第六話 身を捧ぐ献身

 闇夜に広がる禍々しき〝暗黒〟。

 ヒグマの赤い巨躯きょくが、夜空を覆う。

 放たれた雄叫びは、賭博で興奮していたぼくらの心胆を一気に震え上がらせる。

 凍えるような恐怖。


 だから、このときに動けた人物は、僅かに二人。


「――――」


 豪さんが立ち上がりざまにライフルを構え。

 月彦さんが、お兄さんからライフルを奪ってトリガーを引く。

 同時に放たれた弾丸が、ヒグマの身体を僅かに押し返すが。

 稼がれた時間は極微。

 しかし、ここで正気に――否、狂気を取り戻した人間がいた。


「きーひゃひゃひゃひゃひゃ! 貴様らの〝負け〟だぁ……!」


 双沢兄が、ぼくらへと向かって何かを投げつける。

 それは空中で弾け、飛沫となって降り注いだ。

 夜の闇の中でも解る緑色。

 免疫抑制剤……!


「ヒグマに食われて死ねぇ! そうしたらよぉ、心臓はまた走り出すからなぁ……!」


 なんて最悪な考えだ。

 ゲス顔で言い放たれるとメチャクチャ気持ちが悪い。

 けれど、その所業が正解であることは間違いない。

 少なくとも、これでヒグマからぼくらは狙われやすくなり、双子はピンチを脱する可能性を掴んだ。


 陽太さんは弟さんへと駆け寄り、何かを耳打ちする。

 社長が、小さく頷いた。


『ゴバアアアアアアアアアアア!!』


 弾幕を無視して突っ込んでくるヒグマ。

 吹き飛ばされる豪さんと社長。ついでに陽太さん。

 最凶の鬼は、一直線にぼくらを狙う!


「田代さん!」

「解ってるわよ……!」


 彼女はポケットから携帯燃料を取り出し点火。

 切り札として用意していた最後の道具――松明へと火をつける。


 燃え上がる炎を見て、ヒグマが一瞬の躊躇を見せ、動きが鈍った。

 そのときだ。


「原作者くん」


 社長が、こちらを見て告げる。

 彼の兄は既にドアを潜って逃げ出すところで。

 月彦さんも、また脱出の準備に入っていたけれど。

 その眼差しはどこまでも真摯であり。


「勝負に負けたのは僕らだ。だから、ヒントを教える。代わりに……その人を守ってくれ」


 視線の先にいたのは、田代さん。

 彼は続ける。


「心臓に刻まれている記号はイニシャルではない。しかし、。全ての要素を思い出すんだ」


 それだけだった。

 それだけを告げて、彼は屋上から姿を消す。

 あんなにも田代さんと情を交わしているようだったのに。

 もっと、重要なことがあると言わんばかりに。


「――――」


 去り際、社長は豪さんを一瞥した。

 交わる二人の視線。

 そこに、どんなやりとりがあったのか解らない。

 重要なのは、目前に迫るヒグマの方で!


「散り散りになりましょう! 固まっているとやられます!」


 ぼくらは距離を取って、出口へと走る。

 ヒグマは、


「なんであたしなのよぉ!?」


 田代さんを、狙った。

 どうしてだ?

 彼女は松明を持っているし、ここに来るまえ猪を調理して大量の煙だって浴びている。一番忌避されるはずで。

 いや、待て……猪を、調理?


「しまった」


 彼女は浴びていた。

 猪の、血を。

 ならば人間よりも、免疫抑制剤中毒の猪こそを主食としてきたヒグマは、彼女を狙うのが必定!

 まずい、なにか打つ手は。


「やらせん!」


 豪さんがライフルを放つ。

 ヒグマの膝に命中。

 さすがに痛みを覚えたのか、その動きは鈍るが、ヒグマはなお執拗に田代さんを追う。


「たすけて、死にたくない、あたしには息子が……」


 崖っぷちに追い詰められた彼女が、泣き叫びながら松明をふるった。

 闇夜に舞う火の粉は、けれど〝鬼〟を退散させる力などなく。

 いま、巨大なあぎとが、彼女へと迫って。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 あがったのは、雄叫び。

 これまで聞いたこともないような、甲斐田豪の決死の叫び。

 彼はその全身をヒグマへとぶつけ、田代さんの頭を食いちぎる寸前だった顎を僅かに横へらさせる。

 へなへなと崩れ落ちる彼女を、豪さんは抱え上げ、突き飛ばした。

 ぼくらの方へ向かって。


 ヒグマが、大きく腕をふるう。

 血が、しぶく。

 豪さんの胸元に刻まれた傷。

 あふれ出す血液。


 赤い手術着が、より濃い赤に染まっていく。

 崩れ落ちる彼。


 ヒグマがこちらへと向き直る。

 絶望。

 みな、死を覚悟した、そのとき。


 ヒグマの動きが、止まった。

 凶獣の足下に、しがみつく影。

 甲斐田豪が、両目を見開き、決死の表情で分厚い毛並みになにかを突き立てている。

 それは、ナイフ。

 海島さんの初期アイテムで、田代さんが譲り受けた刃物。

 先ほどのすれ違いざま、彼はそれを手にしていたのだろう。


 いま、獣はうなり声を上げながら、不思議そうに豪さんを見下ろし。

 とどめを刺そうと、腕を振り上げ。


「豪さん……!」

「後を頼むぞ、トウサク」


 ナイフが引き抜かれ、これ血らへと投げられる。

 託される、刃が。


「いや――」


 豪さんは、光るものをタップした。

 端末だ。

 同時に、ヒグマが大きく突き飛ばされる。


『グラアアアアアアアアア!?』


 驚愕の声を上げる獣。

 その巨体を押し込んでいるのは、軍用四つ脚ロボットで!

 そうか、いま心臓は、豪さんの指示下にあるから。

 でも、あと一歩足りない、ヒグマは、屋上のヘリで持ちこたえて。


「田代を頼むぞ――


 巨大鬼の身体が、一気に傾斜。

 豪さんが、捨て身の体当たりを敢行したからだ。

 足場を踏み外し、落下をはじめるヒグマの巨体。

 同時に、ロボットと。

 そして――甲斐田豪もまた、落ちていく。


「豪さん……!!!!!!!!!」


 ぼくの叫びを受けて、彼は微かに。

 本当に微かに、微笑んでいた気がした。


 ヒグマの鳴き声。

 巨大な影が、屋上から消える。

 数秒後、大きな音が、海から響いた。


 そして――静寂。


「うそ、よ……」


 へなへなと崩れ落ちる田代七生。

 ただ無言でメガネの位置をただす六車法子。

 そして、羽白一歩は。


「――――」


 キツく奥歯を噛みしめながら。

 血が出るほどに拳を強く握りながら。

 どうしようもない現実を、分析し、受け容れるのだった。


 かくて、新たな脱落者が現れる。

 残る心臓は二つ。

 参加者は――4+1名。


 最後の。

 そして最悪のイベントが、間近に迫っていた――

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