第2話


 男の名前は峰田智みねたさとしと言った。30代の若造で、会社員だとかなんとか。

「真奈美を……妻を自殺で亡くしたんです」

 峰田は震える声でそういうと、ぐっと唇を噛み締めた。彼岸の方はなんら変わりない、薄笑いを浮かべたままだ。

「自殺、ですか。どのように?」

 彼岸の質問に、峰田はぎょっとしたのか目を一瞬だけ見開いた。

縊死いしでした」

「そうですか。遺書は?」

「いえ、ありませんでした。すごく、突然で、俺が家に帰ると……つ、妻が」

 峰田は彼岸が質問せずともぽろぽろと彼が妻を発見した時の様子を語り出した。


 峰田は朝早くから夜遅くまで妻のために働く健気な男だった。その日は妻の誕生日だったが、仕事が遅くなった。妻に連絡をしたら「いつもありがとう」と優しく労ってくれたそうだ。だから、峰田は日付が変わる頃まで仕事をしてから家へと帰った。妻の好きな菓子すら買って帰ることもできなかった。

 峰田が家の前に着くと、いつもついているはずの電気が消えていたそうだ。妻はどんなに自分が遅くなっていても必ず起きて待っていてくれるはずなのに。

 もしや、怒らせてしまったか。誕生日に仕事にかまける男になど愛想が尽きて出て行ってしまったか。

「今考えれば、あのドアを開ける前……嫌な予感がしていたんだと思います」

 峰田はポロポロと涙をこぼす。

 ドアには鍵がかかっていなかった。「ただいま」と声をかけて、むくみきった足を革靴から解放し、玄関をあがる。とんこつラーメンのような、ニンニクのような、いや、公衆便所のような非常に嫌な匂いがしたそうだ。

 峰田は匂いの強くなる方へと足をすすめる。キッチンでもない、リビングでもない。あぁ、2階だ。2階の寝室だ。

 峰田は階段を上がる。匂いはどんどんと不快になり強くなる。寝室の扉を開けると、そこには変わり果てた姿の妻がいた。

「妻は、死にました」

 俺は峰田の声でぐっと俺はこちらへ戻ってきた。峰田の強い思いに引き寄せられるように俺は彼の記憶の中へ入っていた。心の臓が苦しい、当時の峰田の感情がどっと流れ込んでくる。絶望、悲しみ、怒り……そしてこれは焦り……?

 少しの違和感に、俺は峰田に視線を向ける。峰田は相変わらずやつれた様子で涙を流していた。でも、この男の記憶の中にあったあの「焦り」の感情。おかしい、おかしい。

「彼岸」

「尾崎、今はいいのよ」

 彼岸は全てを見透かしたように俺の言葉を遮ると、峰田の方に向き直った。彼岸の表情から薄ら笑いが消え、真っ直ぐに彼の瞳を見つめていた。普段はへらへらとしている彼岸とはまるで別人だ。

「妻は、どうして逝ってしまったのでしょうか」

 峰田はえぐえぐと喉を鳴らして泣き出した。彼岸は全く表情を変えない。しばしの沈黙、誰も茶を飲んでいなかった。カラカラと切り子の飾り物の音だけが響く。

 どのくらいの時間がたったのだろう。泣く男とそれを見る女。戸惑う狐。



「此処へ来たのはそんなことを話にきたわけではないでしょう?」

 彼岸の一言に、肩を震わしていた男はピタリと動きを止めた。部屋の中に緊張感が走る。彼岸は淡々と話を続ける。

「ここは<死の相談屋>です。ホームページにもあるとおり、他の人にはいえない<死>への思いを話し、託し、流す場所。さぁ、私もこの尾崎もこの森から出ません。思いは水に流してしまえば消えてしまうのだから、話して楽になるといい」

 彼岸の冷たく、まるで死神のような言葉は男の涙を止めた。そして、男はぐっと拳を握り締めると小さく話し出した。

「妻とは、大学のサークルで知り合いました。妻は二つ年下の新入生で、俺は三年生。すごく可愛らしかった妻に俺は一目惚れしました。半分騙すようにして家に連れ込んで、交際がはじまりました」

 俺にはよくわからない言葉も多いが、男と奥さんの出会いの話だろう。いや、彼岸はそんなこと聞いてないだろう。この男、要領が悪いな。

「俺が社会人1年目、妻が大学3年生の頃に子供ができて結婚しました。子供は結局、その……死産だったのですが」

 部屋の中にある古い時計をチラリと眺める。時計の短い針が9時を差し、夜も更け始めたようだ。

 峰田はふぅと息を吐くと

「それから、俺と妻は……その、喧嘩が増えました。妻はまるで憑き物が憑いたみたいにおかしくなって俺を罵るようになりました。俺は仕事に逃げ、妻は家に篭るようになりました」

