第3話

 剣闘士部屋というのは、地下牢のような場所にある。闘技場の地下に広がるバカでかい空間に百人を超える奴隷が雑魚寝していて、そこに個人のプライバシーなんてものはない。アリアたち四人の部屋というのはそこの西端にある、周囲からは壁で隔離された場所。部屋と言っても乱雑に二段ベッドが二台置いてあるだけで、夜中にネズミが走り回るなんて日常茶飯事だ。ドアがあったらしい跡はあるけれどドアはなく、ここに移動する前や移動した直後なんかはよく悪戯しに男たちが来たものだが、今ではもうここに近づく者はいない。

 いつ、だれが始めたのかはわからないが、ちゃんとした当番制で、食事の配膳やトイレの掃除など割り振られている。

 いつもと同じ、半分腐ったような具材が入ったスープを飲んでいるときも、暇をつぶして部屋の外の仲間たちと駄弁っているときも、ベッドに寝転んで低い天井を見上げているときも、四人の間にはどこか重い空気がよどんでいた。

 夜、時計がないので正確な時間はわからないけれど、けっこう更けたかな、というとき。ぱっちりと閉まる気配のないまぶたに少々呆れながら、アリアは壁を見つめていた。

 1-1-1-1というのは珍しい形だ。闘技というのは1-1《ワンブイ》、すなわち一対一が主流で、1-1-1《スリーワンブイ》、サラの言う三つ巴の形が時々見られる程度。アリア自身は経験がないが、ユーリやヒカはB-P、獣対人の闘技もやったことがあるらしい。

 『花の剣闘士』四人を、1-1-1-1の形で闘技に参加させる。

 生き残るのは、たった一人。他三人は、死ぬ。

 死ぬことに興味はないので、そこはどうでもいい。アリアがずっと気になっているのは、誰が勝ち残るか、ということだった。

 やっぱりヒカだろうか。ヒカのすばしっこさにワタワタしているうちに負ける気がする。いや、そういうことならサラも強い。瞬殺ができるということは、技術も速さも無駄のない身のこなしも全てが高いレベルで保持しているということ。まだまだ粗削りな自分の剣で太刀打ちできるだろうか。二振りの剣に振り回されている相手ならばそれほど苦戦はしないが、二振りの剣を自分の一部として振り回す相手は厄介だ。例えばユーリみたいな。注意を払うべきポイントが増えるのは、なかなかに疲れる。

 考えれば考えるほど楽しくなって、アリアは無意識に口角を上げた。ごそごそとベッドの下から動く音がして、あ、ユーリもまだ起きているのかな、と下をのぞく。予想通り、ユーリの青い瞳が見えた。

「ユーリ」

「……アリアか」

 目が合ってふっと笑う。

「まだ寝てなかったんだな」

「ユーリもね」

「……」

「ねぇ、ユーリはさ、明日の闘技で誰が勝つと思う?」

 ユーリは悲しそうに眉をひそめた。

「オレはアリアだと思うな」

「えっ、どうして?」

「だってこの中で一番強いのはアリアだろ」

 突然出てきた自分の名前に目をぱちくりさせる。

「なんで? サラもヒカも……ユーリも、ものすごく強いじゃん」

「だけどそれ以上に、アリアは強いよ。『花の剣闘士』なんて言われてるけど、実際に戦えばアリアが頭ひとつ分飛び抜けてる」

 払い戻し率は剣闘士によって相場が決まっている。弱い剣闘士ほど高く、強い剣闘士ほど低い。すでに二年近く勝利を続けている四人の払い戻し率は、大体三倍から四倍あたりだが今回の1-1-1-1では少し違った。

 サラが五倍。ユーリが六倍。ヒカが四倍。アリアが三倍。

 払い戻し率を見れば、相手がどれほど強いのかがわかって、観客がどれほど自分の力を評価しているのかわかる。そう教えてくれたのはヒカだった。

 確か、今日の闘技はシュヴァゲイルが五倍、アリアが三倍だった気がする。

「うーん……そうなのかな」

「ボクも、アリアに一票」

 隣の二段ベッドから声がした。ヒカが、こちらを見て微笑んでいる。

「私も賭けるならアリアかな」

 その下、サラも目を開けていた。

「もう……なんで私ばっかり?」

「だってボク、『火炎』に勝てる気がしないよぉ」

「みんな自分を過小評価しすぎでしょ」

「ううん、違うよ。客観的に見てアリアに一番可能性があるってこと」

 ユーリがその理由を教えてくれる。

「アリアは、何年闘技場にいる?」

「生まれたのがここだから……えーっと、十五、六、七年くらい?」

 残念ながらアリアは年を数えていない。十五歳のヒカ、十六歳のサラ、十七歳のユーリと並んで不自然は感じないので、そのあたりだろうとは思うのだが。

 奴隷だった両親は、闘技場の地下、すなわちここで出会い、アリアを宿したらしい。父も母もすぐに亡くなったらしく、記憶には誰か優しい人が抱きしめてくれた温もりがかすかに残っているだけだ。

