19話

 花の寿命はどれくらいなのだろうか。


 翌日、行ってらっしゃいと見送った後。月音はソファに座り、読んでいた本から顔を上げた。


 ローテーブルでは目を奪う薔薇が咲き誇っている。朝日を浴びて、香りと生命の輝きを放つのが眩しくて月音は、感嘆の声をこぼした。


 いつまでも眺めていたくて、枯れない方法を探し求めた。当然、生命に終わりは来るので、結果見つからずに寿命を延ばすぐらいしか思いつかなかった。


 ふるりと首を振って、立ち上がる。窓辺に近づけば青い晴天が永遠と続いている。遮るものが少なく町を一望できる。夜とは違い平和が広がっている。見てくれだけは。


 日光に当てるとよくないらしい。場所を移動させてカーテンも閉じた方がいいだろう。

 そっと手を伸ばして。


 ふと。何気なく目線が下へと向いた。遙か遠い外の地面、人々が行き交う日常にぽつりと違和感が立っていた。


 表情は認識できない。

 黒いスーツを身に纏い、マンション入り口で、じっと地に根を下ろしていた。まるで死霊のように、周りの人間から浮き、流れに逆らう姿が不気味で目が離せなくなる。


 性別だけでも分からないか、目を凝らして。


「――ッ!」


 ぐるんと上を向く顔、がらんどうな目と合った気がした。そのまま、人間の腕が持ち上がりこちらを指す。


 ぞくりと恐怖がせり上がり、後ずさる。ぺたんと座り込み急いでカーテンを閉めた。


 どくどくと早鐘を打つ心臓を服の上から掴むように手を置く。


 目の色どころか表情も読めないのにあり得ない。だというのに、あの人間は月音を見た、そう確信した。


 マンションのセキュリティのおかげで、月音の元にはこられない。


 なのに人間がすぐそばまで迫ってくるような、形容しがたい恐ろしさに支配されて身動きがとれない。

 ずるりと、奥底に眠っていた凶暴な考えが這い寄る。


 もし、あれが自分を狙う人間ならば。それならば。


「……おち、つけ」


 ――短絡的だ。ただの被害妄想だ。

 そう自分自身に言い聞かせるように否定を繰り返す。乱れた呼吸を整えて、のろのろと立ち上がった。


 薔薇を持ち上げて、日陰へと移動させる。

 脳裏に焼き付いた光景を振り払うように、ソファに勢いよく飛び込み、身体を預ける。クッションに顔を埋めて瞼を下ろした。


 唯一の持ち物、お守りの役割があったナイフは手元にない。戸棚の引き出しにしまってある、取りに行くのは簡単だ。


 しかし再び手にするのを阻むように、泰華の微笑がよぎる。


 彼が与えてくれた言葉の数々をお守りがわりに、頭の中で唱え続けた。


 今までなら飛び出して、ナイフを握って敵を見定めようと躍起になっただろう。


 なのに今は、逃げるように丸くなるだけ。


 薔薇とまじった泰華の残り香が月音に絡みつく。

 この場所に引き留めて、振り払えない。身体が鉛のごとく重くなって、腕一本動かせなくなった。


 無音の部屋。車の走行音も、人の騒々しさも届かない。押しつぶされて息苦しくて、たまらない。


 心地よかったはずなのに、何か欠けてしまった部屋はとんでもなく居心地が悪いのだと知った。


 心許なさで、おかしくなりそうだった。


 欠けた何かは、夜まで戻らない。

 不完全な宝箱の中で月音は、膝を抱えて丸くなる。

 早く時間が過ぎ去るよう祈るしかできなかった。





「――月音?」


 やがて青空は夕日の赤、淀んだ黒へと変わる。


 電気をつけにいく気力もなく、ソファで包まっていれば「ただいま」と泰華の声が玄関から聞こえた。


 するりと滑り込んできた彼は、異様な雰囲気の月音に気遣わしげに傍まで来る。


 膝をついて目線をあわせる泰華の優しさに触れて、うまく言葉が出てこなかった。

 口を何度かぱくぱくと開閉したが、はくりと酸素を食べだけ。


「――何が、あった」


 声音が低くなる。

 一瞬にして彼から発せられた空気が一変し部屋を飲み込む。急速に温度が下がり、瞳がガラス玉のように色を失った。

 

