第6話 時任家の食卓事情 前編

 ピピピピピピピピピッ! ピピピピピピピピピピッ!! ピピピピピピピピピピピ――バンッ!!


「うう……あと……五分……いや、十分……寝よ……」


 俺の安眠を妨げる悪しき刺客――目覚まし時計の頭をはたいて黙らせる。あと少しだけでいいから眠らせてくれ。

 意識がまどろんでいくと遠くから俺を呼ぶ声が聞こえてきた……様な気がした。


「先輩……先輩……起きて。学校に遅刻しちゃう……起きない、どうしよう……寝顔可愛い……キスしてまおうかなぁ……」


 ……ん? 今何て言った? きす……きす……奇数? いや……『キス』って聞こえたぞ!

 微かに聞こえた『キス』という単語に反応し意識が急速に覚醒する。両目を開けると俺の顔の近くに伊吹の顔があった。

 薄目を開けた彼女とバッチリ目が合うと一瞬で彼女は赤面し後ずさりする。ちくしょう、朝から可愛いじゃないか。


「あっ、いや……これは……これは違うんじゃけぇ」


「……おはよう。違うと言われても俺には何のことか分からないよ。――取りあえず、もう一回目を閉じるんで続きをお願いしゃす!」


 煽ると顔から火が出そうになるぐらい真っ赤になる伊吹。そうですよ、俺には君が寝込みを襲おうとした声が聞こえていましたよ。

 それにしても我ながら失策だ。あのまま寝たふりをしておけばキスされていたというのに、馬鹿正直に目を開けてしまった。


「うう……先輩、意地悪じゃけん。と、とにかく早く起きてぇ。朝ご飯冷めてしまうけぇ」


「名残惜しいけど仕方ないか。よーし、それじゃ起きるとしますかね」


 まるで夢のような朝だ。漫画などでは幼なじみが朝起こしに来てくれるという展開は鉄板だが、俺には異性の幼なじみはいないので、そんな展開になる可能性はゼロだ。

 その代わりに昨日できたばかりの彼女が俺を起こしに来てくれるとか最高かよ。


 幸福を噛み締めつつベッドから起き上がると伊吹の視線が俺の下半身に向けられ両手で顔を隠してしまう。


「ふぁっ!? 先輩、ウチまだ心の準備ができとらんけぇ。それはまだ早すぎる……!」


 そう言われて自分の下半身に視線を向けると、朝から元気になっていたご立派様がいた。我ながら元気はつらつな相棒の姿を見て感嘆の声が漏れてしまう。

 三十歳の時のくたびれたヤツと同一人物……いや同一珍物とは思えないぐらいアグレッシブだ。


「先輩、はよそれしまってぇ。ウチにはまだそれは……早すぎるぅ」


「いや、しまえと言われても一応これでしまっている状態な訳で。取りあえず、こいつが冷静になるまで今しばらくご歓談ください」


「うう……そんなゆっくりなんてできんよぅ……ドキドキするぅ」


 さすがにこれ以上やったらセクハラで訴えられかねない。この辺りが宴もたけなわといったとこだろう。

 しかし俺は見たぞ。恥ずかしがっているにもかかわらず、伊吹が顔を覆う指の隙間からバッチリ俺の下半身を見ていた事を。

 この子もしかしたら初心うぶではあるけど結構スケベかもしれん。そう考えたら……ヤバッ、落ち着くどころかますます元気になってきた……。


 俺の相棒が落ち着きを取り戻すまでしばらくかかった。これが若さか……。

 制服に着替えてリビングに向かうと皆朝食を食べている途中だった。家族の中に交じって伊吹も一緒に朝ご飯を食べている。


「おはよう、翔。起きてくるのが遅いから先に食べ始めてたわよ」


「おはよう、母さん。ちょっと自分の若さ故の猛りを鎮めるのに四苦八苦していてね……」


「馬鹿言ってないで早く食べちゃいなさい」


 自分の席に座って家族に挨拶をすると、用意されていた納豆をご飯に掛けて混ぜる。

 他には味噌汁、だし巻き卵、昨晩の煮物の残り、カブときゅうりの漬物が並んでいて朝からかなりボリュームがある。