 彼岸は黙ったままだ。子供が死ぬのは辛い。生き物というのは、特に母親というのは子供のためなら命を平気で投げ打つ。俺が社にいた頃も、子供のために参拝にくる人間は多かった。子供の病を治してくれ、子供が怪我をしないように……。俺には関係のない話だが、そういう願いは美しい色をしている。美しい願いは叶えてやりたいものだ。

 峰田が心を落ち着けるように茶を飲んだ。

「それでも、俺は必死で妻に幸せになってもらうと働いて、働いて……」

 峰田がまた涙をこぼした。ぐっと彼の感情が、俺の中に入り込んでくる。



 同じ色のあの動きにくい服を着ている連中がたくさんいる場所で、パソコンと呼ばれるあの機械に向かっている峰田。その場所は慌ただしく、人間たちはちっとも楽しそうじゃない。お勤めってことか。最近のお勤めは昔よりも大変なんだな。

 峰田は働きながら陰鬱な気持ちに包まれている。



——家に帰りたくない

——あいつの顔などみたくない

——俺の人生台無しだ



 俺は峰田の記憶に入りながら、怒りで震えてしまいそうだった。この男、嘘ついてやがる。奥さんを愛してなんかなかった。

 この男は、。峰田は楽しそうに話す他の人間を見て嫉妬をしていた。若いうちに妻を娶ったせいで、女遊びを楽しめないからだ。


——俺も、独身だったら


「峰田さん、お疲れ様です」

 その声の主は美しい女だった。桃色の服を着た女は峰田に微笑みかけると泥水のような黒い液体が入った湯呑みを峰田の前においた。

 先ほどまで嫉妬や黒い感情で支配されていた峰田の心がじんわりと甘い香りを漂わせる。

「ありがとう、佐々木さん」

「いいえ、そうだ。今日、飲み会があるんです。峰田さんもいらっしゃいますよね?」

「佐々木さんは?」

「峰田さんが行くなら行こうかな」

「じゃあ、決まりだ。仕事、早く終わらせてしまおうか」

「そうだ1時間後に、ランチ。いかがですか?」

「あぁ、もちろん。お店予約しておくよ」

 佐々木と呼ばれた女は去り際にそっと峰田の左手に触れた。峰田の心がぐっと熱っぽくなる。一方で、佐々木の方はどうだろうか。彼女も熱っぽい目で峰田を見つめていた。あぁ、この二人、恋仲だな。

 峰田は席を立つとカバンの中から桃色の風呂敷包みを取り出した。それを持って峰田は大きな部屋を出るとあろうことか便所へ向かった。便所の扉を閉めると風呂敷包みを開ける。風呂敷の中には小さな四角い箱。わっぱの弁当箱だ。峰田は風呂敷を服にはさみこんで弁当箱を開ける。弁当箱の中は厚焼き卵、肉団子のようなもの、野菜も豊富だ。俺が見たってわかる。うまそうだ。

 あろうことか、峰田は弁当を便所に向けて逆さまにひっくり返す。白い便器の中にぼちゃぼちゃとうまそうな食い物が落ち、水の中に沈んでいく。

 便所のレバーを捻って、弁当の中身が流れていくのを峰田はぼぅっと見守ると、何食わぬ顔で空の弁当箱を風呂敷に包み、便所を出て行った。



 妻の作った弁当を便所に流した峰田は、すぐにあの佐々木という女と待ち合わせる。さっきまでドス黒い感情に支配されていた峰田の感情が「喜び」に変わる。

「峰田さん、どこのお店予約してくれたんですか?」

「ちょっと遠くのイタリアン」

「遠く?」

「あぁ、会社の人がなかなか行けないくらい遠く」

 佐々木という女が峰田の方を見つめて笑う。峰田も幸せそうに彼女と目を合わせて笑う。距離が近い。妻の男のいる行動じゃない。

 佐々木という女もそうだ。所帯を持っている男に近づく距離じゃない。おそらくこいつらはその状況を楽しんでいるのだ。

 少し歩くと、二人は黒い車に乗る。乗った途端、二人は手を握り合う。佐々木は峰田の肩に頭を乗せ、峰田は佐々木の足を撫でる。

「ねぇ、峰田さん。いつ奥さんと別れてくれるの?」

「二人の時にその呼び方やめろよ、由美」

「いいじゃない、だってこっちの方が燃えるしさ。で、真奈美ちゃんのこといつ捨てるの? わかったでしょ? デキ婚迫ってくるようなあざとい子より、あたしみたいな方がいいって」

「あぁ、そのうち別れ話をするよ。真奈美は本当に何にもできないから俺に逆らえっこないさ」

「ほんと、私だったら智をもっと幸せにしてあげられるのに」

「俺も、家に帰って由美がいてくれたらどんなにいいか。うちの嫁はいつも暗い顔ばっかりして、陰気でさ。ほんと専業主婦なら家事くらいちゃんとしてほしいよ」

 ため息をつく峰田。佐々木は誇らしげな笑顔を浮かべている。

(こいつら最低だ。峰田の話じゃ、奥さんは子供を死産していたはずだ。頼れるものはこいつしかいないはずなのに……こんな)

