39話

 ――人は、ひとりでは生きていけない。



 泰華の言葉がふと耳の奥で囁いた。

 それが幻聴の類いであるのは明白だが、心身ともに疲労した月音にはやけに鮮明に聞こえて、小さな笑いがこぼれた。己をあざ笑う、傷つける笑いである。


 同時、勝手に映像が流れていく。

 走馬灯なのかどうかは分からない。


 ただ、死んでしまった母の最後。

 この世の幸福を全てかき抱いたかのような穏やかで満たされた顔が、焼き付いて離れない。


 母は。


 ひとりだった。

 きっと支えてくれる人がいなかった。

 私が肩を貸して寄り添うべきだった。


 くすぶり続ける後悔と自責は一生抱えるものになるだろう。


 それでいいと月音は思う。

 そうすれば母を忘れずにいられる、己の醜悪さを自覚していられる。


「でも」


 もう、お母さんの声、思い出せないや。


「――……大丈夫」


 自分に言い聞かせた呟きは男には聞こえてなかったようだ。


 瞬きひとつ、静かに深呼吸をして強引に意識を切り替える。


 感傷などに浸っている場合ではない。

 母に誓いを立てた、それすら守れないのならば、自分に生きている価値などありはしないのだから。


 鼓舞して、奮い立たせる。

 男たちの「もう殺すべきだ。死体でも充分だろ」という声に視界が燃え上がるような錯覚、沸騰するように熱がこみ上げて折れた心が再び立ち上がった。


 ころされる、それだけは絶対に許されない。


 暗闇になれた目は、蝋燭で照らされた薄暗い倉庫でも、ある程度は認識できるようになった。電気は通っていないのか、明かりは淡い炎のみだ。


 微かに海水の臭いが鼻に届くが、シャッターが降りているのか、外の光はどこからも入ってこない。窓も出口も遮断され塞がれているらしい。


 近くに一人。

 祖父母を殺しただろう男――。

 

 遠くに数名の人間が下卑た笑いをあげながら会話をしている。

 おそらく三名以上、時間がたつにつれて増えていく。一人の子供相手に大層なことである。


 どうにか起き上がろうにも、縄で縛り付けられ身動きは封じられており、冷たい地面から離れられない。ナイフなど当然取り上げられており、逃走は絶望的だ。縄抜けの技術など知る由もない。


 たとえ立ち上がれたとしても、ナイフを持っていても。反撃されてあっけなく死ぬだろう。


「逃げようと思うなよ」


 動いたのが気配で伝わったのか近場の男が脅すように唸る。刺激しないように動かしていた肩や腕を止めた。どうせ解けない。


 実力行使が不可能でも、思考だけでも必死に働かせる。生き延びる道を探り当てようと彷徨わせた。


 まず、月音が攫われたのは虎沢秀喜への報復に関するらしいが、何かがおかしい。


 祖父母の証言から、虎沢秀喜は月音の命を狙っているはずだ。


 虎沢の仲間なら月音を誘拐する意味はなさない。その場で殺せばいいのだから。

 目の前の男どもは、報復。目の前の男どもは何者か、逡巡ののち、答えは出た。月花でもなく、虎沢でもない。月花が目を光らせるこの町である程度の規模を動かせる組織など一つしかない。


 残ったのは――凪之だ。

 彼らはメンツを潰されたとも言った。虎沢への恨みが原動力。泰華と凪之の男との会話を盗み聞きしたとき、事情は分からなかったが虎沢への感情は明らかであった。


「……んだぁ? 何見ていやがる」


 視線に気がついた、近場の男の声はわかりやすく苛立ちが混ざっており、それ以上機嫌を損ねぬようしおらしく首を横にふった。


 視線や気配に敏感に反応する男の意識は、常に月音へと向けられている。


 この男、この場の――間違ってなければ凪之の――仲間だというが、おかしい。


 祖父母の家から逃走したのは、この顔で間違いない。しかし祖父母を襲ったのは虎沢秀樹の仲間ではなかったか? 祖父母は確か。


 ぐるぐると思考が駆け巡るが、どうにも意識にもやがかかったように鮮明ではない。


 ずきずきと痛む頭に、小さく息を吐き出して目を閉じた。冷静になれ、弱音など必要ない。見極めなければ。


 一、二、三、四……。


 数を数えて、平静を保とうとする。

 己がすべきことはなにか、自問に自答する前に浮かんだのは。


 ――あぁ、こんなときも、やっぱり。


 気がつかないように目をそらしていた。

 ひとりぼっちだと悲劇のヒロインぶるのに必死で、本質を見逃すところであった。


 月音の目的はひとつだけ、それだけは誰を頼ろうと揺るがない。

 それだけが存在証明なのだから。


 生きたいと願うのならば、

 手段を選ばないのなら、

 未知が、愛が怖いなどと泣き言言っている暇などありはしない。


「お前は見捨てられた」

「売られたんだよ」


 男の囁きに、そうだろうねと納得した物わかりの良い自分は、もういない。


 心が叫ぶ、あり得ない、と。


 あの彼が、あれほどひたむきに貪欲に、綺麗や恋という甘さにはほど遠い愛を絡めて首を絞めてきた男が、自分を売るなどあり得ない。


 たとえあれが演技だった、陥れるための罠だと言われても信じられない。

 それならばもっと方法があったはずだ、こんな手間もかかる上に面倒なことはしない。


 華のごとく美しい男は愚かではない。


 一緒に住む間、近づけば近づくほど彼は見せてきた。

 綺麗な花びらの隙間から狡猾で冷酷な部分を。

 棘など生温い残酷非道な一面を。

 それを眼前に差し出した上で、逃がさずに愛を語った男を月音は。


「ひとつ、良いでしょうか」


 張り上げた声に、辺りが静まりかえった。

 痛いほどの敵意が向けられたのを感じたが、月音は揺るがない。

 まだ命乞いは早すぎる。

 諦めるなど、はじめから選択肢にない。

 月音が今すべきなのは時間稼ぎ。


 信じて、彼を。


「あなたたちが知らないことを、私は知っているのです」


 彼ほど豪奢な美しい華にはなれなくとも、気概だけは負けない。

 彼がいないと生きていけなくなったのなら、隣にいられる相応の自分でいなければ、自分を許せない。


 炎が揺らめき、微笑んだ月音を照らす。

 隣の男が息を呑んだのが伝わった。


 守ると約束した、あの不敵で大輪のごとく華やかな微笑み。


 歌劇のように差し出された手を、月音はとっくの昔に、無意識のまま取っていた。

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