【肆】あるにもあらず消ゆる帚木

 †

「数ならぬ──」

「ハァいッ!!」

「はい、おえいさんに十五ポインツ」

帚木ははきぎィ! 手加減してほしいのは今朝けささんの母君ははぎみぃ!」

「まだまだ若いモンには負けんよ」


 一月七日の夜は思いもよらず暖かかった。

 なのでいつもは寒気にうち恐れて半ば病人の如くなる野口のぐち今朝雄けさおの母のおえいも珍しく一階にいる。

 今夜は若い人のようにカルタでも弄ろうと自身が若い頃に作った『源氏合わせ』を持ち出し、近所の女の子達を集めて楽しく遊んでいた。


「おえいさんが若い頃って何年いつだろう……」

寛政かんせい(西暦1789年)?」

元禄げんろく(西暦1688年)じゃない?」

「おいち、およね、おいつ。アンタたち三人はお年玉が不要いらんみたいだね」

「「「申し訳ございません!!」」」

「こらこら、失礼な事を言うもんじゃないよ。オバさんを怒らせちゃダメさ」

 そんな和やかにかしましい団欒だんらん秀三郎ひでさぶろうは書を手にしつつのんびりと眺めていた。

「確かオバさんがそのカルタ作ったのって寛弘五年むらさきしきぶの頃ですよね。アハアハアハ」

「「「アハハハハハハ」」」

「ギャヒー!!」

 この夜は大いに盛り上がり、特に秀三郎の冗談が優勝おおウケであったが、その代償かわりに全員分のお年玉を支払う事になった。


 †

 夜の十時過ぎ、女の子たちが帰宅するというので秀三郎は皆をそれぞれの家に送り届けた。

 戻る頃には時計の長針と短針が合わさり殆ど十一時となっていた。だがなおも今朝雄は帰ってこない。

 火鉢の側にはおえいが人待ち顔で茶を飲んでいた。息子の帰宅が遅いことを心配する老母を慰めようと思い、秀三郎は火鉢の傍らに座った。

 キセルに一服火を付けて。


「オバさん、暖かいようでも寒中は寒中ですね。今少し風が出ていたものですから、外はめっちゃ寒いですよ」

「私の身体の所為かと思ったら、お前さんも寒いかね。早く暖かくなってほしいものだ」

「そうですとも、僕も冬は大嫌いだ。それと御二階なんですが行火あんかを入れておいたから、もう寝たらどうですか?」

「そうかね、それはありがとう。でも今夜はなんだか眠くないから、もう少し起きていますよ。ひでさんはいつも朝早いからお眠いだろう。私に構わずお休みなさい」

「なぁに僕なんざぁ夜更かしは平気だから、野口君が帰るまでは起きていますよ。なぁに眠くはありません。何なら今から寒中水泳スイミングすら出来ますよ。アハアハアハ」

 笑い飛ばす秀三郎に対し、おえいはお礼を込めて軽く頭を下げた。

「それでは私ももう少しお話をしよう。秀さん、お前に聞いたら分かるだろうが」

「ハイハイ。内海クンが何でも聞きますよ」

 おえいは少し、申し訳なさそうな面持ちで目を細め。


「なんだか嫁の事で、潮多うしおたの方が、水口みなくちとかいう人に心変わりがした様な話をね。ちょっと耳に挟んだが、お前さんはご存知かい?」

「…………」


 今までこの事を一言一句口外していない、だのに何故……?

