24話
「さみしいか」
唐突の問いかけに口ごもる。喉に引っかかったのは、どんな意味を持つ言葉だったのだろうか。わからない。
無力に口を閉ざせば、それ以上は追求されなかった。
その代わり、泰華は横の椅子に置いておいた白い箱を持ち上げて立ち上がる。
そっと手渡されたのは、月音が両手で抱えられるほどの大きさだ。軽く、大きささえなければ片手で持てる。
なんだ、と首を傾げれば開けるように促される。
きれいな薄ピンクのリボンを解いて蓋を外す。
のぞき込めば。
「くまさん?」
ふさふさな薄茶の毛。くりくりとした黒の瞳。愛らしく笑う口元。短い手足とふっくらとした体。
首元には真っ赤な薔薇色のリボンをつけている。リボンには丸い赤い石がついたブローチがあしらわれていた。
かわいい。
人生でぬいぐるみに興味を持ったことがなく、施設でも他の子が触っているのを眺めていただけだが、いざ手元に来ると案外触れたくなる。
そっと手を伸ばして、抱き上げた。
柔らかいくまは、朗らかに月音へ微笑んでいた。
「手料理のお礼。是非もらってくれ」
「えっ、そんな」
あの炭に対して、ぬいぐるみ。くまが可哀想になるほど釣り合っていない。
断ろうとしたが、彼はかぶせるように口を開いた。
「日中、一人でいるのは寂しいだろう。かわいい友達だと思って大事にしてやってくれ」
さみしく、ない。
そう突っぱねたい。なのに何も出てこない。
ぬいぐるみは手に吸い付くようになじんでいる。
「おれは、寂しいよ」
付け加えられたのは、存外切なげで不安になる。
見つめていた瞳が、ゆらりと揺らいだ。
月音は考えあぐねて、どうにか絞り出した声。震えていて頼りなさげだった。
「これも『色』?」
「ああ、そうだよ」
彼も同じく、くまの頭を撫でてから膝をつく。
椅子に座った月音と目線を合わせた。
「人はね、弱い。独りで生きていくなんて不可能なんだ」
経験でもあるのか。
彼の言葉には深みがあり、重みが含まれていた。
耳朶を打って心の底へと積もっていく。
「独り立ち、というが、実際は周りの人間に支えられている。食材を作る人間がいなければ満足な食事は作れない。弱り切ったとき、頼れる人間がいなければ壊れてしまう」
流れるように、しかししっかりとした思いがしみこんだ。
月音は意味を取り入れるために、噛みしめて受け入れていく。
「そして何より、今ある自分を作ったのは、他でもない自分と自分以外の人間だ。関わってきた過去が、今が築かれる。幾人の一部をつなぎ合わせて自分という核をはめてできあがったのが己だ。たとえ、忘れようとも必ず残る。その事実は不変であり独りにはなれない」
嫌でもね。
締めくくられ、月音は目を閉じる。
自分の中でよみがえるのは、たったひとつ。
あの人、母の顔。
食べさせてくれた記憶しか思い出せない。
あまりに少ない。
今までは。
――ひとつ、ひとつ。ここでの思い出が、あふれる。
薔薇の鮮やかさ。
ケーキの甘さ。
彼の体に咲いた華の美しさ。
彼の笑顔。
ぬくもり。
声。
硬くも大きな手のひら。
冷えた心がじんわりとあたたかくなる感覚。
短い期間の出来事が、月音の心に大きく影響し、記憶に刻まれている。
すべて、色がついた。
彼と出会う前のモノクロの世界ではない。
赤、黄色、青、様々な色彩が広がっていた。
目を開ける。
飛び込んだ泰華の顔。下にむければ、くまが見つめていた。
あかいりぼん。くろいひとみ。ちゃいろのけ。
ぎゅ、と抱きしめれば彼と同じ匂いがした。
もう、手放すなどできない。
なくなることが耐えられない。
月音は反発していた己の想いを、やっと受け入れた。
翌日。
彼はかわりなく朝の支度を終えると、名残惜しげに玄関で立ち止まる。
見送りに来た月音と向き合って、気だるげに息をついた。あからさまに行きたくないと訴えているが、月音にはどうしようもない。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
恒例の挨拶に、月音が小さく頷けば、彼はなぜか石のように固まった。
大きく目を見開く顔は、今まで見たこともない色に染まっている。いつも飄々と艶やかな笑みをたたえている、余裕を崩さない男。それが月音の知る泰華だ。
何を驚いているのか。
一拍、おいてから。
泰華はゆるりと顔をほころばせた。やわらかな瞳が、とろりと蕩けるよう。
「いいものだな」
「な、にが?」
「見送りと、出迎えがある。それだけで、ここまで幸せになれるとは思わなかった」
本当にうれしそうに、まるで幼い子供のような無邪気さが月音の目に飛び込んだ。
何度か瞬いて思考を巡らせる。
そして数秒前、己の言葉を思い出して、はっと口元を手のひらで覆い隠した。
ここは自分の居場所ではないからと、強引に言わされる以外では、かたくなに自分から進んで「いってらっしゃい」とは伝えなかった。
彼がそのたび寂しげな色をにじませるのを知らぬふりしてやり過ごしていたというのに。
施設ですら使わなかったのに。するりとこぼれていた。
気まずさが胸の中にうずまく。
走り逃げたいような、じわじわむずがゆい。全身の熱が頬に集まったよう。唇を噛みしめた。
「今日は帰れなさそうなんだ。夜ご飯は作っておいたが、明日の朝ご飯は、部下に運ばせる。ドアノブに引っかけとくから回収してくれ」
「あ、あの」
「それじゃあ、改めて――いってくる」
ひらひらと手をふって、機嫌が良さそうに外へと出て行った。何か言い訳をつのる前に対象が去って、ぱたんと呆気なく扉は閉まった。伸ばした手が行き場を失う。
ただよう残り香にまた熱が上がる感覚がする。
ぎゅっと拳を作って引っ込めてから、足早にリビングへと向かった。
「無意識だった」
ぽつりと、独りきりの部屋に落とした声。
頼りなく目線をさまよわせれば、くまのぬいぐるみがソファで鎮座していた。そっと抱き上げればふかふかで気持ちがいい。抱きしめれば彼の匂いが広がって、息をつく。
この部屋にいるかぎり、彼を意識の外へと追いやるのは不可能だ。どこにいたって、彼の欠片がちりばめられている。
一度色を、ぬくもりを手に入れてしまえば、手放せない。
そんな単純なことすら月音はわかっていなかった。
人間は強欲で、幸せを与えられると、失わないように願ってしまう。
すがりついて、しまう。
くまの背中に顔をうずめて、目を閉じる。
かちこち時計の音がする。テレビをつける気も起きない。
お腹がきゅうと鳴って空腹を訴えた。
前は二日程度、食事がしなくとも平気だったはずなのに。
「昨日の、オムライス」
たべたい。彼が作ったものが。
求める言葉から、再びため息をついた。
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