第31話 年下男と職人技と小綺麗な熊と
四月十七日 午後六時五十七分
今日は私の誕生日で、葉梨とホテルのフレンチに行く予定だ。
自宅まで車で迎えに行くと言われたが美容院へ行くからと断った。指定された地下鉄の駅前で待ち合わせすることになっている。
先週、葉梨からフレンチに行きましょうと連絡がきた。そのホテルは高級ホテルで、どう考えても会計が庶民価格でないことは確かだった。
誕生日だからご馳走すると言う葉梨へ、そんな高級ホテルで食事などダメだと言ったのだが、葉梨は行くと言った。一歩も引かず、ずっと『いいんです、大丈夫です』と言っていた。
三日前、私はデパートに行った。
招かれた高級ホテルに見合った服が無く、せっかくだからと新調しようと思ったのだ。従兄弟が結婚するらしいとは聞いているし、結婚式にも対応出来るワンピースを買おうと思った。
店員に野川が選んでくれたリボンのカチューシャを見せ、ホテル名を伝えて、ホテルのランクに合うワンピースを選んでもらったのだが、店員からほんのり疑いの眼差しを向けられた。
婚活中のアラサー女がリボンのカチューシャをつけて婚活パーティに行くとでも思ったのだろう。世間話のつもりで『後輩が誕生日会を開いてくれる』と言ったのだが、『年下男狙い』と脳内変換されたようだった。
だがあちらもプロだ。
私の体型に見合ったワンピースを二着選び、こう言った。
『しなやかな大人の女性を演出するならこちら。大人の女性が併せ持つ愛らしさを演出するなら、こちらが良いと思います』
どちらも私の手持ちのワンピースには無いタイプだった。私は両方欲しいと思ってしまったが、二着も購入するのは無理だった。
その時、ふと相澤の顔が思い浮かび、相澤なら可愛いワンピースがいいと言うだろうと思い、私は清楚系のワンピースを買うことにした。
ピンクの総レースのワンピースは、袖が肘下まで覆う緩やかなシフォンスリーブで、腕を曲げると二の腕まで肌が見える。品の良い大人の肌見せだと店員は言っていた。
今日の午後は松永さんの弟さんの美容院へ行き、このワンピースと野川とお揃いのカチューシャに似合ったヘアセットをお願いした。
普段とは違う服で、誕生日当日の平日に現れた私を見た弟さんは、何か言おうとして飲み込んで、真剣な眼差しで言った。『兄には、今日のご来店は秘密にしておいた方がいいですか』と。
弟さんも、婚活で足切りされるラストイヤーである三十四歳を迎えた私が、気合いを入れて婚活パーティにでも行くのだと思ったのだろう。言っても言わなくてもどちらでも構わないのだが、弟さんの思いやりを無下に出来るはずもないから、秘密にしておいて欲しいと伝えた。
野川とお揃いのカチューシャは黒だった。最初野川はショッキングピンクを選ぼうとしたが、さすがにそれは拒否した。ひと悶着あったが、黒で納得させた。
弟さんはカチューシャについて聞いてきた。『何か思い入れがあるんですか』と。私は後輩にお揃いのカチューシャにしたいと言われたことを、紛れもない事実を伝えたのだが、デパートの店員と同じく『年下男狙い』と脳内変換したようだった。
鏡越しに見る弟さんは今まで見たことの無い顔をしていた。職人の顔――。
普段のカットやカラー、パーマの時には兄の松永さんがロクでもないことを言っている時の顔によく似ているのだが、今は仕事に集中している時の顔と同じ顔をしていた。
編み込み、みつ編み、カールアイロンと、髪の毛一本、ミリ単位で仕上げている姿に、今日の婚活パーティは私の命運がかかっているとでも思われているのだろうなと思った。
◇
駅に着いた。
葉梨が指定した場所はホテルから若干遠い場所なのだが、歩けない距離ではない。
地下鉄を降りて地上までエレベーターで行くと、目の前に葉梨の家の高級車があった。
助手席側に葉梨はいて、階段を見ている。
――いつもと、違うな。
葉梨は理容室に行ったのだろう。肌が艷やかだ。少し長めの髪を後ろに流し、ネイビーのスーツに水色のシャツ、茶色のベストに茶色のレジメンタルストライプのネクタイをしている。ポケットチーフも。
――お洒落な熊だ。
「葉梨、お待たせ」
階段を見ていた葉梨に声をかけると、私を見て驚いていた。髪型を見て、ワンピースを見て、顔を見て、やっと笑顔になった。
「加藤さん、いつも以上に美しいですね」
「んふふっ、ありがとう。葉梨もいつもと違ってびっくりしたよ。よく似合ってる。カッコいいね」
「ありがとうございます」
そう言って、葉梨は助手席のドアを開けてくれた。
運転席に座った葉梨は私の顔を見て、『お誕生日おめでとうございます』と言った。
◇
車を走らせたが、五分ほどでそのホテルに着いた。
だが駐車場ではなく、ホテル入口の車寄せまでだった。葉梨はシフトノブをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、シートベルトを外している。助手席にはドアマンが近づいてきてドアを開けてくれた。葉梨も降りるようだ。
――バレーサービス、か。
徒歩で訪れるホテルではないから葉梨は車にしたのか。ドアマンは葉梨の名を呼んでいる。
お父様の車で来てるからこのドアマンは覚えていたのだろう。葉梨はいいところの坊ちゃまだ。だが私は高卒地方公務員。こんな高級ホテルは結婚式で招かれない限りは来れない。警視庁本庁に近いがご縁が無い場所だ。
私はワンピースを新調して、美容師の職人技が光る頭にして本当によかったと思った。
◇
エレベーターは十九階まで私たちを運んでいく。
「葉梨はこのホテルはよく使うの?」
「えっ、ああ……年に一、二度、使っていました」
――過去形、か。恋人と来ていたのだろう。
「両親は結婚記念日に、いつもここで食事しています」
「ああ、そうなんだ」
「両親はここで結婚式をしたので」
「んふふっ……そっか。いいね、素敵なご両親だね」
私を見る葉梨は優しく微笑んでいる。
夫婦仲の良いご両親に育てられた葉梨はよい子だ。
「俺も、ここで結婚式をしたいと思っています」
「んんっ!?」
――葉梨に恋人が出来たとは岡島から聞いていないが、出来たのだろうか。
「でも、相手の希望を優先しますけどね」
そう言って私の顔を見た葉梨と目が合ったが、葉梨は目をそらした。なんだろうか。恋人のことは聞かない方がいいのか。
妙な空気が流れるエレベーターはフレンチレストランのある十九階に到着した。
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