第37話
ビルの屋上の縁に立つと、この街を一望することができた。
これから向かう駅、ヨシノと出会った街角、喫茶店。そして、ヨシノが入院している病院も。
灰色の雲が空に蓋をしている。季節が逆戻りしたような冷たい風が吹きすさんで、人々はコートの襟をかき抱いて視線を落として足早に歩いている。
こんな天気でよかった。これからやることは少々目立つ。
ベルカが塗装の剥げた柵を乗り越える。屋上の縁に立った彼女の視界上に、俺は駅までの最短ルートを表示する。
▽行こう。
「うん」
ベルカが屋上を蹴る。隣のビルの給水塔のてっぺんに着地し、次の目標へ。大通りから見られないように、屋上から屋上へと浮島を渡るように海を目指す。
駅に近づくと、大きな病院が目の前に迫る。屋上に人の姿がいないことを確認し、ルートに設定。
病院の広い屋上に着地する。白いシーツのカーテンの中を駆け抜けながら、俺は思う。
ヨシノが入院しているのはきっとこの病院だ。彼女はいまどうしているだろうか。ベルカがやってこないことに落胆しているだろうか。それともまだ、期待を胸にベルカを待ちわびているのだろうか……
──知ったことか、そんなこと。
煩わしい思考を屋上に置き去り、空を切り裂く疾走感に身を任せた。
ターミナルの蒲鉾屋根に辿り着くと、裏手に回って地上に降りる。さも当然のような顔で関係者以外立ち入り禁止の扉をくぐり抜け、構内へ忍び込む。
何本も並ぶ線路を脇目に、俺たちは駅の片隅を目指す。束ねられた線路たちと一切交わることのない一本だけの線路を目指して、歩を進める。
海は荒れていた。海に突き出た終着駅のプラットホームには岸壁に砕けた白波が時折雪のように降り注いでくる。列車の姿はまだない。
▽おかしい。もうホームに入ってておかしくないはずだ……
「天気が悪いからかな……」
普段なら、列車の一、二分の遅れなど気にもならないが、今日ばかりは話が別だ。背後の道が徐々に崩れていくような焦燥感にせっつかれ、俺は索敵範囲を最大レベルに引き上げる。
▽いた。クソ……まだ五分以上かかるぞ……
海上は風が強いのだろう。レーダー上の列車を示す点は怒鳴りつけたくなるほどのろい。
「ユーリ」
ベルカの怯えた声に、引き戻される。
駅の方から、十人以上の男たちがやって来る。黒い詰め襟、警官だ。
▽チクショウ……!
警官は全員が帯刀し、拳銃を吊っている者もいた。上官らしき一人が、声を張り上げる。
「貴様にはスパイ容疑がかけられている。ご同行願おう」
海上に列車のライトが見え始める。
▽時間を稼ぐぞ。
「ぼくはただの旅人です。旅券もあります」
ベルカが取り出した旅券を警官は鼻で笑う。
「だからなんだ? それで何を証明したつもりだ?」
「緩衝地帯と教会の協定で、旅人には教会領土を自由に旅する権利が認められているはずです」
「だが協定にはこうも書いてある。「ただし、その旅人が社会秩序を脅かす存在である可能性を認めた場合、治安当局は旅人を拘束・尋問する権利を有する」と」
「ぼくはそんな存在じゃありません」
「それは我々が判断することだ」
警官たちがゆっくりと包囲を狭めていく。列車が減速を始める。
列車が停車しても、すぐには出発しない。乗るなら出発直前だ。それまで、なんとかこの間合いを維持しなくてはならない。
どうする、奥の手を使うか? ベルカがただの少女ではないこと、警官たちには手の余る存在であることを明かすか? だがそれは、ここを戦場にする可能性がある。それは出来れば避けたい。
「おい、なんだ君は。下がりなさい! ……何だそれは!?」
突然、警官の一人が困惑の声を上げて身を引いた。一人、また一人と警官が振り返り、ぎょっとした顔で道を開けていく。警官たちの間をその少女は悠々とこちらへと歩んでくる。
「……ヨシノ」
彼女は、胸に箱を抱えていた。大きめの本を二冊重ねた程度の大きさで、テープでグルグル巻きにされている。
角からワイヤーが一本生えていて、末端に付いたリングに、ヨシノの指が絡められている。
