21話

「何か問題が起きれば必ず連絡してくれ」

「わかりました」

「変な奴を見かけた以外にも、不安とか……あと怪我したとか、読みたい本や何か食べたいものとか。教えてくれれば買ってくる」

「特にないので大丈夫だと思いますが、欲しくなったら伝えます」

「もし誠司からつまらない電話、メールが届いたら無視した上で俺に報告してくれ」

「多分そんなの来ないです。あれば言います」

「あとゲームとか」

「とりあえず連絡は必ず入れるので早く向かったほうがいいですよ」


 延々と続きそうな会話。

 かれこれ三十分は玄関で向き合っている。

 月音の両手を握りつつ、泰華は悲壮感を漂わせていた。本日五回目の重たいため息をつくので、月音は申し訳なく思いつつも心を鬼にして遮る。

 彼は世界の終わりだと顔を歪めた。


「行かないでって言ってくれ」

「ええ……」


 面倒くさい彼女のような発言だ。

 そもそも引き留めたところで彼は仕事へと赴くだろう。

 ぱりっと着こなした黒のスーツに、いつも通りの華やかな香りを漂わせている。身支度は完璧、後は出かけるのみだ。ぴかぴかに磨かれた革靴が動くのを今か今かと待ち構えている。


「可愛い彼女に離れたくないって駄々をこねられたい」

「彼女じゃないんですけどね」

「そしたら仕事捨てて一緒にベッドで寝るのに」

「仕事はした方がいいんじゃないですか」


 彼の背中を押して、外へと送り出す。彼の絶望しきった顔に罪悪感が植え付けられてよろしくない。


 ぱたんと閉じたドアに、月音は背を向けてリビングに戻る。当然、誰もいない。


「確かに、ここは、一人だと広すぎるけど」


 ぽつりと呟いた声は、一人きりになった部屋に存外大きく響いた。寂しげで、誰もいないというのに少々気まずくなる。


 改めて周囲を見渡す。

 じっとしていられず、日陰に置いた薔薇へと近づいて水を確認した。変わらない美しさと芳香が月音を慰めるが、気は晴れない。


 今まで普通に過ごしていたのに、酷く落ち着かない。

 しんと静まった真空のような朝、押しつぶされそうな重量が心にのし掛かり、息が詰まった。努めて深呼吸したが、吸った酸素が喉の寸前で止まって体内には取り込めていないような、気持ち悪さ。


 何かしなければ。何か、何か。


 ぐっと目を閉じる。一人が当然だったはずなのに、泰華が消えた部屋は寒くて凍り付きそうだ。

 無意識に影を探して求めてしまう。

 ぬくもりが欲しくて耐えられなくなる。


 弱く、なってしまった。


 縋る先を見つけようと視線をのろのろと彷徨わせた。小説も風景写真集も、今の月音には何の役にも立たないだろう。


 そっと追い立てられるように扉を開けば、整理整頓されて汚れが一切ないキッチンがある。


「いつも通り、テーブルにお昼ご飯用意したからな」と泰華が言ったとおり、桜色の袋に包まれたお弁当が置いてあった。


 まだ朝の九時だが月音の手は勝手に伸びて開けていた。

 包みと同じ色のお弁当箱の蓋をとれば、可愛らしい大きさの俵型に整えられたおにぎり二つに色とりどりのおかず。


 黄色のふっくらとした玉子焼きに月音は目を細める。

 母の話から、彼は必ず玉子焼きを添えてくれている。味は違う、美味しいとも言わない月音に飽きも、怒りもせず当然と差し出してくれる。


 繊細な優しさを噛み締めて、再び蓋を閉めた。


 忙しいのに食事を作るのだけは欠かさない。彼は決まって「俺が月音に食べて欲しいから」と笑う。負担になるどころか、これは楽しみだから取らないでくれと訴えた。


 彼は月音に色を与えてくれる。

 灰色で、全てがくすんでいた世界を照らしてくれる。

 ただ甘受する月音は、貰うたびに小さな違和感を覚えていたのだが。今何となくだが、理由がわかった気がした。


 何も返せていないから、負い目を感じるのだ。


「……返せるものなんて」


 自分にはない。

 ぎゅうと強く拳を握り、弱気な自分を振り払って必死に頭の中で探る。されて嬉しかったことをひとつひとつなぞって、自分にも出来ないかと思案する。


 ふとよぎったのは、母との記憶。唯一美味しいと思った玉子焼き。母が初めて笑ってくれた、見てくれた。

 思い出すたびに、胸を締め付けられて捨ててしまおうと目を逸らした。それを泰華が引き留めてくれた、過去。


 あのとき自分の心にわき上がる感情が何かなど、わかろうともしなかった。けれど泰華と過ごす日々で同じような感覚は幾度も訪れた。


 玉子焼きや、薔薇の花束をもらって泰華と話した日。

 ふわふわと宙に浮くような、じんわり身体の中心が暖かくなってじっとしていられなくなる。


 おそらく。それが。



「できるかな」


 冷蔵庫を開ければ卵が幾つか並んでいる。

 他にはハム、ベーコン、牛乳などが置かれていた。残念ながら包丁すら握った覚えがない、泰華のようにいくとは思わないほうがいい。


 高望みはせずに至極簡単なのを目指すべきだ。


 ぱん、と両頬を叩いて怖じ気づく自分を奮い立たせた。

 気合いは十分、キッと材料を睨み付ける。

 選ぶ前から、作るのは決まっていて迷わなかった。

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