華街にいるわ。赤い街並みが綺麗ね。川にクラゲがいたの』

『今は彫刻の森美術館にいるわ。キラキラしててきれい』


 ここには殆ど音なんてないのに、メリーさんの電話の向こうには、かすかに聞こえる自然音。

 水の音。梢の音。雨の音。人の声。蛙の声。車の音。

 メリーさんの言葉と、その音が、私の世界を色づかせる。まるで私も、旅をしているみたい。


『私、メリーさん。今、病院の前にいるの。

 病院のお庭の紫陽花も綺麗よ。濃い紫色の紫陽花』


 知らなかったわ。そんなに綺麗な紫陽花が、身近に咲いていたなんて。

 メリーさんの気配が、ちかづいてくる。


「『私、メリーさん。今、あなたの入院している部屋の前』」


 声が機械から通されるものと、ドアの向こうから肉声の声が被る。

 そして。


「私、メリーさん。今、あなたの目の前にいるの」


 そっと、わたしの手を取った。

 ぼんやりと光に包まれた世界で、私は見えない目をこらす。

 手元には、ぼやけた世界でもわかるほど赤く、柔らかいものが乗せられた。


「まあ。お土産?」

「そう。本当は紫陽花を持ってきたかったけど、今の病院はお花は持ってきて欲しくないみたいだから」

 可憐な、けれどしっとりとした声で、メリーさんは言う。


「ひさえさん、原色だと見えるって言ってたから。すごく赤い布を買ってきたの」

「縮緬は手触りが楽しいわよね。小さい頃はよく触ってたわ、ありがとう」

「あとはこれ」


 カン、という金属の音がする。私は、直感した。

「もしかして、お菓子の缶?」

「そう。お菓子の家のクッキーですって。かわいい動物たちのクッキーなの」

 今度食べてね、とメリーさん。机の上に置く音がした。

 ああ、なんだかすごく裁縫がしたくなってきた。食べ終わったお菓子の缶には、絶対に裁縫道具を入れていたの。

 手が覚えているから、目が見えなくても縫えるかしら。


「たくさんリポートしてくれてありがとう。おかげで入院生活が楽しかったわ」

「本当? 本当はもっと言葉にしたかったのだけど、なかなか難しいわ。目に浮かぶように説明したかったんだけど」

「見えたわよ、心の目で」


 そう言うと、メリーさんは笑った。

 いくら目が悪くなったって、人の機嫌ぐらい、ほかの感覚でわかるのよ。

 手を握ると、ほんの少し固くて、ちょっと冷たいメリーさんの手。でもそこからは、あたたかい感情がつたわってくる。


「退院したら、どこにでも連れていくわ。国内でも、海外でも」

「まあ。楽しみ。パスポート、まだ使えたかしら」


 雨の音が聞こえる。

 風の音が聞こえる。

 人は何かを失うと、「かわいそうに」と言ってしまうものだけど、失うということは同時に新しいものを手に入れることだった。目が見えなくなったぶん、無意識に排除していた音を、意識するようになった。それは新しく知った、私の世界にもともとあったもの。

 私の人生は退屈なものとばかり思っていたけれど、単に私が気付いてないだけだった。それが分かっただけで、素晴らしいことだと思えている。

 看護師さんの足音が聴こえてきた。同時に、メリーさんがまたね、と告げる。

 私も、またね、と返した。





 暫くうとうとしていたのだけど、聞きなれた足音がして、ぱちりと目を覚ます。

「あ、こんにちは」

 看護師さんの声に、私は、夫がお見舞いに来てくれたのだと確認した。

「こんにちは。妻の様子はどうでしょうか」

「ええ、今日も楽しそうでしたよ。今日はお孫さんがいらっしゃったので、すごく楽しそうでした。すごく綺麗なお孫さんですね」

「え……? 私たちに、子どもはおりませんが」

「え? じゃあ、あの子は一体……」



 ドアの向こうから、看護師さんと夫の会話が聴こえる。

 私は寝た振りをするために、布団を再び口元まで持ってきて、ふふ、と笑う。

 おばけと友達なんて、知ったらきっと、びっくりするでしょうね。


 ああ、あの子のためのお洋服を作りたい。

 赤い服でも、それ以外でも、なんでも似合う、美人な子。

 


ーーー

とりあえず、メリーさんのお話はここまで。

メリーさんの過去編を考えてたり、メルボルン行って欲しいとかしこまりこ様からリクエストが来たので、思いついたら続編を書きます。メリーさんにしてもらいたいことリクエスト大募集中だぜ。

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