第6話 ファンでいたい

 レイラは立ち尽くしている僕からスポンジを取って、無言で落書きを落とし始める。



「レイラさんがこんなことしなくていいです」


「…………」



 僕は言うけど、レイラは返答をしてくれず黙って続けていた。

 それ以上言葉を続けることができなくて、僕ももう一つスポンジを持ってきて一緒に落書きを落とすことにする。

 僕が上の方を落として、レイラはしゃがんで下の方を落としている。


 レイラがいるだけで、さっきまで少し惨めに感じていたことなんかどっかにいってしまっていた。

 なにか話さないとマズくない? と思うけど、なにを話せばいいのかがわからない。

 以前レイラが配信で言っていた。リアルイベントでファンと直接話せるとき、一分くらいしか時間がないから話すことをファンは決めてきていることが多いらしい。

 だけどいざ対面すると、話すことが真っ白になって飛んでしまうファンがけっこういるって。

 僕も同じように頭が真っ白になってしまっていて、明らかにこの場にそぐわないことを言っていた。



「……い、いつも配信見てます」


「うん。知ってるよ? 私のファンだもんね」



 会話した! レイラの視線はドアを見たままだけど話すことができた。

 しかも僕をファンだと言ってくれている。もしかしてこれが認知されるっていうことだろうか?

 僕がレイラのファンだって知ってもらえるだけで、舞い上がってしまうくらいうれしかった。



「……さっき、どうしてもっと言わなかったの?」


「え……」


「多少時間はかかるかもしれないけど、慰謝料しっかりした金額の請求できたと思うの。私が言うことじゃないかもしれないけど……」



 レイラはずっとドアに視線を向けたまま僕に訊いてきた。

 訊いてきたことの答えなんかわかりきっている。レイラが特別だから。



「そういうことをまったく考えなかったわけじゃないですよ。この落書きもそうですけど、早く今回のことから開放されて楽になりたいっていうのもありましたし。

 でも一番は、裁判とかで長い期間対立したくなかったです。

 僕もそうだし、きっとレイラさんも嫌な気持ちになると思います。お互い悪いことなんかしていないのに。

 レイラさんにそんな風に思ってほしくなかったし、僕自身レイラさんのファンでいたかったから」


「あ、ありがとう――。す、すごくうれしい」



 さっき思っていた話しておけばということができた。だけどそれももうすぐ終わる。

 落書きはもうほとんど落とすことができていた。



「手、洗わせてもらってもいい?」


「は、はい。どうぞ」



 レイラは手を洗い終えると、バッグからハンドクリームを出してケアをしていた。



「これすごくいいんだよ? 手出して」


「は、はい」



 明るめの髪の間から、エメラルドグリーンの瞳が僕の手に向く。

 左手で僕の左手を少しだけ支えて触れている。右手でハンドクリームを僕の手の甲に出してくれた。

 これ、明日僕は死ぬんじゃないだろうか?

 レイラがVtuberではなく、実写の配信者だったらドッキリの企画を疑っていたに違いない。



「お家、特定されちゃってたんだね」


「……そうみたいです」


「どこか避難ひなんできるところはある? 実家とか」


「大学で地方から出てきているんで」


「そっか。でもお家特定されちゃってると危ないと思うの。最近はVtuberのファンが逆上してっていう事件も起きてるし……聞いてる?」


「は、はい」



 話半分になっていたかもしれない。レイラと僕の家で話しているなんて現実感がなくて、呼ばれるまでレイラのことを見てしまっていた。

 見惚れるってこういうことを言うのかな?



「引っ越した方がいいと思う」


「……そこはお金の問題もあって、ちょっとむずかしいです」



 なにを隠そうこのアパート、都内でありながら六万円なのだ。こんな物件他ではお目にかかれないのではないだろうか。

 ボロいっていうのはあるけど、そこはどうしようもない。



「そうだよね。じゃぁ、しばらく私の家に避難ひなんして」


「――――――」



 言葉が出てこない。たぶん格好悪い顔をレイラに見せていたんじゃないかな。

 浜辺に打ち上げられた魚みたいに口をパクパクしていたと思う。



「――そ、そんにゃのできるわけないじゃないですか!?」



 あまり視線を合わせることがなかったレイラが僕の方を見て目を丸くしていた。

 思った以上に僕が早口になっていたから驚いたのかもしれない。

 僕自身早口になってたのには驚いたし、途中若干んでたし。



「どうして? 自分の家じゃないと不便って感じるとは思うけど、避難はした方がいいよ」


「いや、だって……」


「ホテルでもいいけど、きっとうちより不便に感じると思うよ? ん~、ビジネスだと長期滞在じゃ休めないよね。とりあえずで一ヶ月くらいは押さえたいところかな」



 スマホをいじってレイラがなにかを調べ始めていた。ビジネスホテルって七~八〇〇〇円くらい?

 一〇日だけでも七万円以上するじゃん。でも今の感じだとビジネスホテルなんて探してないっぽい。

 それを一ヶ月って、いったいいくらかかるのか。



「さっきも言ったんですが、ホテルに避難ひなんできるようなお金は――」


「心配しないで。私が取ってあげる」


「そんなの絶対無理です!」



 レイラが困ったような視線を向けてきた。でもそうでしょ? どう見積もっても一ヶ月なんて最低でも二十四万円以上かかりそう。

 そんな大金を出してもらうなんてできないでしょ。



「どっちか決めて? 私の家もホテルもどっちも嫌って言われても困っちゃう」



 困っているのは僕です。これって普通どうすればいいんですか?

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