最終話 納税とパラダイスと勝負と

 十月二十八日 午前十一時三十分


 私は今、納税の義務を果たした自分を褒めている。


 自宅から徒歩十二分の場所に運動公園が出来たのだが、雑居ビルと中古車販売店の間にある謎の小道を進み、階段を上がるとそこにはこの世の楽園パラダイスがあった。


 運動場があり、その外周は幅員五メートルのマラソン用に整備された道、総距離二キロだ。

 植栽も水路も美しく整備され、季節の移ろいを感じながら走れるのだ。


 ――税金が、私のために使われた。


 嬉しい。

 私はきっと頬が緩んでいるのだろう。隣の葉梨が若干、後退りしている。


「んふふ……葉梨、教えてくれてありがとう」


 この運動公園は葉梨の実家側にあり、私は存在を知らなかった。

 葉梨と先月末に署で会った時、次に会う日を連絡すると言っていたが、翌日に連絡が来て、この運動公園で走りませんかと誘われたのだ。


 今日は葉梨の実家へ行き、荷物を置いて手ぶらで運動公園にやって来た。

 昼はお弁当をここで食べるという。

 この運動公園は木陰が多く、涼しい風が吹いている。夏が終わって、秋の気配がする今日この頃だ。


 ――ああ、なんて気持ちがいいのだろうか。


 この幸せを噛み締めていたいけれど、そうもいかない。


「走ろう」

「はい」


 葉梨と走るのはあの日以来だ。

 玲緒奈さんが敦志さんを『むーちゃん』と呼んでいることを知り、年末でもないのに笑ってはいけない先輩宅を必死に耐え、駅まで向かう道を走った時以来だ。

 あの時私は全力で葉梨を追い抜いたが、今は違う。ランニングだ。会話が出来る程度で並んで走っている。


 葉梨は白いTシャツ、黒いハーフパンツ、黒いロングタイツ姿で、私は白いTシャツ、黒いハーフパンツ、黒いロングタイツ姿だ。


 ――同じだ。完全に、同じだ。


「多分さ、お揃いだよね?」

「そんな気がします。ふふっ」


 私たちは、まるで示し合わせたかのように同じブランドのランニングウェアを着ていると思うと可笑しかった。



 ◇



 マラソンコースを走り抜けて、一周した。


 葉梨とは来月十二日から神奈川県の捜査で一緒に働くことになった。私も葉梨も手持ちの仕事の引き継ぎで忙しくしていたが、やっと余裕が出来た。

 本当は岡島がいいと思っている。葉梨も優秀だが、他の捜査員を考えるとやっぱり岡島の方が都合がいい。

 だが須藤さんは葉梨だと決めた。それは私のためだと暗にほのめかしたが、葉梨の仕事ぶりを見て判断したのだろう。岡島は、泣かせておけばいい。


「来月から加藤さんと一緒に仕事が出来ると知って、嬉しかったです」

「なんで?」


 ちらりと私を見る葉梨は笑っている。

 来月は葉梨の誕生日でもある。いい肉、十一月二十九日だ。


 俺の誕生日も一緒に過ごしてくれますか――。


 後輩の誕生日を祝う先輩としてその日を迎えればいいのか、そうではないのか。葉梨はどうして欲しいのだろうか。


 捜査員再編では相澤も加わることになった。相澤と仕事するのは二年ぶりだ。

 毎日、相澤と会える。

 最後に会ったのはスイーツブッフェで見かけた時だが、一緒に過ごしたのは葉梨と初めて会った日だった。


 裕くんを好きになって、もう十六年が経った。

 裕くんが結婚しないから、いつまでも片思いのままだ。裕くんに彼女が出来ると辛くて悲しくて、でも何も出来ないまま時は過ぎた。

 早く結婚してしまえばいいのにといつも思っている。


「これまで加藤さんに教わったことを俺が出来ているか、一緒に仕事をすれば、加藤さんに見てもらえますから」


 ――誕生日のことには触れないのか。


 葉梨は薔薇の意味も、誕生日のことも、あれから何も言わない。気にしているのは私だけだ。


「加藤さん、今日は伊都子いつこさんが楽しみにしていたんですよ」

「え、なんで?」


 伊都子さんは葉梨の実家のお手伝いさんだ。

 葉梨を将由まさよしっちゃまと呼ぶ、あのお手伝いさん。


「お弁当作りです。麻衣子が高校を卒業して以来ですから、張り切ってました」

「んふふ、そうなんだ」


 私は腕時計で時間を見た。そろそろ伊都子さんがお弁当を持って公園に来る頃だ。


「加藤さんは海老がお好きだと伊都子さんに伝えました。海老のメニューがたくさんあるそうです」

「海老……ふふふっ、ありがとう。嬉しい」

「大正海老です」


 なんということだ。

 庶民のバナメイエビでもブラックタイガーでもなく、大正海老だと葉梨は言った。

 将由坊っちゃまが食べるのだ。まあ、当然だろう。


「あと、ミートボールです」

「えっ!?」


 伊都子さんのミートボール。

 それは葉梨のお宅で夕飯をご馳走になった時、もっっっのすごく美味しくてひたすら食べていたあのミートボールか。おかわりもいただいた。


