4章 死にたい女

第12話


 ジリジリと暑い季節になると、古めかしい彼岸堂は地獄のように蒸し暑かった。彼岸が虫を嫌うのでハッカ油をそこら中に塗りたくって目はスウスウするし、人間の姿になっていても汗がじんわりと滲んだ。

 氷売りから氷を買って、削って食っても一瞬しか涼しくならない。風呂に入りたくても火を燃やすのが億劫だし、飯を作るにしても暑すぎるのだ。

 だから俺はここに避難してきている。


「今日はイワナっすね。くぅ〜!」

 弥勒亭である。弥勒亭には「くーらー」という不思議な箱が存在していてそこから涼しい風が出てくる。部屋を締め切ってしまえばどんどんと涼しくなるのだ。まるでこの部屋だけ冬になったみたいである。

「にいちゃんはほんと釣りの才能があるなぁ。こんなでっけぇイワナ久々に見たぜ」

 大将はイワナを手に取ってニカッと笑った。釣りじゃなくて、物理で取ったんだけどな……。

「涼ませてもらってますから」

 とろけるくらいに涼しい。あぁ、極楽極楽。

「そうだ。尾崎さん、今度一緒に街に降りる日なんすけど、モックとそれから家電を買いに行きませんか?」

 弥勒はスマホを取り出すと、丸っこい何かの写真をこちらに見せてくれた。

「なんだ?」

「もー、嫌だなぁ。扇風機っすよ〜。彼岸堂でも電気は通ってるんだし、これがあればだいぶ涼しさは違うっす。多分、尾崎さんの小遣いで買えるはずなんで……」

「ほしい」

「じゃあ、きまりっすね! あ、そういえば今日お客さんくるって言ってませんでした? 時間大丈夫?」

「まずいっ」

 俺は二人にお礼をいって弥勒亭を出た。まずい、今日は客が来る日だった。流石に狐に戻るわけにもいかずクソ暑い中を全力疾走。せっかく弥勒亭で冷ました熱が再度ひどくなって最悪だ。

 人間ってのはなんで服なんか着るんだ。暑い、暑い。

 炎天下の中の全力疾走後、彼岸堂に入ると、玄関には女物の派手な靴が揃えられていた。普段、彼岸は下駄を履いているので彼岸のものではない。客が到着していたようだ。今回は若い女か……。

「尾崎、遅かったわね。お客さまに冷たいお茶を」

「うっす」

 俺は軽く汗を拭ってから台所に向かった。緑茶を出してからポットにいれてあるのでそれを江戸切子のグラスに注ぐ。削った氷をグラスに入れ込んで、お盆に乗せた。応接室に入ると、彼岸が座るソファーの向かい側には若くて派手な女が座っていた。髪を頭の上の方で子供のように二つに結んでいてうさぎのようだ。そんな子供のような髪型に海外の赤ん坊がするようなふりふりした格好をしている。西洋人形だったか、それが着ているような衣装だ。

 最近街中に出るようになっていろんな人間を見ているが、この女の格好は特異だ。彼岸と似て非なるものを感じる。

 そんな人形のような幼い格好なのに、この女は目の周りを真っ黒にしてまるで化け物のような化粧をしている。一体何が彼女の目標なんだろうか。人形を目指すなら化粧もこう子供っぽいのにするとか……。

「尾崎」

「あぁ、いいんです。ジロジロ見られるのは慣れているので」

 女は申し訳なさそうに笑うと気まずそうに会釈をした。

「も、申し訳ありません」

 俺は形だけ謝って、いつもの座布団に座った。


「お名前を」

浅岡あさおかやよいです」

「やよいさん、私は小曳彼岸。こちらは助手の尾崎です」

 もう突っ込むのもめんどくさい。助手でもなんでもいいや。浅岡やよいは名乗った途端、ポロポロと涙を流し始めた。

「では、今回のご相談の内容を聞きましょうか」


 浅岡やよいは、ド派手なハンカチで目元を丁寧に拭うと、小さく息を吸った。やよいの香水なのか甘い飴玉のような香りがふわっと俺まで香ってくる。

「私の相談は……」

 やよいはごくっと生唾を飲んだ。

「私、死のうと思ってるんです」

 やよいは包帯だらけの手首をこちらに見せた。これも服の一種なのかと思ったが、彼女が包帯をくるくると外す。包帯が外れた彼女の手首は幾重にも重なった切り傷だらけだった。見たところ、古い傷が治る前に新しい傷がつけられたようで、たくさんの傷跡が重なっていて真っ赤に腫れていた。

「自傷行為ではたりなくて」

 やよいは左手の傷を見せると満足したのか包帯を巻き直した。赤黒い手首は痛いだろうに彼女は笑顔のままだった。自傷行為ということは自ら手首を傷つけているということか……。ついこの前、俺は命懸けで女を救ったから「自ら死にたい」なんていう人間の心理は全くと言っていいほどわからない。自分から命を無駄にするなんてことどうして……?