 ひとりになっても、まわりの剣闘士たちが色んなことを教えてくれた。その仲間、全員がいなくなって、アリアがここの最古参になったのはいつだっただろうか。

 思い出せないほど昔であることだけが確実で、なんだか無償に寂しくなる。

「その時点でキャリアが違うんだよ」

「え……?」

 ユーリが突き放すように言った。

「一瞬間の判断、動き、身のこなし、避け。その全部が、アリアはオレたちよりコンマ一秒早い。そのコンマ一秒が、実力が拮抗している闘技だったら大きな差になるって知ってるだろ? だから勝つのはアリアだよ」

 困ったように笑うユーリ。隣を見るとヒカもサラも、同じように笑っていた。

 そこで、つながる。






 私は明日、みんなを殺さなきゃいけない。 

 みんな、死んでしまうのだ。






「……っ」

「アリア?」

 死は知っている。今まで何度も何度も闘技場で手を赤に染めてきたから。今生きていることがその証明だ。

 血を吹き出して、倒れて、ぴくりとも動かなくなる。その後は知らないけれど、もう帰ってくることがないということだけが確実。

 それを自覚した瞬間、手が震えた。

「……」

「別に深く考えなくていいと思うけどねぇ」

 絶句したアリアに、ぽつりと言葉を零したのはヒカだ。

「殺さなきゃ殺される。そんなの当然だし、それから逃げる方法もないんだしさぁ」

 いつもと同じ優しげに垂れた目の中の、黄色い瞳がアリアを写す。

「ヒカはさ……ユーリも、サラも……怖くないの?」

「怖いけど……逃げられないよ」

 サラがベッドから起き上がる。闇に溶け込んだ真っ黒な目が潤んでいたのには気づかないフリをした。

「……オレたちは奴隷だ」

 ユーリの声だった。

「オレたちに決定権はない。殺し合えと命令されたら、殺し合うしか道はない。でも、だからって手加減はしないよ」

 語尾が震える。

「オレは生きたい。死にたくない。一日だけでも長く生きていたい!」

 だからアリア、サラ、ヒカ。覚悟しとけよ。

 ユーリはそれきり毛布をかぶって、一言も発さなかった。

「死にたくない、かぁ……」

 ベッドの縁に腰掛けたヒカは、鉄格子から届く月光を浴びて呟く。

「そりゃそうだよね、死にたくない、よねぇ……」

「ヒカ……」

「ごめんアリア、ボクも一緒だぁ。さっきの言葉は忘れて。明日の闘技は」

 ボクが勝つ。ボクがみんなを殺すよ。

 ヒカはアリアに背中を向けて、横になった。

 死ぬことが怖いかどうか、なんてわからない。もしかしたら自分は死に対する感覚がずいぶん鈍いのかな、なんてことを考えながら、ベッドからサラを見下ろした。

 サラの瞳も、揺れていない。

「決まりだね」

 サラがぽつりと言った。

「ねぇ、サラはさ」

「うん?」

「何が一番怖い?」

「……一番って言われると、難しいな」

「じゃあ、いくつでもいいよ」

「いいの?」

 うーん、と少し考える素振り。そのひとつひとつが明日には失われてしまうのかも、なんて思うと、胸がぐしゃぐしゃに搔き乱されるような気持ちだ。

 叫びたくなる衝動を堪える。

「死ぬことも怖いけど……みんなと一緒にいられなくなっちゃうのも、同じくらい怖いかな。たぶん、ユーリもヒカも同じことを考えていると思うけどね」

 一瞬だけ明るくなったサラの表情も、すぐに曇る。

「だけどユーリの言うことも正しい。私たちは奴隷よ。支配人の命令に抗う力は、持っていないわ……だから」

 また明日ね。

 サラも毛布にくるまって、ベッドに寝転んだ。

 アリアはしばらく、ベッドの上で膝を抱えたまま動かなかった。

 ユーリもヒカもサラも、闘う気だ……自分の本当の気持ちを捨てて。三人の揺れない瞳を見ていたら、明日のことを考えるだけで手が震える自分のことが、とても小さく見える。みんなもう、受け入れているのに。仲間を殺すことも、仲間に殺されることも。

 夜が更けていき、朝が近づく。その空気を感じながらも、アリアは長いこと微動だにしなかった。

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