 見るものを凍えさせ、射殺す冷徹さに月音は思わず息を呑み、身体をこわばらせた。


 彼に宿るのは怒りではない。

 どこまでも冷静で冷たい、状況を判断する。

 機械的でどこか、おぞましい。


「ゆっくりでいい。話、できるな」


 問いかけではない。

 話せと強制する声音に、ぎこちなく頷いた。


 すると彼は、ほんの少し眉を下げて「怖がるな、きみには何もしない」と背中を撫ぜる。

 温かい手が宥めるように動き、続きを促した。


 月音は凍り付いた喉をどうにか動かして、朝の出来事を伝えた。


 遠かったので気のせいかもしれない、と付け加えたのを最後まで聞いた泰華は一拍置いてから、懐に手を入れた。


 ばちりと電撃が走るように思い出したのは出会った日、上着から出てきた拳銃。まさか、と怯えた、が。


「その人間については、調べておく。気休めにもならないだろうが、これを」


 月音の手に、ぽんと置いたのは長方形の物体。

 携帯電話であった。背が赤い色で薔薇のキーホルダーがついてある。泰華の使っているものは別ものだ。


「一人にしてすまない。もしこれから困ったことや、怖かったら気兼ねなく連絡してくれ」


 ぎゅうと抱きしめられて、月音の顔は身体に押しつけられた。


 欠けていた何かが埋まり、宝箱が元に戻る。


 それだけで安心感と幸福感に満たされて、ほっと息をついた。無意識で彼の背に手を回し、服を掴んでいた。

 しわがよる、それでも離す気にはなれず、固く握りしめる。

 縋りつくように、自らすり寄った。


 彼の柔らかな黒髪が肩からこぼれて、頬をかすめる。

 もう覚えた彼の香りに、顔を上げた。


「すみません、ご迷惑を」

「迷惑じゃないさ。それに、きみに頼られるのは嬉しい」


 嘘ではないのだろう。


 いつの間にか温度が戻った瞳は、とろけて月音を捉えた。蜜を纏った熱が流れ込んで、月音の体温が上がっていく。

 

 甘さで溺れて窒息しそうだ。


 くらくらと目眩がする月音を動かし、泰華は後ろから抱きしめ、包み込むようにソファへ座った。

 顎を月音の肩に置いて、頬同士をくっつける。


 いつになく密着するので顔が紅潮する。

 恥ずかしさに身じろぎすれば、どこか楽しげな声が転がった。上機嫌らしい。

 今日はやけに嬉しそうである。心なしから彼の体温も、頬も熱い気がする。


「携帯電話の使いかたは分かるか?」

「いえ、まったく」


 未知なそれ。

 下手にいじって壊さないか不安がつのる。そもそも高級品だろうに貰っていいのかすら疑問である。


「なら、簡単に説明しようか」

「とりあえず離れませんか」

「えっいやだ」


 何を言っているのだ、と心外そうに腹に回された腕に力が込められる。ぐぇ、呻いたが彼は緩めない。


 空いた手のほうで、すいすいと携帯電話を操作しつつ説明していった。耳元で話すのでくすぐったくて仕方ない。


 耐えきれないほどでもない、どうにか意識を集中させて携帯電話の使用方法を覚える。連絡帳には泰華の名と、もう一つ。いやに目立つ名前に目を見開いた。


「凪之誠司さん?」

「あぁ、もし俺が出られなかったら、こいつを頼ってくれ。少々落ち着きがなく、及び腰だがやるときはやる男だ」


 とはいえ。


 一度、それも自己紹介したのみ。

 知り合いにも満たない間柄の男性に電話する気は起きない。特に凪之の関係者、極力関わり合いを避けたいのが本音だ。


「……今更か」


 月音は乾いた声で呟く。

 月花の頭領である泰華に匿われた身、手遅れだろう。

 しばしの沈黙の末に複雑な心境は飲み込んで、頷いた。


「なら練習で、かけてみるか」

「……えっ、いや練習なら」


 泰華さんの携帯電話に。


 慌てる月音の声など聞こえていないかのように、彼は一度見せた操作手順を、もう一度説明しながら指を滑らす。


 まずい、と止めたかったが、既に凪之誠司をタップしていた。


 軽快な呼び出し音は、さぁと青ざめた月音の心境とは破滅的に異なる。

 全身の毛が逆立ち、逃げたい衝動にかられた。

 ぷつ、と音が途切れて。


「――なんだ、どうかしたのか」


 硬質で、威圧感のある。思い出よりずっと刺々しい声音が、機械を通して届いてしまった。

 

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