第2章

第1話 

 「森野、起きなさい。森野」

眠っている僕を、誰かが呼んでいる。

「誰?」脳の一部が反応するが、昼間の疲れもあって、なかなか起きられない。完全に覚醒する前に、再び沼に引き込まれるように深い眠りに沈み込んでいこうとした……、そのとき、パシーンと頭をはたかれた。


「起きなさい、森野!」

「いってえ」

頭皮に広がる鈍い痛み。前にもこんなことがあったような……。次の瞬間、眠気の霧はあっという間に消し飛んで、僕は跳ね起きた。


「お狐さま?」

目を開けた僕の視界に飛び込んできたのは、一面の紙吹雪のような色とりどりの光だった。ちょっと今まで見たことのない光の乱舞に、言葉を失う。キラキラ光る七色の光が狭い部屋を埋め尽くしていて、それはそれは綺麗だった。


「帰って来たわよ」

光の中に十二単じゅうにひとえ姿のお狐さまがたたずんでいた。光の乱舞にも負けないような絢爛豪華な衣装に、床にまで届く長い黒髪。いつの間にこんなに髪が伸びたんだ。


それにしても、久しぶりにまともに見るお狐さまは、相変わらず美人だった。お雛様のような平安装束が似合いすぎる。僕は、この世のものとは思えない七色の光とお狐さまに、あんぐりと口を開けて見とれていた。さぞかしバカ面をさらしていたことだろう。


「お、お狐さま、今までどこに行ってたんですか」

しばらく見とれていた後、我に返って、ようやく聞いた。

「ちょっと修行してたのよ。ほら、今までは五穀豊穣がメインだったから、商売繁盛とかもできるように。時代に合わせて御利益も変えていかないとね」


古風な出で立ちで、えらくビジネスライクに言う。そういえば、前に日経新聞を読んでいたっけ。お狐さまはお狐さまなりにクラスチェンジを図っていたのだろうか。

「商売繁盛のお札を作ってみるように宮司に言ってちょうだい。私、ちょっと格が上がったのよ」お狐さまはいくらか得意げに言った。


格って、神様界にも格付けがあるのだろうか。神様界も人間が思うよりはシビアそうだ。

「今日からあの神社にいるから」

お狐さまの姿は消え、一面の光も嘘のように消え失せて、僕は暗闇を茫然と見つめていた。


「先生、お狐さまが戻ってきました」

次の日の朝、僕は脇坂教授の部屋に飛び込んで、開口一番に言った。

「本当かい。何か兆候があったのかね」

電気ポットにペットボトルの水を注いで、朝のお茶を入れる準備をしていた教授は驚いて僕を見た。

僕は昨夜の出来事を話した。

「ほう。修行ねえ」

教授は興味深そうにうなずく。

「それにしても、御利益のクラスチェンジねえ」

「前に僕の部屋に出たときに、日経新聞を読んでいました」

「神様界もいろいろ大変だ。人間の需要にこたえようとするのは、さすがに現世利益のお狐さまだね」と笑った。

「とにかく、戻って来てくれてよかった。これで本当に引っ越しが完了だ」

「僕もなんだか胸のつかえが下りました」

「お札の件は、兄に言っておくよ」


 お狐さまの出現には随分驚かされたし肝を冷やしたものだけれど(昨夜もだが)、このままお狐さまがどこかに行ってしまえばいいとは思わなかった。戻って来てくれてよかったと、自分で思っていた以上に安心している自分に驚く。すっかり飼いならされてしまったものだ。それにしても、昨日の光は綺麗だった。驚かされるのは毎度のことだが、あの光景はいいものを見せてもらったという感じだ。


 外に出て、空を見上げて大きく伸びをする。一仕事終えたような安堵が胸いっぱいに広がり、急に眠気が襲ってきた。今日、午前中の講義はない。これから帰って寝直そう。通勤や通学で駅に向かう人、自転車で保育園に子供を送り届けたママさんが行き交い、まだ朝のあわただしさが残る街を抜けて、アパートに戻る。


窓を開けるとレースのカーテン越しに一陣の風が吹き込んだ。暑くも寒くもない、眠るのにちょうどいい気温だ。僕は上着を脱ぐと、ベッドにもぐりこんですぐに眠りに落ちた。


 目が覚めると、午後の1時過ぎで、出るはずだった講義はとっくに始まっている時間だ。今すぐ出れば30分ほどの遅刻で済むので一瞬迷ったが、昼飯も食べていないし空腹なので、もう今日はさぼることにした。


オーブントースターに食パンを2枚突っ込んでから、冷蔵庫の中を見る。卵とソーセージ、牛乳ぐらいしか入っていない。あるものを総動員することにして、火にかけたフライパンに卵を割り入れソーセージを投入し、牛乳をコップに注いだ。食べ終わったら、買い物に行ってこよう。





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