「いっぱい作ったそうです」


 葉梨は言う。

 伊都子さんはエビ天、エビとブロッコリーのタルタルサラダ、ガーリックシュリンプ、塩焼き、フリットを作っていた、と。ミートボールをひたすら捏ねていた、と。


 運動公園パラダイスで、海老パラダイスミートボールパラダイス。この世の楽園パラダイスじゃないか。


「楽しみ」

「んふっ、喜んでいただけて何よりです」


 運動公園の正門に向かうコーナーに差しかかった時、伊都子さんの姿が見えた。風呂敷に包まれた大きなものを抱えている。


 私たちは伊都子さんに手を振った。

 伊都子さんは笑顔で応える。


「葉梨、もしかして、お重?」

「そうですね。料理が多いですし」


 弁当箱や適当な保存容器ではないのか。

 まあ、将由坊っちゃまが食べるのだ。伊都子さんは将由坊っちゃまのために張り切ったのだ。私はおまけだ。


 そんなことを思いながら、走り続けた。



 ◇



 伊都子さんはレジャーシートを広げ、準備をしている。私たちはもう一周してから伊都子さんの元へ行こうと決めた。


「加藤さん、勝負して下さい」

「ん? 何の勝負?」


 横にいる葉梨を見上げると、噴き出す汗をリストバンドで拭いながら、私を見て、微笑んだ。


「加藤さんが勝ったら、海老とミートボールを全部食べていいですよ」


 ――負けたら食べられないのか。何だその勝負は。


「葉梨が勝ったら?」


 私の問いに微笑む葉梨だが、私を見るその目に、私はなぜだか目を伏せてしまった。そして耳に流れ込む葉梨の柔らかな声に、私の胸は波立った。


「俺が勝ったら、誕生日にデートして下さい」


 ――葉梨は私を諦めていなかったのか。


 私は葉梨に勝てる。自信はある。だから私次第だ。

 葉梨がくれた白い薔薇の意味の解釈は、私に委ねられているのだ。今ここで、私は答えを求められている。


「時計台の下までです。勝負して下さい」


 そう言って葉梨は全力で走り出した。

 伊都子さんの近くにある時計台までは約八百メートルだ。私は勝てる。


 追いかける私は、葉梨の背中が手の届くところまで来た。


 海老と自分。

 ミートボールと自分。


 葉梨は自分と天秤にかけるものがそれでいいのだろうかと思いながら、私は葉梨をぶっちぎった。


 だいたい葉梨は自分の誕生日に休みが取れると、私も時間が取れると本気で思っているのか。

 新しい捜査員のメンバーはどう考えても人が足りない。飯倉はホストクラブで勤務のままだし、ポンコツ野川はポンコツだ。頭数が足りていない。


 岡島と葉梨を、どちらも入れればいいのに須藤さんは一人だという。休みが無い。絶対に、休みが取れない。それだけは確実だ。


 背後から葉梨の息遣いが聞こえる。

 だが葉梨はおそらくトレーニングしたのだろう。

 フォームが綺麗だ。追い抜かれるかも知れない。


 時計台まであと三百メートル。


 葉梨は私に勝てないと思っている。私だって負けない。普段なら。

 だから、葉梨は私を試しているのだ。

 私が食べたいものを諦めて、自分と誕生日を過ごしてくれるのか、今、答えを知りたいのだろう。


 ――海老か葉梨か。ミートボールか葉梨か。


 私は相澤が好きだ。今でも裕くんが好きだ。でも私は今……。


 その時、強い風が吹いた。

 体がよろけるほどの、風。


 十時方向にいる伊都子さんは、飛ばされた風呂敷を追いかけている。


 葉梨は私を追い抜いた。

 だが葉梨は伊都子さんを気にしている。


 時計台まであと二百メートル。


 私は葉梨の背中を捉えた。追い抜ける。葉梨は全力だが、私はまだ余力がある。


 ――海老、ミートボール、葉梨。どちらも欲しい。


 そう思った時、葉梨がルートから外れた。

 葉梨の先には、すっ転んだ伊都子さんの姿があった。これはマズい、伊都子さんの一大事だ。


 私も後を追った。

 だが葉梨は私を置いてどんどん遠ざかる。追いつけない。速い。

 伊都子さんの一大事に駆けつける将由坊っちゃまは私のことなど完全に忘れている。

 でも、それでこそ葉梨だと思う。

 誰の色にも染まっていない葉梨は、そのままでいればいいのだ。


 ――あなたの色に染まりたい。

 

 胸に広がるあたたかな温もりを感じながら、私は葉梨の広くて大きな背中を、追いかけた。





 ―ブランカ/Blanca 完 ―




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ブランカ/Blanca 風森愛 @12Kazamori-Ai

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