#26 You

「きょうはあったかいね」


 レイネが空を見上げて呟く。僕は思わずその手を優しく握った。


「そうだな。春の陽気ってやつだ」


 暖かい。そして、温かい。

 今日は森へ来ている。一年近く前にここへはレイネと一緒に来た事があるけど、今日は前とは違う。


「ももいろ、たくさんあってとってもきれい」


 レイネがが刺した指の先には、桜が咲き誇っていた。この森に生えている樹木のほとんどは桜だ。淡い桃色の花が頭上を埋め尽くす。

 レイネと一緒に暮らして、いつもの様に散歩して、沢山の事を経験して。とっても刺激的で楽しい日々が一年続いたけど、彼女と出会ってから一度もやっていなかった事がいくつかある。今日はその内の一つをやってみようと思う。楽しい時間なんてあっという間なんだ。噛み締めて、充実させなきゃね。


「レイネ。今日は君に協力して欲しい事があるんだ」


 僕は二人で歩きながらレイネに言った。


「なに?」


 こちらへ振り向くレイネ。彼女の白いワンピースがふわりと踊る。


「今日は、君を絵に描いてみようと思うんだ。元々僕は普段風景画しか描かない。人間や羊、虫なんかもほとんど描いた事がない。動くものは描くのが難しくて、今まで敬遠してたんだ。だけど、そのままじゃもったいないって思ったんだ。動物だってこの世界の大事な一つの欠片なんだ。僕はあらゆる人々や動物達を含めたこの世界を描き続けて、絶え間なく動くこの世界に彼らが生きた証を残したい。そう思ったんだ」


「いきたあかし……」


「そう。君が確かにここにいたと言う歴史を残したい。そんな僕の夢に協力して欲しいんだ」


「わかった。わたしをかいてくれるの、とってもうれしい」


 レイネは快く僕のお願いを聞き入れてくれた。彼女が「うれしい」と言うと、不思議と僕も嬉しくなる。反対に、彼女が「さみしい」「かなしい」と言うと、僕まで気分が落ちる。でも、家族とはそう言うものなのだと思う。自分が感じた事を一緒に共有して支え合っていく。レイネと居ると様々な当たり前に気付いて実感する。

 あの時訪れた池までやってきた僕らは、目の前に広がったその景色の美しさに言葉が出なかった。

 そこには澄んだ青い池周りをぐるりと囲む様に大きな木があった。ただあの時とは違い、木に生えた新緑の葉は桃色の花に変化していた。

 なんて事ない日々の様に穏やかな風が花びらをちぎり、切り離されたそれは降下しながら舞い、池に落ちて水面に浮かぶ。

 父さんが生きていた頃、僕と父さんは二人でよくここの池に来た。絵の最高のモチーフだったからだ。移り変わる季節の中で、父さんはいくつもこの池の絵を描いた。隣で父さんの手伝いをしていた僕は、父さんの筆先を眺めながら、この場所が歩んできた時間がはっきりと絵と言う形で残されていくのを感じた。


「相変わらず良い景色だろ。僕の父さんも好きだった景色さ」


「わたしもすきなけしき」


「うん。僕も好きだ」


 それから僕らは絵を描く準備をした。キャンバスやらイーゼルやらは結構持って行くのが大変だ。でも、レイネと一緒なら大変さが半分になる。誰かがいるってありがたい事だと感じる瞬間だ。


「そういえば、わたしはいまからどうすればいいの?」

 

「それなんだが……レイネ。この辺で好きに遊んでてくれるか? 勝手気ままな君の姿をこのキャンバスに収めておきたい」


「あそんでて……? うごいてていいの?」


「あぁ。全体を目でしっかり見て、好きだと思った瞬間を描く。人間の体の構造は父さんに習ったから、我ながら自信はあるんだ」


 ちょっと得意げに言ってしまったが、僕の自信は確かだ。


「わかった」


 それからレイネは自由に遊んだ。鳥と戯れたり、桜の枝を持って近づいてみたり、切り株の上に座ったりした。でも僕はピンとくる様な良い情景がまだ見えずにいた。「うーん」と唸りながらひたすらこの世界とにらめっこをして、しばらく時間が過ぎた。


「だいじょうぶ? こわいかおしてるよ?」


 ハッと気がつくと、レイネが僕の顔を覗き込んでいた。


「あ、あぁ。大丈夫だ。レイネ、疲れてない?」


「だいじょうぶ。たのしいからまだまだへいき」


 彼女は僕の言葉に笑顔で返した。


「良かった。まだもうちょっと時間かかりそうだから、なんか変なお願いだけど、もうちょっとだけ遊んでてくれるかな? 飽きちゃったなら無理しなくていいんだけど」


「まだあそびたい。まだあそんでいたい。じぶんがこのもりにつつまれているかんじ、すきだから」


 レイネはそう言うと、直ぐに駆けていった。僕は彼女の言葉を噛み締めた。僕は彼女の静かに輝く様な感性が好きだ。

 緑色の美しい羽を持った小鳥が僕の背と同じくらいの高さで背後から飛んで来た。その鳥はレイネの側をくるりと一周して、とても高い所にある桜の木の枝に止まった。するとレイネがつま先で立って、その鳥をなんとか見ようとしたその時だった。


「うん。いい感じ」


 ピンとくる、とはまさにこの事だった。まるで頭の中に太陽が昇って来た様な、そんな心地良さを覚えた。


「よし」


 風が吹いて、小さな花びらがいくつも散る。広がる視界に桃色が輝く。

 脳裏に焼き付くその景色に、心が動く確かなものを感じた。

 僕は筆を手に取り、くるくると回してパシっと掴んだ。

 そして僕は言った。

 

「レイネ、君のおかげでようやくいい絵が描けそうだよ」


 僕の言葉に反応してレイネは振り向いて言う。


「それはよかった……けど、まだもうちょっとだけ、あそんでいたい」


 レイネの無邪気な笑顔が見られるのも、後四日。

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