第2話 ママが溶けた

 次の日。

 ぼくは走って学校から帰ると、まっすぐ自分の部屋に向かった。

 もしかしてトラ丸が猫に戻っているかもしれない。そしたら、あのペットボトルの中じゃ息ができなくて死んでしまうと思ったのだ。

 けれど、やっぱり液体のままだった。学習机の上に置いたトラ丸は飲み残しのオレンジジュースにしか見えない。

(もうもとに戻らないのかな)

 またもや涙が込み上げてきた。

 その時、とつぜんドアが開けられた。

「まだそれ持ってたの?」

 ママだった。ぼくは手のひらにじんわりと汗がにじむのを感じた。

(まだって――昨日の今日じゃないか)

 ぼくはあきらめたようにうつむいた。ママは気分で言うことがころころ変わるのだ。そしてぼくは、そのすべてに従わなくてはならない。

 ママは部屋に入ってくると、勉強机の隣に仁王立ちになって見下ろしてきた。

「もう捨ててしまいなさい」

「……だってこれはトラ丸なんだよ」

「もうそれはトラちゃんじゃないの。別のものになってしまったのよ」

 ママが「よこしなさい」と伸ばしてきた手の隙間から、ぼくはペットボトルをひったくった。

 ママの額に青筋が浮かぶ。ぼくはペットボトルを抱きしめて、怯えたように身をすくめた。

「来週の算数テストで百点とるよ! そしたらトラ丸を捨てなくてもいいでしょ?」

 ぼくの髪をつかみかけていた手がぴたりととまった。そしてママは少し考えると、「そうだわ」と手を打った。

「あんたが百点を取り続けるかぎり、トラちゃんは捨てないであげる。ただし、一回でも百点を取りそこねたらすぐに捨てるからね」

 ぼくは唇を噛んだ。

(どうしてそんなひどいことを言うんだ)

 反抗的な態度に見えたのか、ママの目がつりあがった。

「なによ、不満なの? なら捨てるわ。かしなさい」

「いやだよ」

「ママの言うことが聞けないの!?」

 ママはペットボトルを奪った。そして部屋から出ていく。

「待って! ママの言うとおりでいいから! 捨てないで、お願い!!」

 ぼくはママを追った。ママはトイレのドアを叩きつけるよう開くと、ペットボトルのキャップをあけた。

「やめて、流さないで!!」

 ぼくはトイレから引き離そうと、ママの背中を思いっきり引っ張った。そのとたん、ママは仰向けに転び、ペットボトルからオレンジ色の液体が飛び出してママの顔にばしゃりとかかった。

(トラ丸がこぼれた!)

 ママは、口に入ったトラ丸を必死に吐き出している。その隙にペットボトルを奪い返した。

 ママは半身を起こして袖で顔をぐいっとぬぐった。

「なにすんだ!! このクソガキッ」

 血走った目でぼくを睨みつけると、げんこつを振り上げた。ぼくは恐ろしさのあまりペットボトルを抱いて目を伏せた。

 だが、拳は飛んでこなかった。

 静まり返ったトイレの個室で、「みぎゃおおおおう」と聞きなれた濁声だみごえが響いた。

 ぼくははっとして顔を上げた。

 目の前からママが消えていた。そのかわりに、丸々としたオレンジ色の巨猫が座ってこっちを見つめていた。

「……トラ丸?」

 巨猫は「みぎゃおおおおう」と返事をした。

 フローリングにはママが着ていた服が着ていたままのかたちで残されていた。カーディガンの胸元にはオレンジの染みが点々とついている。

(ママが……。ママがトラ丸になっちゃった)

 ぼくはぽかんと猫を見つめた。そして、ペットボトルに残ったオレンジの液体を見た。

(きっと、これが身体にかかったからだ。……でもどうしてママだけトラ丸になっちゃったんだろう。ぼくだって餌皿からペットボトルに移すときに手にいっぱいこぼれたのに)

 はっとした。ママの場合、液体は口にも入ったのだ。

(きっと飲んでしまったから、トラ丸になっちゃったんだ)

 もしそうなら、あのままトイレに流したらとんでもないことになったんじゃないだろうか。

 ぼくはしばらく呆然とトイレの床にへたりこんでいたが、ふいに腹の底からむくむくと喜びが湧きあがってきた。

 ぼくをしいたげるあの女はもういなくなったのだ。そしてかわりに、大事なトラ丸が戻ってきた。嬉しくて嬉しくて叫びたいほどだった。

「おいで、おいで。会いたかったよ……」

 ぼくはトラ丸に手を伸ばした。

 いつもなら撫でてとばかりに首を伸ばしてくるはずが――トラ丸の全身の毛がぶわっと逆立った。ぎょっとするやいなや、鋭い爪が手の甲に食い込んだ。引っかかれたのだ。

 ぼくは驚いて尻餅をついた。トラ丸は牙をむき出し、シャーッと威嚇した。

 信じられなかった。トラ丸がぼくを攻撃するなんて。

(……そうだ。どんなにいとしい姿でも、これはママなんだ)

 とたんに腹の底から怒りがかっと突き上げてきた。

(蹴っ飛ばしてやろうか。それとも、トイレの水に頭を突っ込んでやろうか)

 ぼくの殺気を感じたのか、トラ丸姿のママは耳をぺたりと伏せてじりじりと後ろに下がっていった。

 這いつくばって後じさりする姿を人間のママの姿に脳内変換する。

(いつも偉そうなくせに、なんてかっこ悪いんだ)

 優越感に体が震えた。

 ぼくはそっと屈みこみ、優しく声をかけた。

「ひどいことなんてしないよ。ぼくはママとは違うからね。でもいつ気が変わるかはわからないから、かわいがってもらうためにしっかりぼくに媚びるんだよ。ひっかくとか暴れるとか、許さないんだからね」

 ぼくはママを抱き上げた。見た目だけでなく、ずっしりとした重さもトラ丸そのものだった。

(こんなにかわいい姿になれるなんてママは幸せだ。人間のころよりずっといい)

 ぼくは耳の付け根の柔毛をつまみながら、ペットボトルの液体を見つめた。オレンジの液体はママのせいで底二センチほどに減ってしまっていた。

 無駄には使えない。

(――ケンちゃんにどうやって飲ませようか)

 ケンちゃんは同じクラスの男の子だ。勉強はあまりできないが体育がばつぐんにできて、背も高いし、顔も目鼻立ちがはっきりしていてかっこいい。

 そして、いじめっ子だった。なのでせっかくかっこいいのに女子には嫌われているし、先生にも目をつけられている。

 いつもケンカ腰なので友達もいない。だが、そこがよかった。ぼくもおなじように友達がいないけど、ケンちゃんの場合は孤高の狼のようでかっこよかった。

 ぼくはケンちゃんが欲しかった。猫にしてそばにおいておけたら、どんなにいいだろう。

 やはり猫は給食に混ぜるのが一番確実で手っ取り早い。クラスのみんなには申し訳ないけど、道連れになってもらうしかない。

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