第2話「完全に恋する乙女の顔だったらしい」

 荒木に甘えられ、その翌日の朝。


 母親と妹に見送られながら家を出ると、すぐ近くのバス停からバスの中に乗り込んだ。

 営業所が近いのでまだほとんど誰も乗っていない。

 俺は一番後ろから一つ前の席に詰めて座り、いつもの様に英単語帳を開いた。


 バスでの通学時間はだいたい四十分ほど。

 正直なところこれだけの時間があれば数学の演習でもしたいのだが、生憎とバスの中では問題集を開くのに満足なスペースがない。


 昨日は夜眠りにつくその時までどこか頭がふわふわした様な感覚があり、今日の俺はまともに勉強が出来るのかとかなり心配だったのだが、朝起きてみればそのような感覚は綺麗さっぱり消え去っていて安心した。


「content…内容…」


 一人で英単語と日本語の意味をぶつぶつと呟きながらバスに揺られること約二十分。

 あるバス停で大量の高校生が入ってきた。


 ここのバス停から急に人が増えるから嫌なんだ…まあ仕方がないのだが。

 

 外を見てみるとうちの家のある住宅街からはかなり離れた街中で、出勤中のサラリーマンやよくわからない格好をした老人、なぜこんな朝から一人でいるのか心配になる小さな子どもなど見ていて飽きないほど大量の人間がいる。


 おっと、いけない。この数分を無駄にするのは惜しい。


 俺はすぐさま意識を単語帳へと向け直した。


 …あ、今日俺は弁当をちゃんと取って来ただろうか。


 勉強を再開してすぐに俺は単語帳を脇に挟み、通学バッグの中を漁る。


 しまった、忘れてきてしまった。


 これはかなりの痛手である。本来であればタダで食べられる昼食を、わざわざ自分の財布を軽くして食べなければならないのだから。

 食堂のメニューは普通に外食をするのに比べれば値段に天と地ほどの差があるが、それでも勿体無いものは勿体無い。


 それに何より、母親に申し訳ない。

 我が家は父親が今単身赴任で遠くの県まで出ているため、母親と妹しか家にはいない。そして、母親は普通に働いている。

 その中で毎朝俺に朝食と弁当を用意してくれているのだ。

 

 …いや待てよ、別に学校で昼食を食べる必要はないじゃないか。なんとか昼は腹が鳴るのを我慢して、家に帰ってから弁当を食べればいい。


 今日のお昼事情が頭の中で完結したので、ほんの少しの達成感と共に単語帳を再び開く。

 その時…


「おはよう青波!…って、今日も単語帳かよ。よく飽きねえな」

「おはよう。単語は飽きる飽きないではない。必要性があるから覚えているだけ…食事と同じだ」

「それはなんか違う気するけど…」


 突然声をかけてきた、茶髪で無駄にスタイルと顔が良く、いかにも軽薄そうなこの男は如月(きさらぎ)悠里(ゆうり)という。


 保育園の頃から顔見知りの幼馴染の様なもので、毎回遭遇する度に何かと絡んでくる面倒なやつだ。


「それよりさあ〜、聞いてくれよ!」

「断る」

「マジかお前。流石の俺も話すらさせてもらえないのは初めてだ。…おもしれー男」

「その逆少女漫画のようなノリをやめろ」


 何が面白かったのか、ケラケラと楽しそうに笑う如月を横目に単語帳に目を通す。


「rubbish」

「ゴミ!?な、何もそこまで言わなくてもよくね?」

「は?いや単語帳を見てるだけでお前に言ったのではない」

「紛らわしいなお前」


 くそ、このうるさい男のせいでなかなか暗記が捗らない。これなら話をさせて落ち着かせたほうが早いだろう。


「聞いてやるから早く話せ」

「あーだこーだ言いつつ聞いてくれるとこ好き」

「おい、最近の人間には聴覚がないのか?早く話せと言っているんだ」

「ったくせっかちだなあ。うちの生徒会長の話なんだけどさ」


 生徒会長と耳にした途端、ドキッと胸が跳ねる。


「生徒会室から顔を真っ赤にして小走りしながら帰ってたらしい」

「…それがなんだ。体調でも悪かったんじゃないのか。わざわざ話すことでもないだろう?」

「いやそれがさ、この話は藍里(あいり)に聞いたんだけど、藍里曰く完全に恋する乙女の顔をだったらしい」

「はあ…よくもまあそんな主観だけの話を聞いて邪推できるな。あの恋愛脳に見せればどんな赤面も恋だろうが」


 藍里というのはこれまた俺と如月との幼馴染だ。姓は斎藤(さいとう)。


 いやそれにしても危なかった。どうやら昨日、荒木が生徒会室から帰るのを目撃されたらしい。もしこれが俺も一緒になんてものだったら一貫の終わりだった。こいつと斎藤なんて口の軽い人間に知られていい情報ではない。俺はともかく、あちらの評判にどれだけの傷が付くか想像もできない。


「まあそう言われちゃ確かに…でもこういう時の藍里の勘って異様に当たるよな。中学の頃から」

「たまたまに決まっているだろう。そういう偶然性の高いものほど実現した記憶は残るものだ」


 …実際俺にもあいつの勘が外れていた記憶がないが。

 まあそれも今回までの連勝記録だったというわけだ。


「でも、本当に当たってたら面白いよな」

「あのなあ、別に生徒会長の恋愛事情なんて俺たちが横から突くようなものではないだろうが。流石に失礼だぞ」

「う、そうだな…気をつける」


 自分の非を認められのは間違いなくこいつの美点だろう。


『次は天蘭高校前、天蘭高校前です』


 そうこう話しているうちに、もうすぐ学校に着く。さ、今日も真面目に勉学に励むとしよう。

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