『影の王』  マアザ・メンギステ

『影の王』

 マアザ・メンギステ  栗飯原文子 訳


 一九三五年、ムッソリーニ率いるイタリア軍の侵攻を許したエチオピア。皇帝ハイレ・セラシエはイギリスに亡命したというニュースが伝えられ、必死に闘うエチオピア人たちにも動揺が走る。希望を失いつつある部隊や人々の士気を高めるため、兵士を率いる貴族のキダネは皇帝そっくりの男を影武者にしたてるという奇策を思いつく。キダネの妻であるアスラルと、その使用人の少女ヒルトは影武者の護衛として戦闘に参加しイタリア軍と戦う。

 この二人の他にもこの戦争に参加していたエチオピア人女性はいたが、戦争が終わった後に彼女らのことは語られることなく、次第に人々の記憶から消え去っていった。


 本作の主要な筋だけを抜き出してまとめると、こういう内容になる。こうしてまとめると第二次エチオピア侵攻を題材にとった戦記物のようだが、本作の主人公にあたるのは両親を亡くし、貴族の使用人としてしか生きる術の無かった少女ヒルトである。戦争の記憶も薄れつつあった一九七四年、戦後に帰国し皇帝に復帰したハイレ・セラシエの権威は地に堕ち、帝政打倒の声がたかまる中、戦争を生き抜いたヒルトがある人物に出会うために首都の街を訪れた場面から始まる。

 そして再び一九三五年に戻り、少女時代のヒルトの物語が語られる。ヒルトは狩人の父から受け継いだ古い銃を隠し持っていたが、アスラルに見つかり、イタリア人と闘う為の武器を集めていたキダネに取り上げられてしまう。

 ヒルト以外の人物の視点からも物語は語られる、使用人だったヒルトの母を慕うキダネ、幼い頃にキダネと結婚させられた貴族階級出身の妻アステル、嫁ぎ先で寄る辺のなかったアステルを陰ながら支えていたがイタリア人が攻め込む前に村を去った料理人、皇帝のハイレ・セラシエ。名前のある者、ない者、様々な人間の声でそれぞれが見ていた世界が語られる。

 それはイタリア人サイドも同じである。イタリア人側で中心となるのが、一兵卒でカメラマンも兼ねていたユダヤ系イタリア人のエットレだ。ファシスト政権下でユダヤ系への締め付けが強まり、軍に居場所を求めたエットレだが、そのことで学者の父との間にわだかまりを抱えていた。しかし軍内部でも徐々にユダヤ系への風当たりが強まる様になり、エットレは生きる為に自分の出自を隠し、上官の命令のままエチオピア人捕虜の虐殺の場面を撮影し続けることになる。

 ヒルトとエットレは名も知らない者として、エチオピア人捕虜の収容所でほんのわずかにやりとりを交わす。戦争が遠くに去った一九七四年、ヒルトが会おうとしている相手がエットレである。

 わずかな接点しかないエチオピア人の少女とイタリアの青年との間に何があったのか、再会した二人はどんな言葉を交わすのか。そのあたりについては直接読んで確かめてもらいたい。


 「アイーダ」を引用しつつ語られるエチオピアの物語でもあり、戦争の物語でもあり、搾取される女性の物語でもあり、その中で反目しつつ連帯する物語でもある。様々な登場人物の視点や声から語られた物語は慣れるまではとっつきにくいが、中盤あたりから引き込まれるように読んでいた。どの人物の人生も単純化されておらず、いくつもの声が重なった物語の奥行はどこまでも深くて、読みごたえがあった。


 これは個人的なことだけど、エットレの父がオデッサのポグロムで家族を失っているというエピソードで、以前読んだ南木義隆『蝶と帝国』を思い出すなどしていた。ある本と別の本の共通点がみつかるとなんとなく嬉しいものですね、出来事そのものは全く嬉しいものではありませんが。


 

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