4-6 ボクは誰かの代わりじゃない
「どうして……」
隣にいたから、かろうじてその声が聞こえた。
震えている、アマツマのか細い声。呟いたのかどうかさえ怪しくなるほどの声量に、思わずヤナギはアマツマを見やった。
愕然と見開かれた目、強張った表情、震える体。恐怖ではない――その顔が何なのか、ヤナギは知っていた。怒りだ。
その顔で唐突に、突き刺すようにアマツマが叫んだ。
「どうして、まだアンタがここにいるんだよ!」
「アマツマ……?」
突然の罵声に名を呼んだが、彼女はこちらを見もしなかった。犬歯をむき出しにして威嚇するように、玄関前の男を睨んでいる。
改めて、ヤナギはその男を見やった。
歳のほどは三十の真ん中ほどだろうか。アーモンド形の瞳に、わずかに波打つ短い髪。すっとした鼻梁――確かに、アマツマとよく似ている。アマツマをより男らしくしたら……そしてある程度歳を取らせたら、こんな風になるのかもしれない。
その男はアマツマの絶叫につかの間、息を止めたが。覚悟を決めたのか、重々しく口を開いた。
「話が途中だっただろう。だから、帰ってくるまで待ってた」
「話なんてない――」
「俺にはあるんだ! 大事な話だって言ったはずだ!」
アマツマの怒りを受け止めて、それでも男は引かなかった。叫び返すその眼は真剣だ。男の瞳に浮かぶのは怒りではなく憂い――そして心配だ。だが。
ふと男は邪魔者に気づいたらしい。顔をしかめると、アマツマの傍にいた邪魔者――つまりはヤナギを見つめて、怪訝そうに呟いた。
「……君は?」
「俺は――」
「クラスメイトだよ。アンタには関係ない」
ぴしゃりと。ヤナギよりも早く、かばうように告げた。
さらには一歩、前へ出て父親に言い募る――感情を爆発させるように。
「そうだよ、アンタには関係ないんだ――ボクにアンタは必要ない。ここはボクの家だ。アンタの家じゃない!! ボクはアンタの家族でもない――今更話なんかない!!」
「俺にはあるんだ。聞いてくれ! 俺はお前の」
「今更父親面するなって言ってるんだ――母さんを捨てたくせに!!」
その言葉に。
男の表情が、一瞬で凍りついた。愕然と、罪を突き付けられた男が言葉を失う。
その隙間を刺すように、アマツマの叫びがなだれ込んだ。
「母さんが死んだ今更になって、すり寄ってこられてもどうしろって言うんだ! 家族が欲しいならもういるだろ! 母さんを捨てて作った家族だ、それで満足しておけよ!! そこにボクを混ぜようとするなよ、迷惑なんだ!!」
「テンマ……」
「ずるいんだよ! これまでずっと母さんと会おうともしなかったくせに、今更しゃしゃり出てきて、父親面して!! いっちょ前に後悔してるなんて顔しても、母さんから逃げ続けてただけじゃないか!! なんで今更父親面するんだ。なんで、もっと早く……!!」
なんで、もっと早く――その先に続く言葉は何だったのだろうか。
アマツマの声はそこまでで、悲鳴のような叫びも最後には失速する。
アマツマが怒りで唇を噛みしめるのと同じように。男もまた、何かを耐えるように目を伏せていた。それは後悔だろうか。事情を知らないヤナギには察することもできないが。
目を伏せたままの男は、それでもというように囁いた。腹の底からではなく喉で絞り出すような、かすれ声で。
「だからだ、テンマ。エマはもういない。俺は何もしてやれなかった……だから、せめて――」
「……
それが、致命的な失言だった。
「
「違う。テンマ、そういう意味じゃない――」
ハッと。気づいた男が取り繕おうとしたが、もう遅い。
アマツマの表情がひび割れる――怒りから、悲しみに。
明確な失望に。声に乗ったのは悲嘆だった。
「あんたも母さんと同じだ――ボクを誰かの代わりにして! ボクじゃない誰かしか見てなくて!! はっきり言えよ――ボクのことなんかどうでもいいって!! アンタも、母さんも……もういい加減にしてよ……うんざりなんだよ!!」
「違う――テンマ! 俺の話を聞いてくれっ!!」
だが聞かなかった。耳をふさいで、イヤイヤと駄々っ子のように取り乱して。
アマツマの叫び声は、もはやただの悲鳴でしかなかった。
「――ボクは誰かの代わりじゃないっ!!」
悲痛な絶叫。心の底からの――誰かに助けを求めるような。
そんな、泣き叫ぶような悲鳴。
それを置き去りにして、アマツマは逃げ出した。
あっという間もなければ、とっさに手を伸ばしても届かない。気づいた時には全力で、アマツマは背後へと走り出していた。
追わなければ。一目散に駆けていく背中を見てそう思う。それに何の意味があるのかはわからなくとも。
そのために駆け出そうとした足を――だがヤナギは一度だけ止めた。
肩越しに背後を見やれば、唇を噛みしめて打ちひしがれている男がいる。いくら若く見えようが、その瞳に宿る暗さは男の顔から生気を損なわせていた。
「……あなたは」
何かを言おうとしたが、言葉が続かなかった。
何を言おうとしたのだろう、自分は。つい言葉が喉をついて出たが、それ以上先を言えなかった。罵倒か? 同情か? 慰めか? わからない。口を開く前までは、それが何なのかわかっていたはずなのに。
あるいはただ、こう訊きたかっただけなのかもしれない。
――あなたは、追わないんですか?
それを言葉にするよりも早く。絞り出すような震え声で、男が囁いた。
「……すまん。娘を追ってやってくれないか」
「…………」
「俺が行っても、ダメだろうから」
ヤナギは何も言い返さなかった。
だからそのまま駆け出した。
――いつの間にか、雨は勢いを増していた。
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