「死のうと思っている理由を聞いてもいいかしら」

 俺が冷静ではない中、彼岸は冷静だった。いつもの薄笑いでやよいに質問をしたのだ。これが彼女の仕事だからな。

「恋人に振られてしまって」



 浅岡やよいの記憶に引っ張られる。彼女の部屋なのか、彼女の服のようなひらひらした装飾の趣味の悪い部屋、狭くて暗い。

「ねぇ、ご飯できたよ」

 台所の方からやよいがうまそうな飯を運ぶもテーブルのそばにいる男はむすっと不貞腐れたような顔をしている。この男がやよいの恋人だろうか。

「いらないよ」

「どうして? オムライス、おいしいよ」

「俺たち、別れ話してたじゃん」

 男はもううんざりだと言わんばかりの顔でやよいを睨んだ。さっきまで笑顔だったやよいの顔から表情が消える。オムライスという黄色の料理をがしゃんと床におとし、やよいは怒ったり泣いたりコロコロと表情を変え、うまく聞き取れないくらいの速さで何かをしゃべっている。

「お前、重すぎるんだよ」

 男は茶色の長い髪をかきあげて、情緒不安定な様子のやよいにも慣れた様子だった。

「重いって、私はみっくんが好きなだけだよ? みっくんだって言ったじゃん。私のことだ好きだって。結婚したいって、おじいちゃんおばあちゃんになるまで一緒だって約束したじゃん」

 男はため息をつく。確かに、ちょっとそれは責任が重すぎるような……? 最近じゃ恋人や夫婦でも昔よりも軽く一緒にいたり別れたりするらしい。俺には信じられないが、時代の流れに人間というのは逆らえない。

「あのさ、俺たちまだ出会って1年もたってないじゃんか。やよい、悪いけどもう俺限界だから」

 男は立ち上がり、その辺に置いてあった荷物を手に取ると部屋を出ていってしまう。それに縋るようにやよいがしがみつくが、ここは男と女の力の差。男はやよいを簡単に振り払った。非常に狭い玄関までの廊下でやよいは尻餅をつく。

 女が転んでも男は助けようとしない。それはもう男がやよいのことを愛していないという証拠だろう。

「みっくんが付き合ってくれきゃ死んでやる!」

「はぁ……そうやって自分の命をたてにして男捕まえて楽しい? 死ぬ死ぬってやつはどうせ死なないんだろ」

「死ぬもん!」

 やよいは大声で叫ぶ。記憶の中だというのにやよいの金切り声は非常に不快で俺は嫌な気持ちになった。男が出ていってしまった後、やよいは風呂場に向かって剃刀を手にした。そして、満足いくまで自分の手首を傷つけると、スマホでそれを写真にとって男に何度も送りつける。

<次は首をやるから>

 そんなメッセージを送っても、男から返信はなかった。



「彼のために、死にたいということなのかしら?」

 記憶から戻ってくると、彼岸がやよいに優しく聞いているところだった。やよいはハンカチーフで涙を拭いながら頷いた。記憶の中で見た男は別に全然いい男じゃなかったし、性格だって悪そうだった。少なからず、縋る女を突き飛ばすような男はろくなもんじゃない。

 別れを告げるにしたってもっと、もっと良い方法があったろうに。

「はい、みっくんは……彼は私の命の恩人なんです」

「命の恩人?」

「はい、街中で酔いつぶれていた私を介抱してくれたのが、みっくんなんです。みっくんはバーテンダーで……私はみっくんのお店に通うようになって、それから付き合うようになって、同棲もしてたんです。何もなかった私をここまで生かしてくれたのがみっくんなんです」

 俺にはやよいが何を言っているのか半分くらいわからなかった。でも、彼女の表情を見ているとこの出来事が彼女にとってすごく大切な思い出だったことがわかった。「で、彼に別れを告げられたから死にたいと」

