第29話 愛おしい



 試合後の礼が終わったあと。



「うおおおやったぁぁぁ」


「羽黒かっっけえええええ!」



 室側女子の生徒の喜びの声を背に、楓は俺のところへ帰ってきた。


 楓はくいっと顎をあげて俺を見る。


 涙がぼろぼろぼろぼろ流れ落ちてきていて、せっかくのかわいい顔がくしゃくしゃで、



「ふみゅうううううううう」



 とわけのわからない声を出すと、自分の右肘を抑えたまま、走り去った。



「ま、待てよ! 楓!」



 俺は慌てて追いかける。


 走る、走る。楓は走る。


 ついに体育館を出て道路を渡り、その先の公園へ。



「おい、楓!」



 あいかわらずすげえ体力だ、腕を怪我してるのに、やっとのことで追いついた。


 肩で息をしている楓の背中から声をかける。



「腕、大丈夫か?」


「わかんない……わかんないよ……痛いのに……痛くないの……」


「怪我してるんじゃないのか? 骨とか大丈夫か?」


「わかんないよお……どうして……どうしていつも……紅葉に負けちゃうのお……」



 最後の方はもう言葉にもならなくなっていて、楓は肩を震わせ、しゃくりあげながら、


柔道着の袖で涙を拭く。


 そしてその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。


 おれなんかが掛ける言葉など、なにも見つからない。


 と、目の端にもうひとりの羽黒がこちらに走ってくるのが見えた。


 羽黒紅葉もみじ――楓の、双子の妹だ。


 もちろん心配で紅葉も楓を追いかけてきたんだろう、もう今の楓は妹に任せた方がいいんじゃないのか?


 ……いや、それはなんか違う気がする。


 勝者が敗者に言葉をかけるってのは、どんな内容であれ残酷にならざるをえないもんだ。


 俺たちの数メートル先でぴたりと足を止めるおさげメガネの羽黒紅葉、俺は彼女に身振りで『ちょっと待っててくれ』と手のひらで押しとどめる。



「……新井田先生が言ってたじゃないか、柔道で大事なのは自分につことだって」


「今、負けたじゃない!」


「あれは楓じゃない!」


「同じよ! 紅葉はもうひとりの私……たった今、私、自分に負けたんだよっ」


「全然違うじゃないか! 楓は楓だ!」


「だって、だって、小さいころからずっと一緒で、ずっと一緒に柔道やって、でも私だけ負けて……」


「楓は中学でも紅葉……さんに負けたんだろ? 今も負けて悔しいんだろ? それは紅葉さんの想いじゃない、楓の想いじゃないか、紅葉さんは楓じゃない」


「だって、だって……」


「楓、少なくとも俺には楓は楓しかいない、俺には全然別人にしか見えない」



 実際そうだった。


 確かに顔とか外見は数メートル先でたたずんでいる紅葉と、目の前の楓はまったく同じなんだけど、でも俺にはわかる、全然違うじゃないか。



「紅葉さんよりも楓のほうが全然かわいいし、俺は楓の方が好きだし、俺は楓が好きだ!」



 すまぬ。


 すぐそこにいる紅葉が実に微妙な顔をするけど、でもそうなんだ、悪いけど紅葉がどう思おうと、楓とは別人なんだから俺には関係ない。



「好きだなんて今いわないでよ……。いみわかんないよ……」



 だって楓の方が俺には愛おしい。


 楓だけが、愛おしい。



「……月山くん、どうして今そういうこというの? 私、今頭の中がぐちゃぐちゃでなにもわかんないよ……」



「わかんないままでいいから医務室行こう、ってか先生に医者につれていってもらおう。はやくみてもらわないともう柔道できなくなるぞ」


「あのね、月山くん……」


「なんだよ」


「あのときね、月山くんの声が聞こえたの。ほんとは、勝てればここで私の柔道おしまいにしてもいいと思ったの。紅葉に腕折られても勝てればいいって思ったの。でもね、月山くんの、もういいって声だけ聞こえたの。もし妹に腕壊されて二度と柔道できなくなったら、月山くんとも柔道できなくなるなって思ったの。……だから、『参った』したの……」



 楓はゆっくりと立ち上がる。



「ほんとはね、きつかったの。勉強してバイトして柔道して、私ほら教室じゃあんなだから、友達もいないし、つらかったの。月山くんだけが……月山くんがいたから、がんばってこれたんだと思う」


「…………俺はずっといてやるぞ」


「……うん、ありがと。へへ、月山くんがいれば……私はいつか私に勝てるかもしれない……」


「その『私』は紅葉さんじゃないからな」


「うん。……わかった。月山くんがそういうなら、きっとそうなんだと思う……」



 そして、楓は柔道着姿の俺に近づき――


 俺の襟と袖を持った。


 そして。


 肘が痛むのだろうに。


 なんどもなんども俺を投げた技。


 羽黒楓の、背負投。


 それを、俺に。


 俺の身体から重力が消え、回転させられ、とすん、と優しく芝生の上に仰向けにされる。


 おいおい、ここで柔道技かけるか普通。



「えへへ、やっぱり肘とか痛いや、もっともっと寝技や関節技の練習しとけばよかったね……」


 


 そういって羽黒は横になった俺に抱きつくようにして縦四方固め。


 いや、違う、これは普通に抱きつかれてる……のか?


 こつん、とおでこ同士がぶつかった。


 楓の大きな瞳と目が合う。


 吐息と汗の匂い。


 楓の涙が俺の頬を濡らし、



「月山くん、ありがとね。月山くんを投げるたびに、私は元気をもらったの……」



 そしてそのまま、芝生の上で俺たちはしばらくのあいだ重なりあっていた。


 それを見ていた紅葉は、少し頬を赤らめてどこかへいってしまった。



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