「そうだ、今夜の飲み会のあと二人で抜け出しましょうよ」

 佐々木の誘いに峰田は表情を曇らせ、スマホを確認する。そこには「私の誕生日、プレゼント楽しみにしているね。たくさんあなたの好きなもの作って待ってるね。 真奈美」と書かれた画面が映されていた。確か、スマホでは手紙のやり取りができるんだった。

(そうか、峰田の奥さんが亡くなったのは彼女の誕生日だと言っていたな。そうか、この記憶の日、奥さんが亡くなったのか)

 峰田はスマホをしまうと佐々木に向かってにっこりと笑った。

「いいよ、今夜は好きなだけ付き合おう」

「やった、行きたいバーが合ってね。ここ、すごく綺麗でしょ? そうだ、その後一緒に夜景を見に行きましょう?」

「あぁ、そうしよう」

「真奈美cあんは大丈夫?」

「大丈夫。テキトーにはぐらかしておくよ」

 



「尾崎、尾崎」

 俺は肩を揺さぶられて、はっと夢から覚めたように現実へと戻ってきた。目の前には彼岸がいた。

「俺……」

「よかった。あなた、呼びかけても反応しないのだもの。尾崎、峰田さんを国道まで送ってちょうだい。続きは明日の朝だから」

 峰田はまだ泣きじゃくっていた。でも、俺は知っているのだ。この男は隠し事をしている。この涙は、嘘だ。

「わかった。国道までだな」

「えぇ、国道を少し東に行けば宿があります。尾崎が明るい道までお送りします。明日の朝、朝食を終えたら、もう一度こちらにお尋ねください」

 彼岸は立ち上がると部屋の入り口に立って俺たちにも出るように促した。峰田は涙を袖で拭うと「はい」と小さく返事をして膝をパキポキ鳴らしながら立ち上がった。俺は峰田を睨む。この男、嘘つきだ。奥さんを愛してなんかいなかった。むしろ、奥さんを邪魔に思っていた、彼女の愛を無碍にしていた。奥さんの死体を見つけた時、こいつはと焦っていたのだ。

 ぶん殴ってやろうか、それともこいつの女房に化けて懲らしめてやろうか。俺は男が玄関に腰掛けて靴を履く峰田の後ろ姿を見ながら想像する。この男は死んだ妻に醜態を晒して、泣きながら詫びて一生後悔すべきなのだ。

「それでは、ありがとうございました。また明日、お願いします」

 峰田は弱々しい男を装って頭を下げた。俺は峰田に対する軽蔑の気持ちに支配されていた。この男は最低だ。

「尾崎」

 彼岸が俺の心の中を見透かしたように、少し強い声色で言った。

「わかったよ。送ってくる」

 



 彼岸堂から国道までの小さな道をカンテラを持って歩く。小さな灯りで何度か峰田は転びそうになっていた。俺がここでこいつを驚かしてしまえば、こいつは明日ここにやってこない。だから、俺はぐっと気持ちを心の奥に押し殺す。

 いや、でも彼岸はこの男が嘘をついていると知っているのだろうか? 知るはずもない。俺は数百年あの社に住み、多くの人間の願いや呪いを受けた俺だからこいつの感情や記憶に入り込めたのだ。彼岸のような普通の人間にはできることではない。


「尾崎さん、といいましたね」

 峰田は、憎らしいほどに弱々しく言った。

「そうですが」

 俺は冷たく突き放す。

「彼岸さんとは恋仲で?」

「どうして」

「もしも、恋仲なら、その……いえ、なんでもありません」

 俺は思わず振り返って峰田を睨んでしまった。峰田は俯くと、すみませんとつぶやいた。

 人間とは愚かな生き物だ。かわいそうだと思って欲しい、慰めて欲しい。自分は悪くないと背中をさすって欲しい。そんなくだらないことのために心に嘘を吐き、騙し、傷つける。

「少なからず、俺は彼女を傷つけたりしませんよ」

 その言葉が俺に言える精一杯だった。彼岸と俺はたまたま出会っただけの仲だし、俺は隠し事だってしている。彼岸が俺を本当に「死神」だと思っているかは怪しいところだが。

 峰田は何も言わなかった。俺も、それ以上は話さなかった。国道には車一台走っていなかったが、森の中よりは明るい。少し先に明かりが見えるのはそこに宿があるからだ。

「あちらが宿です。うちの主人が既に話をつけているとのことです」

「ありがとうございます」

 峰田は深々とお辞儀をするとふらふらと宿の方へと向かっていった。


 

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