「はい、彼がいなくなってしまったらもう意味がないんです。私の人生なんて」

「じゃあ、ここへはなんの相談に?」

「死ぬ前に、いろいろな思いを整理しようと思って」

 やよいは、小さなバッグの中から紙の束を取り出した。それは複数人宛の手紙だった。母親や友人、それから先生というのは恩師だろうか。

「わかりました」

 彼岸はあっさりと彼女が死ぬことを受け入れた。ここは死の相談屋だ。今までは「誰かの死を乗り越えるため」の相談だったが今回は少し毛色が違う。「自分が死ぬため」の相談なのだ。

 この場合。彼岸の余命はどうなるのだろうか。椿の力が彼岸に宿ったことで余命は幾分か伸びたが、せっかくの客なのに余命を回復できないのは損した気分だ。

 いや、違うのか。そもそも、俺としてはやよいが死ぬのを避けるべきなのではないか? たった一人の男に嫌われたから「死ぬ」なんてのは浅はかすぎやしないか。

 今までここにきた人間たちは「死にたくなかった」ものばかりだ。生きたくても生きられない人間がいるのに、自ら簡単な理由で命を放り出すのは問題ではないのだろうか。

「死んだら、どうなると思いますか?」

 やよいの質問に彼岸はしばし、沈黙した。死んだらどうなるか、なんてのは死んでからしかわからない。数百年生きた妖の俺ですらも死後の世界については曖昧だ。

「私はここで死の相談屋をしていますが、死後、そうね。成仏した先のことはいまだにわからないわ」

 俺は、女学生のさよや椿が成仏していくのを見たが、その光景は美しかった。キラキラと光る彼岸花と共に光の粒になって天に登っていく。その後、生物は輪廻転生をすると言い伝えられているが、どのように、どんな記憶で行われるのかはわからない。ただ、この世での記憶はかなり特異な存在でもない限りなくなってしまうのが通例だろう。

「成仏しない場合は?」

「成仏しない場合は……そうね、尾崎。説明して差し上げて」

 彼岸の言葉に、やよいが俺の方を向く。

「成仏しない場合、数日から数ヶ月は幽霊としてこの世に存在することができます。けれど、霊力の弱い幽霊の場合は段々と魂が削られ、そのうち霊力の強い悪霊や化物の一部なり、一生成仏ができないままこの世で彷徨うことになるでしょう。魂が吸収されてしまえば、あなたは自分が自分であることも忘れてしまいます」

 魂を食らう悪霊や悪い妖はたくさんいる。そいつらに食われた魂というのは悲惨だ。

「じゃあ、死んだら数ヶ月はみっくんと一緒にいられる?」

 やよいは目を輝かせた。そうか、この女の目的はそれか。自分から離れてしまった男のそばにいるために死んで幽霊になろうとしているのだ。

「おすすめはしないわ」

 彼岸がぴしゃりと言った。少し強い口調だったので、やよいも真剣な表情に戻る。

「どうして……」

「あなたの話だと、お相手はあなたに未練がない様子だったわ。思いがない相手はあなたがたとえ幽霊になってもあなたを認識することができず、そばにいるのにずっと無視されることになるわ。それはすごく辛いことではなくて?」

 俺は峰田と葵のことを思い出した。

 峰田に奥さんの真奈美さんの幽霊が見えなかったのはだろう。逆に、葵にさよの幽霊が見えていたのは葵がさよに執着していたからだ。

 つまり、彼岸のようにかなり強い霊力を持っている人間でない限り、幽霊が見えるかどうかはその幽霊にたいする執着で決まるというわけだ。

「じゃあ、みっくんに私はみえないってこと?」

「そうね、その様子だと。あなたが死んで幽霊になっても彼にあなたの姿は見えないでしょう。あなたは彼が新しい女性と過ごしているのにそばにいるのは辛いのじゃなくて?」

 やよいは「そうですね」と俯いた。彼岸はやはり、やよいが死ぬのを止める気なのだろうか。

「それでも、いいというのであれば続きを聞きましょう。尾崎、弥勒亭に連絡してお昼ご飯の準備を」

 やよいは俯いたままぐっと唇を噛み締めて涙した。げっそりと痩せた頬が痛々しい。昔から、恋愛というのは人を殺す。まだ人々の離縁が許されていない時代や身分や出自によって一緒になれない……なんて悩み事をお社に言いにくる男女もいたような。昔っから俺は人間がそういうことにこだわるのが理解できなかったが……。