警官たちの間を抜けると、ヨシノは振り返って警官に薄い笑みを振り撒く。
「邪魔したら、自爆するから」
リングに絡めた指を引っ張る。たるんでいたワイヤーが徐々にピンと張っていく。
「やめろ! 落ち着きなさい!」
警官が叫ぶ。
「落ち着いてるし、そんな大声じゃなくても聞こえるよ」
あなたが落ち着けと言わんばかりのヨシノの声音に、警官が唾を飲む。
「ありがとうお巡りさん。ベルカをここに縛り付けてくれて」
にこり、と微笑みヨシノが礼を述べると同時、無人運転の列車がホームに滑り込む。
甲高いブレーキの軋みに顔を歪めることすら出来ず、誰もが凍り付いている。
列車が停車する。ベルが響いてドアが開く。
「ヨシノ、ぼくはきみを殺せない」
ヨシノの背中に、ベルカが言う。ヨシノは微動だにせず、こちらを振り返ることもなく答える。
「無駄だよ、ベルカ」
すっ、と息を吸い込み、ヨシノが声を張り上げる。
「わたしはこの街が大嫌い。あなたたちも大嫌い。だからみんな殺してやる。わたしが死ぬ前に、殺せる限り、壊せる限り、あなたたちの大切な物なにもかも台無しにしてやる」
突然ヨシノの手が伸びる。ベルカが被っていたニットを鷲掴みにして、乱暴に奪い取る。
「あっ……!」
俺の姿が、人造妖精の証である獣の耳が、露わになる。警官たちに緊張が走る。
「この子は人造妖精だ。あなたたちがどう足掻いたって、彼女の牙からは逃れられない。みんなみんな殺してやる、ぶっ殺してやる」
ヨシノが叫ぶ。警官たちの瞳に動揺と敵意が広がっていく。
▽デタラメ言いやがって!
「やめて……! なんでこんなこと」
「『なんで』? 決まってるでしょ」
鼻で笑い、ヨシノが警官たちへ一歩踏み出す。警官たちがたじろぐ。一歩、また一歩とベルカから離れ、警官との距離を詰める。
ベルカの膝が震えている。ヨシノが遠ざかっていくほどに、震えは酷くなり、呼吸が荒くなる。
放っておけあんなやつ。そう叫んで、ヨシノを無視して列車に飛び乗れば全てが終わる。なのに、俺は声を上げられない。ベルカは動けない。
ヨシノと警官たちとの距離はあと十歩にまで縮まっていた。固まっていた警官が、ついに声を上げる。
「止まれ! それ以上近づくと撃つぞ!」
腰の拳銃を抜いて、警官はヨシノを照準する。
一発で確実に動きを止めるために、頭部を狙って。
ヨシノが歩みを止める。少しだけ首を捻り、ベルカに問う。
「どうするのベルカ、やるの? やらないの?」
ベルカは微かに口を開き、言葉になりきらない吐息を零す。返事を寄越さないベルカに、ヨシノは舌打ちをした。それだけだった。
ヨシノが、更に歩を進める。警官の引き金にかかった指に力が伝わる。
そこに突然、男の声が響き渡った。
「ヨシノさん!」
ヨシノが立ち止まり、警官たちが動きを止める。人垣をかき分けあらわれたハルゼイが、肩で息をしながら青ざめた顔でヨシノに問う。
「本気、なんですか」
ヨシノはハルゼイを睨み、嘲笑うよう。
「もちろん」
「させません……!」
「なにが?」
ハルゼイのつぶやきに、ヨシノが苛立たしげに眉をひそめる。
「僕は、あなたを死なせません……! どうかお願いです、まだ間に合います。こちらへ、僕の所へ戻って来て下さい!」
その言葉に対するヨシノの反応は、拒絶だった。
「うるさいなぁ……!!」
わずらわしい虫を追い払うように、ヨシノが髪を震わせ首を振る。
その動きが、警官にはワイヤーを引き抜く予備動作に見えたのかもしれない。理由は何であれ、その瞬間、はち切れそうな緊張の風船は呆気なく弾けた。
ぱん。
思った以上にちっぽけな銃声が弾け、ヨシノが肩を突き飛ばされたように仰け反る。
ハルゼイの表情が凍り付く、警官が次々と銃を抜く、そして、ベルカが地面を蹴った。
劣化したコンクリートを靴底で抉り、一歩でヨシノに辿り着く。崩れ落ちる彼女の身体を抱きかかえて即座に飛び退く。
列車のベルが鳴る。背後から警官たちが追いかけてくる。ドアが閉まっていく。地面を蹴る。もっと速く。
閉まりかけのドアに飛び込み、列車内で反転、ブレーキをかける。
▽伏せろッ!!
