第28話 羽黒楓


「はじめぇぃ!」



 残り二分。


 このままなら、技ありのポイントをとってる羽黒の勝ちだ。


「攻めて、攻めて!」


「攻めろ攻めろ、止まるな!」



 新井田先生も相手の監督も同じことを言う。


 熾烈な組み手争いが始まり、お互いが有利なポジションをとれないまま、中途半端な技をかけては潰される。


 そしてその時はやってきた。


 羽黒楓は左手で紅葉の右袖だけを持ち、紅葉は右手で羽黒楓の襟だけを持つ。


 お互い不十分な体勢。


 吊り手を確保している分、紅葉の方が有利に思えるけど……。


 と、その時。


 羽黒楓が、ドンッ! と畳を踏み鳴らした。


 ビクッとして身構える紅葉。


 その瞬間、羽黒楓が袖を持って一本背負いにいこうとして――紅葉は当然腰を低く落とす――羽黒楓は、彼女から見て左側に強く引っ張っていた紅葉の右袖を、急に方向転換、右側に押し出すようにする。


 そして、その勢いのまま、自分の腰を相手のお腹に当て、素早く右手で紅葉の襟をとった。


 袖釣り込み腰という技だ。


 だけど。



「駄目ぇ! それは無茶……」



 新井田先生の叫びもむなしく。


 紅葉は羽黒の攻撃をぐっとこらえると、右手を後ろから羽黒の股に差し込み、ぐいっと持ち上げた。そしてそのまま倒れこむように羽黒を畳に転がす。


 審判が右手をたかだかと上に上げる。



「いっぽぉぉぉん!」



 一本だ。


 負けた?


 まさか?


 心臓がぎゅっと縮まった。


 が。


 副審二人が腕を真横に伸ばす。


 それを見て、審判は一本を取り消し、改めて宣言。



「技あり!」



 あっぶねえ、あっぶねえ、あっぶねえ!


 まじで負けたかと思った、首の皮一枚つながった。


 残り一分。


 技ありひとつずつでポイントは五分。


 俺はとにかく叫ぶ。



「羽黒ぉ! がんばれ、がんばれ!」



 しかし、他の生徒達の応援もすさまじく、俺の声は届かない。


 届かない。



「はぐろぉ!」



 届かない。


 俺は大きく息をすいこんで――


 大きく叫んだ。



「かえでぇぇぇ!! 勝てぇぇ!!」



 その瞬間、開始線に戻ろうとしていた羽黒楓が、ぱっと俺を振り向いた。紅葉も顔を上げて俺を見る。



「楓! いけ、楓!」


 俺の声に、羽黒楓は厳しい表情でうなずき、紅葉はちらっとかすかな笑みを浮かべた。


「はじめ!」



 試合再開。


 激しい組み手争いから、今度は羽黒楓がいいところを取った。


 紅葉の頭が下がる。


 と、楓はクイクイッと細かく体重移動をしたあと、右足を外側から紅葉の左足にかける。


 ずいぶんあっさりとした動き。


 でも、シンプルさこそが一番の強さなのだ。


 羽黒の、相手の重心をコントロールする技術は超一流だ、新井田先生だってそう言っていた。


 まるで魔法かなにかで吸い込まれるかのように、ストン! と紅葉のお尻が畳についた。


 しかし浅い、ポイントにはならない。


 でも判定勝負になったら大きな判断材料だ。



「いいぞ、楓!」



 残り三十秒。


 今度は組み際だった。


 楓はそのスピードで潜り込むようにして紅葉の襟と袖をとると、いきなり背負投、耐える紅葉、一度体勢を整え直す楓、紅葉が技をかけようとするが、足さばきでそれをかわし、もう一度背負投に行くと見せかけて――


 タンッと軽く右足で紅葉の右足の内側を蹴った。



「えっ?」



 という表情のまま、紅葉の身体が楓の小内刈によって沈みこみそうになり――。


 しかし、驚異の身体能力で持ちこたえた。


 楓の双子、すごすぎんだろ、なんであそこから倒れないんだ?


 あと二十秒。


 たったの二十秒。


 判定勝負ならきっと勝ちだ。



「楓ぇ! 頑張れぇっ!」



 そろそろ喉が枯れてきた。


 そして多分最後の試合再開。


 審判が叫ぶ。



「はじめぇ!」



 楓は少し距離をとる、紅葉はダッシュして楓を捕まえようとする、あと十五秒、二人は移動しながら組み手争い、俺の目の前で紅葉が楓の袖をとる、あと十二秒、そのとき紅葉の身体が、飛んだ。


 飛んだのだ。


 飛び膝蹴りかと思った。または、回し蹴り。


 あれ、そんな技柔道にはないのに。


 反則じゃないのかこれ。


 紅葉は宙に浮いて右膝を羽黒の右脇にぶつけ、左足を羽黒の顔にひっかける、なんだこれなんだこれ、そのままふたり回転して仰向けになるように寝技に移行、だけど、これは……。


 飛びつき腕ひしぎ逆十字固。


 紅葉が立った状態から、楓に飛び十字をしかけたのだ。


 楓は関節技の経験が少ない。


 あっさりとひっかかって、羽黒の右腕が極まる。


 完全に決まっている状態の腕十字だ。


 あと十秒。



「あうっ!」



 楓が悲鳴をあげる、同時に俺の目の前でクキン、となにか嫌な音が聞こえた。


 あと八秒、でも……。



「ふぬううううううっ!」



 羽黒楓は歯をくいしばって耐える、あと数秒我慢すれば勝てるかもしれない、でも完全に関節技が決まっていて、その数秒で羽黒は――


『ケガはね、……怖いんだから。一瞬で全部をね、柔道にかけた全部を、あっと言う間に吹きとばしちゃうんだから』


 いつかの羽黒の言葉。


 全部を失う代わりの勝利。


 そんなの俺はいやだ。


 俺は咄嗟に叫んだ。



「楓、もういいっ!」



 その瞬間、楓はタンタン、と紅葉の足を二度タップした。


 羽黒楓が、負けた瞬間だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る