 男なんて五万といるじゃないか。どうして、あの男じゃないとだめなんだろう。

「ずっと、食べられてなくて。お腹に優しいものがいいです」

 やよいの言葉に彼岸は優しく微笑んだ。

(あぁ、今日の相談はおじゃんだな)



「そうよ、男はみっくんだけじゃないんだもの。家賃だって生活費だって私が出してたんだもの!」

 やよいは弥勒亭で買ってきた酒をごくっと飲むと、サクサクの天ぷらを齧った。俺はそれを眺めながらきつねうどんを食べている。

「彼岸さん、ありがとう。すっかり目が覚めたわ」

 やよいは食事をして酒を飲んで自我を取り戻したらしい。恋愛で盲目になっていたと気がついたのか、元恋人に対する愚痴を言いながら、ガツガツと飯を食った。幽霊になっても一緒にいられないという話が効いたのか、弥勒亭のうまい飯が効いたのかはわからない。

 俺は彼岸の余命が回復ないので正直早く帰ってほしいと思っていたが、女の与太話を聞く彼岸が楽しそうなので止めはしなかった。

「私、あの人のために水商売をしてたんですよ。ほんっと、時間を無駄にしちゃった。愛してる〜とか言って私のことお金にしかみえてなかったんですよ。ほんと」

 ぐいっと酒を煽る。人形のような見た目をして結構男らしい女だ。こんだけたくましければ自傷行為などせず立派に生きていけるだろう。

「そうだ、お二人はご結婚されているんです?」

 ニヤリ、やよいが揶揄うように笑った。俺は急に言われて顔がかっかと熱くなるのを感じる。

「違いますよ! 彼岸は俺の……なんというか、その」

「弟子」

「弟子ではねぇ!」

「あら、いい関係じゃない。確かに美男美女だし、お兄さんイケメンだもんね。いいなぁ〜、私もまた恋人が欲しいなぁ。できれば私が尽くすんじゃなくて私に尽くしてくれる人」

 彼岸は静かに笑う。あ〜、調子が狂うぜ。全く。

「じゃあ、そろそろバスの時間だし。私帰りますね。元気をありがとうございました。あと、死ぬとか言ってごめんなさい。私、頑張って彼とちゃんとお別れをしてしっかり生きてみようと思います」

 やよいは玄関先で深々とお辞儀をしてみせた。彼岸は

「やよいさん。お節介かもしれないけれど、次の恋愛では自分を一番に考えてくれる素敵な人と幸せになってね」

 と言った。やよいはその言葉に涙ぐむと少女のように頷いて、またお辞儀をして出ていった。



「よかったわね」

「そうかぁ? 1日無駄にしたって俺は思ってるぜ」

「確かに、余命は回復しなかったけれど……自殺というのは悲しいでしょう。この森にやってくる人たちはそういう人も多い。あなたもよく知っているでしょうに」

 それはそうだ。この森(最近の人間は樹海と呼ぶ)は、自殺の名所と呼ばれている。なんでもこの森は広く深く、一度入ってしまえば見つけ出すのは困難だし、多くの獣や妖が住んでいるから人間の死体などすぐになくなってしまう。

 絶望の表情に取り込まれた人間たちがやってきて死んでいくのだ。俺はこの森に住んで長いから幾度となくそんな光景を目にしてきた。

「こうして誰かが話を聞いてやって、うまい飯を一緒に食えば……ほとんどの人間は死なずに住んだのかもな」

 森からカラスの鳴き声がした。灼熱だった太陽は陰り、強い西日が差し込んでいた。徐々にひんやりする空気、時たまふく北風が汗ばんだ肌を冷やしていった。

「そうね。さぁ、今日はもうおしまいにしましょうか。尾崎、お風呂の準備をお願い」

「あいよ」

「ついでに蚊取り線香も焚いていてくれる?」

「へいへい」

「あなたの妖術で虫をここに近寄られないとか、できない?」

「そりゃ無理な話だ」

「もっと鍛錬しなさい、可愛いお狐様」

 彼岸はいたずらっぽく笑うと、俺の肩をポンと叩いた。なぁ、椿。お前の子孫様はまだまだ子供のようだぜ。

 俺は初めてここにきた相談者を救ったような気がして晴れ晴れした気分だった。

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