 会社勤めをしている時はギリギリまで寝ていたので朝食なんてまともに摂っていなかった。十秒で栄養補給できるゼリーを飲んで出社していたのでそれとの差が凄い。


 俺は母が作ってくれただし巻き卵が好きだった。俺が中学三年の頃に母の料理の腕前が劇的にアップし時任家の食卓は華やいでいた。

 けれど世の中繁栄があれば衰退もある訳で俺が高校二年、そう丁度今の時期に何故か母の料理に対する情熱は薄れていった。

 俺も父も妹も料理なんて大して出来なかったのでうちの食卓事情は……わびしいものになった。


 何故そのような状況に至ったのかは不明だ。当時、心なしか家族の俺を見る目が冷ややかだったような気がしたが、それと食事には何の関係もないと思うのできっと気のせいだろう。

 

「母さん……いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう」


「どうしたの翔、いきなりそんな事言って……変な夢でも見た? それとも身体の調子悪い?」


 ……これだよ。俺が誰かを褒めると体調不良扱いされる。そんなに俺って冷徹な男だったのだろうか? いや、そんな事はこの際どうでもいい。

 母が料理に対する情熱を失ったのは、恐らく家族である俺たちが母の料理を褒めなかったからだ。

 作ってもらって当たり前という認識がそもそも間違っていたんだ。


 一人暮らしを始めてから気が付いたのだが、ご飯を用意するのは非常に面倒だ。一人分だけ作るのもめんどいし、大人数の分を作るのだってそりゃ大変だ。

 一品作るだけでもそんな状況なのに、このテーブルには複数の料理が並んでいる。朝からこれだけの準備をするのはさぞ大変だろう。

 しかもこれほとんど毎日やってんだぞ。並大抵の精神力では継続することは不可能だ。


 ――だから俺は考えた。母の料理を褒めてモチベーションを継続する作戦。そうすればきっと母さんは料理への情熱を失わずに済む……はずだ。


「俺さ、母さんが作ってくれるだし巻き卵が大好物なんだよね。ふんわりした食感と甘みのある味が最高なんだ。それに煮物も美味しいよ。煮物ってさ、食卓の中でメインのおかずの裏に隠れがちなイメージがあるけど、色んな食材が入っていて名バイプレイヤーみたいな存在なんだよね」


「お兄ちゃん、本当に大丈夫? いつからそんな評論家気取りみたいな事を言うようになったの? とうとう頭がパーになった?」


「うるさい、黙っていろ妹よ。俺は今、この家の幸せ食卓事情の為に色々考えてんだよ! いいか、いつも食卓に当たり前のようにいる煮物だってな、スーパーで買ったら少量でもそれなりの値段になるんだぞ。自分で作るにしたって結構時間もかかるし大変なんだよ。うちの煮物は干し椎茸から出汁をとって味に深みが出ている。だからこんなに美味しいんだよ。――そうだよね、母さん!」


 少々大げさに言ってしまった感が拭えないが、事実うちの煮物は美味しいと思う。 

 若かりし頃はあまり気にしていなかったが、大人になってからこういう和食が恋しくなった。


「そう……翔はうちのだし巻き卵と煮物が好きなのね」


 落ち着いた声色で言うと母さんは箸を置いて口元で両手を組む某指令のようなポーズを取った。

 その視線は俺に向けられ真剣な眼差しをしている。こんな母の姿は見たことがない。


「そうだけど、母さんの手料理はどれも美味しいよ。昨日の夕飯に出てきた唐揚げも味がしっかりしててご飯が止まらなかったし」


「実はそれ私が作ったんじゃないのよ」


「……はい?」


 え? あれ? ちょっと待って……ええええええええええ!? それってどういうことだ。母さんが作ったんじゃないとしたら誰が作ったっていうんだ?

 俺は一体どこの誰が作ったご飯を美味い美味いと言って食べていたんだ!? こんな事実は初めて知ったぞ!

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