 秀三郎はこの事実を知っている者として、潮多うしおた一家、水口みなくち 青澄はるずみ、野口今朝雄、そして自分だけだと思っていた。

 今朝雄が自らこの事を老母に言いふらす訳がない。そもそも彼はこの事を問題視していない。

 それに彼は人を心配させる困った男であるが、人を心配させるような事をわざわざ言う男ではない。

 どこで聞いたか分からないが、おえいは知ってしまったのだ、水口の存在を。


(どう……答えるべきか……)


 本当の事を伝えたら、おえいは大きく落胆するであろう。

 だからといって情けで嘘を言ったらどうなるか……秀三郎は一瞬だけ考えた。

 今後の成り行きが予測しがたいし、誤魔化し続けなければならなくなる。情けの海の航海に勝手な指標を示したら、大騒ぎとなって沈まりかねない。後悔の藻屑になる。そうに決まっている。その後は恩義ある老母を騙して、親友をを嘲弄ちようろうした大罪人たいざいにん烙印らくいんを刻まれて恨まれかねん……。

 だからといって、わざと知らないと答えて思考を止めるのは、良心を捨ておいた恥をかく無能……。


 既に質問から三十秒もかかっている、だが心中は今も非常に大慌てである。

 おえいはじっと答えを待っている。

 もとより食言家ウソツキなんて向いていない、ならば……。

 秀三郎はキセルをはたと叩いて。


「あー、あのことですか、私も何でもはよくは知りませんがね。潮多うしおたの身内である玄七げんななが知り合いの男を紹介したとかで、そんで縁談を言い込んだという噂は聞きましたがね。深い事情は私もよくは知らないんですよ」


 秀三郎は"真実"を話す事にした。

 おふきが水口みなくち家に嫁入りさせられそうになっており、今の今朝雄はそれを止める術が無い。

 そんな危機的状況に陥っている、と秀三郎は推理すいりしている。

 だが、今は決定的な証拠が無い、であれば伝えるべきは自身の憶測以外のことだ。

 『下手な思慮しりょは騙すに等しい』と誰かさんが言っていた。もとより騙す真似はしたくない。


「それでも先ほどの人物は知っていなさらない事はなかろう。その水口みなくちという人は何者だね?」

 そのような質問も一度素直になったのだから、安心して答えられる。

水口みなくちかぁ……僕もどうもよくは知らないけれども。多分、『水口みなくち 青澄はるずみ』という男の事だと思います。アイツ関係なら左様さ」

 宿敵の情報を脳にまとめ、物語るかのように秀三郎は話し始めた。


「オバさんは知らないかもしれませんが、水口家って元々大久保にいた百人同心で、一時期は官手付になったお偉いさんだったらしいんですよ。そんで維新で瓦解した際にふてぇ事をした、なんて曰くがあり。そんでそんのドラ息子むすこ水口みなくち青澄はるずみだそうだ」

 江戸から明治に変わった頃、まるで戦乱の如く全国各地でがあった。だからこそ、場所は違えど似たような事をした過去を持つ寛三かんぞうと馬が合った所もあったのかもしれない。

 まあ、馬が合うかどうかは秀三郎の推測でしかないが。


「今はね、木挽こびき町八丁目に玄関構えの立派な家に住んでいやァがるが、確か今では何だろう、金貸かねかしかなんかしているらしい」

 これも確かな情報だ。金貸し同士であるのなら、むしろ繋がりたくない理由がない。


「その家の兄貴うえのほう東京とうきょう株式かぶしき取引所とりひきじょの儲け師だったらしいんだが、ところがその兄貴という男は不運な奴で儲けた後に熱病でおっんじまったって話だ」

 ちなみにそのアニキは死ぬ前に取引所で彼方あちら此方こちらの相場を利用してシコタマ金を儲け込んでいた、という話もあるが、閑話休題それはさておく

 死人に口無し。鞭打つべからず。


青澄はるずみという、そのふゥチャンを貰いたいという人間は次男だったがね。兄貴が死んじまった後に、その財産をそっくら相続して今では兄貴の金を浪費する、まあ道楽どら息子ならぬ道楽ドラ衛門えもんな奴さ。アハアハアハ」

 浪費と悪く言っているが、実際は仲間に金を貸したり、地面の売り買いをしたりしているという財テクに長けた奴ではあるという。

 兄弟揃って金目についてはお利口さん。


 その話を聞き終わったおえいはむしろ得心なっとくしたと言わんばかりに頷き「大した働き者だわ」と評した。

 ……に対して?


「それで潮多では手前テメエどもの義理をいてその人を迎えてやりたい気があるのかのェ?」

 真実を切り込もうとする物言いに、秀三郎は黙るしかなかった。

 おえいも、ただうかがうだけではない。

 意図して外した話を聞き出そうとしている。


「そりゃあ……」

 そうかもしれない、と言うのを止めて、少し思案し。

「……まさか新富町の方だってそんなことはあるまいが。第一に僕の考えるにやぁ、よしんば御両親にはその気があったにしろ、おふきさんが承知をしなけりやァ仕方のない話で。今時に親が無理押しをする事は出来ないから。なぁにオバさん大丈夫だよ」

 正直、この弁明は秀三郎の発言ではない。だが、嘘でもない。

 ――今朝雄の言葉を、そのまま伝えている。

 だがその返答はおえいを納得させられなかった。


「いや、あんまりそうでもあるまい。老人としよりの愚痴と言いなさるかもしれないが、寛三かんぞうさんはとても随分によくぶかひとでねぇ、ここぞという時におかねさまに弱い性格たちがあるのさ」

 それは、知っている。

 人情が欠けてた者ではないが、金が無ければ人情は守れないと考える人だ。

「それに、どうも私の腑に落ちないのはね。明けて去年の六月にせがれがお人減らしとやらで御役御免になると、すぐその翌日よくじつに『両三日内に是非とも娘を引き取って欲しい』と言うて来たぢやァないか」

 確かに、秀三郎もあの時、あまりにも都合が悪すぎるタイミングでの物言いに疑問を感じていた。

 ……正直、潮多家が裏で手引きしたのではないかと疑ったぐらいだ。

 だが、今も真実は分からない。


「秀さんも知っているだろう。こっちから言い難いを思いをして実はコレコレだからもう少し延ばして下さいと手の平擦って頼んだのになんという返事だろう」

軽諾けいだく寡信かしん妙齢としごろの娘でござるから誠にどのような事があるかと不安心でなりません。もし急速にお引取りが出来ないなら、前に御取交せ申した結納を反古にして、いずれ改めて御相談を申しましょう)』

「という意味があっての発言のものか、ないものか、大概にお察しなさい」

「いや、まあ。確かにそうですね」

 相槌したが……実は、寛三かんぞうの日頃の言動は誤解を招きやすいという噂も同時に知っている秀三郎は承服しょうふくし難かった。

 あの人、言動が少ない割に自身満々だから悪い解釈をしようとすればいくらでも出来る、判断に困る相手だ。


「ねー、そういう奴だもの。よっぽどこっちからピシャリと断ろうかと思ったけど……まあ、少し金の拝借もあるし。せがれもあのが大層気に入っていて、あんなによわかった道楽ギャンブルも忘れたように止まった程だから」

 親は子に弱いからねぇ、と憂いつつ。

「いやいやもう少し辛抱してやろうと思い直して。なんとか頭を下げて反古ほごまではさせなかったけれども。どうも最近チョイと人伝に変な噂を聞いた時、腹が立って腹が立って仕方が無かったのよ」

 

安居あんい楽業らくぎょう御子息ごしそくさまは、なかなかはたらものだ。私も安心だし、娘も幸福しあわせかも知れません)』


「だなんて人がさかえている時には調子の良い事を言っておいて、御役おやくが上がったと聞くと手の平返す掛け合いだ。薄情にも程がある。いっそのこと直接、寛三かんぞうさんに噛みつきに行ってやろうか思ったわ」

「噛みつけばよかったじゃない。オバさんは歯がないから大丈夫だよ。傷が付かないからねー。アハアハアハ」

 と秀三郎は冗談で彼方への怒りを慰めようとするも、いつものような反応が無かった。

 おえいの顔を見ると、老眼が涙に浮ぶが如く、火鉢の縁を握り詰めたる拳の上に額を押し当て、雪をも欺く白髪頭が風もないのに揺らいでいた。

「…………」

 やがておえいは憤意の熱湯のごとく酷い咳をあげた。

「ゲホン、ゲホ、ゲホ」

 秀三郎ひでさぶろうはすぐに後ろに回り、背中を撫で擦った。

「オバさん。どうしたの。え。おばさん。え。苦しいかね」

「あーもう沢山。あーもういい。ひでさん、申し訳ないけどお湯を一杯くださいな。コホンコホンコホン」

 すぐさま火鉢のすぐ傍にあるポットから、冷めたお湯をコップに入れた。

「よし来た来たサァ、お湯だ。さあ一気に飲むとむせるよ。いいかえ。オバさん。冷めてるよ。さあよ。オバさん」

「あい有難よ。はいもう沢山。あー苦しかった」

 おえいは頭を押さえホッと息をした。


 それからは、特に話も何も無かった。

 秀三郎も座るのみで、腕をこまねいて静かにただ待つ。

 心無い隣家の柱時計はキンキンとして午後24時を報じた。今朝雄からは何も連絡が来ず、死灰の如く音沙汰がない。


 秀三郎は老母の身体を心配し、密かに様子を見て。

「オバさん。そんなにキナキナ思わないで、まあ長い目で見ておいでなさい。潮多さんだって根が御懇親こんしんの間から、まさか義理知らずもなさるまいね」


 それは自分に言い聞かせる意味合いでの言葉でもあった。

 だが同時に秀三郎はも思う。


 秀三郎は、色んな事を調べて根拠を並べた結果、おふきが親に従うのではないかと、疑っている。

 今朝雄は、事を知ろうが知るまいが、おふきは親の言うことをただ従う人ではないと、信じている。

 つまるところ、それだけの違いだ。


 根拠なくとも人を信じているような人を、せせら笑い、見下すことはしたくはない。

 そもそも今朝雄は楽観的と思われるが、向こうからしてみれば秀三郎は悲観的すぎると言えよう。

 実際、秀三郎は似たようなことを今朝雄から言われたことがある。


「オバさんあまり起きていらっしゃるとまた御身体に障りますよ。もう十二時打ちましたからお休みなさい。行火あんか欠伸あくびをしていますよ」

 そう言って立ち上がるも、おさかえはまだ話が終わっていなかったようだ。

「でもねぇ。それより、四方山よもやとは思うけれど、本当に私の心配でならないのが今朝雄の方さ。せがれには悪い癖があるからねぇ」

「悪い癖って何だい?」

「他でもないひでさんが知っての通り、せがれは凝り性の代わりに一つの事が間違うと、ムラムラとした気が出て前後の考えもないあらい事をする病があって。時々これで泣くことがあるからねぇ」

 それは、知っている。

 

「だから頼りに思うのが、秀さん、お前さん一人だから。……どうぞ癇癪の起こらないように慰めてやってくださいよ」

 大きく頭を下げたおえいに対し、秀三郎は恐縮した。

「いいともいいとも! それはもう心配しなくていい! きっと今夜の帰りが遅いのは、大方おおかた先方の都合が良かったので、きっと泊まって来なさるのに違いなし! それじゃ僕が戸締りするから早く暖かくして御休みなさい。オバさん」

「ああ寝ましょう寝ましょう。秀さんも眠いだろうに心無い愚痴話をしておおきにお邪魔しました。さあお休みなさい」

 二人は二階へと上がった。

 秀三郎は下に戻ろうとした間際、おえいは念押しするかのように頼んだ。

「どうぞ今の事はくれぐれも頼んだよ。秀さん」

「ああ、良いですよ。内海うつみ秀三郎ひでさぶろうが確かに請け合った!」

 それだけは、根拠が無くてもはっきりと言えた。


 なぁに、何かがあったら、僕がまた走ればいい。

 そう前向きに想い、話を終えた。






 ――だが、なおも今朝雄は帰ってこない。

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