ヨシノを抱いたままベルカが床に身を投げる。銃声がいくつも弾け、ガラスに小さな穴が空き、銃弾が飛び抜ける笛のような音が掠める。
床下でモーターが唸る。がたん、と車体が揺れて、列車が走り出す。ヨシノを床に横たえたまま、ベルカがそっと顔を上げる。
銃を構えたまま列車に近寄ってくる警官と、その背後で腕を振り上げる主治医と目が合った。
主治医が何かを投げた。緩い放物線を描いて飛んできたそれは、ガラスを派手にぶち割って車内に転がり込んできた。
ベルカは反射的にヨシノに覆い被さる。
▽安心しろ、手榴弾じゃない。
待てども襲ってこない爆風に、ベルカが怪訝な顔を上げる。そして、目の前に転がっているものに首を傾げる。
「……時計?」
目を瞬いたベルカの腕の中で、ヨシノが呻き声を上げた。ベルカがハッとしてヨシノの顔を覗き込む。
「ヨシノ! 大丈夫!?」
「すごく痛い……」
ヨシノの左肩に、血の滲みが浮いていた。
▽擦っただけだな。動脈も無事だ、問題ない。
「大丈夫だよヨシノ、擦っただけみたいだから」
「擦っただけ? それでこんなに痛いの……」
信じられないと首を振るヨシノを座席に座らせ、ベルカは自分のバックパックを開く。
「とりあえず、それは捨てて」
ベルカがヨシノが腕に抱いたままの箱を指さす。
「ああ、これね」
ヨシノが小さく笑って、ワイヤーを引っ張る。
「ちょっと!」
「大丈夫だよ」
つまらなそうにヨシノはワイヤーを引っ張り続ける。ワイヤーがテープを引き裂いて、箱の中身を露わにしていく。
中身はただの本だった。爆薬も信管も、殺傷力を高める鉄くずも入っていない。
「ほんとに爆弾なんて作れるわけないでしょ。わたしができるのは薬をくすねるのが関の山」
ベルカはくたびれた溜息をついて、包帯を取り出す。
「……ほら、腕出して」
ヨシノは腕を下ろしたまま首を振った。
「いらない」
「いらないって、何が……」
「手当なんて要らない」
「何言ってるの。かすり傷でも、ちゃんと手当てしないと」
「これから死ぬ人間に、手当なんて必要ないでしょ」
「ヨシノ……」
眉を下げるベルカに、ヨシノは痛みに顔をしかめながら勝ち誇った目を向ける。
「逃げようとしたね、ベルカ。でもおあいにく様、わたしがそう簡単にベルカを手放すと思ったら大間違い」
「逃げようとなんて……ぼくは、ただ……」
「別に責めてるわけじゃないよ」
言葉を探してうつむくベルカに、ヨシノは窓の外を眺めながら言う。
強風のため徐行運転する列車の車窓には、灰色の荒れる海と空が広がっている。雨粒が時折窓ガラスを叩く。
「ただ、これが勝負ならベルカは負けたの。勝ったのはわたし」
窓の外から視線を戻し、ヨシノは唇の端を持ち上げる。
ヨシノは上着のポケットから、眼鏡ケースほどの箱を取り出した。蓋を開けると、中身が見えるように俺たちの前に差し出した。
箱には、赤と青、二色の注射器が納められていた。
「ここに、二つの薬がある」
ヨシノはまず赤い注射器を示し、
「一つは、猛毒。打てば数分で死に至る」
「もう一つは、」
今度は青い注射器。
「ただの睡眠薬。強力だけど、これだけで死ぬことはない。……どういう意味か、解るよね?」
ヨシノが、ベルカの顔を覗き込む。
「わたしも、痛いのは嫌だからね。それに、ベルカも喰い殺す時に相手と目が合ったら流石に気が引けるでしょ?」
とっておきの名案を披露するように、ヨシノは微笑む。
「ベルカは、どっちを使ってほしい?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます