第35話 涼 29歳 春 ロウの過去

 涼の部屋で伊那は二人分のお茶をいれてから、椅子に腰かけて話し始めた。

「涼さんがアメリカに行くと決まったとき、いつかはバレるだろうな、と二人で話していたのよ」

「びっくりしましたけど、むしろどうして気づかなかったのかな、と思いました」

 涼はそう答えた。ロウとは同じ舞台俳優という職業だったのだ。

「いつかは話そうとは思っていたけれど、昔の打ち明け話に時間を割かなくても、ほかに話すことはたくさんあったしね」

「それもそうですね」

 ときどきは二人の過去が気になってはいたが、他にも話すことはたくさんあり、飽きるようなことはなかった。

「あ、そうだわ、私はフランスで暮らしていたから、英語は得意ではないのよ。あなたたち三人の会話にはあまり参加できないわ。だいたい話していることはわかるけど、とても深い話には参加できなくて」

「ロウさんは英語が得意なんですか?」

「彼はイギリス育ちなのよ。だからクィーンズイングリッシュだけど、英語は問題ないわ」

「イギリス?!中国育ちじゃなくてですか?」

「彼は終戦の年の生まれでしょう。父が中国人で母が日本人なのよ」

「公式には中国人としか書かれてないけれど、どう考えても中国人の日本語じゃないから、どういうことだろうと悩んでいました」

「話すのは完璧だけど、実は日本語の読み書きはあまりできないのよ。もし読み書きするようなことがあったらバレていたかもね。彼の才能は聴覚のほうに偏っているから」

「つまり多言語の音を聴き分けられるってことですね」

「涼さんもそうでしょう?」

「まったくロウには及びません」

「ロウとは年齢が違うわ。これから涼さんも、他の言語を覚えるかもしれないし」

「言語を習いたいと思っているわけではないですが、英語以外の歌も気にはなっています」

「私はマスターしたといえるのはフランス語だけだから、たいしたことは言えないのだけど、違う言語を覚えるというのは、どんどん世界が広がるということよ。ロウを見ているとそう思うわ。あの人は言語の達人だからね」

「ロウさんは、いったい何か国語話せるんですか」

「中国語、日本語、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、この六か国語が問題なく話せる言語。少し話せる言語なら、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語、ロシア語もいけるわ」

「すごいですよね」

「彼は日本と中国のハーフだから、言語に苦労しながら育ったとも言えるし、どうしても言語能力を獲得しなきゃいけない必要性もあったのでしょうね。

 ロウの両親のそれぞれの父親、つまりロウの祖父同士が日中の間を越えて親友だったのよ。母方の日本のおじいさんのほうが中国で働いていたのね。親友同士のふたりの同い年の子供たちは自然に恋に落ちた。でも、日中関係はどんどん悪化し、ついに戦争状態に突入してしまった。ロウの母方のおじいさんは、娘を恋人から引き離すのか、自分が娘と生涯会わない覚悟をするのか、その選択を迫られて、泣きながら娘を親友に託したのよ。お前の娘と思ってくれ、と言ってね。

 戸籍は終戦のどさくさに紛れて母親が日本人だという証拠を消したのよ。あの頃、お金を使えばそれはできたらしいの。日本は敵国だから、ロウのお母さんは日本人だということを隠さなくてはならない。小さい頃はあまり戦火のなかった中国の田舎で暮らしていたそうよ。中国は広いから、あまり日本軍の影響のない場所だと、それほど日本人狩りも厳しくなかったのね。だけどそれもバレそうになって、ロウの父方のおじいさんは、若い二人と子供たちを外国へ逃がすことにしたの」

「子供たち?」

「ロウには妹がいたのよ。早くに亡くなってしまったのだけど」

「そうなんですか」

「どこにしようか散々悩んだうえで、イギリスにしたのね。イギリスにもアジア人の差別はあるけれど、イギリス人には、英国紳士気質に訴えれば平等と博愛の精神を発揮するところがあるのよ。もちろん、これからの時代、英語を学ぶことが役に立つだろうという先見の明もあったらしいわ。

 ロウがピアノレッスンを始めたのもイギリスよ。最終的にロウはピアニストにはならなかったけれど、音楽的才能もピアノの才能もとびぬけていたらしく、それでどんどん上級の先生に学ぶようになったの。

 妹さんが亡くなったのはロウが十歳のときで、小児がんだったそうよ。ロウのお母さんは、それまでも苦労が多い人生だったから、子供を亡くしてちょっとおかしくなってしまってね。それで一家は温かいイタリアに転地療養に行ったの。そのときにロウはオペラに出会ったのよ。家の中がずっと暗かったから、イタリアの人たちの明るい歌声が救いだったって言っていたわ。それからオペラも習い始めるのだけど、アジア人だから、オペラで舞台に立てるとはロウもまわりの誰も思っていなかったのね。

結局イタリアには2年いて、またイギリスに戻るわけだけど、その頃にはロウはもう、将来はピアニストになろうと決めていたそうよ。

 もしロウが初めからオペラ歌手になろうと思っていたら、音楽院はイタリアかオーストリアを選んだかもしれないわね。でもピアニストのつもりだったから、憧れのショパンがいたパリにしたの。もちろん、ショパン自身が、難しい政治問題を抱えた祖国から逃げてパリに暮らしていたことを知っていたからでもあるわ。フランスは、そういった問題を抱えた芸術家を保護してくれるから。

 パリ音楽院で出会った先生が、ロウの歌を聴いて、君はオペラ歌手になるべきだ、と言ったのよ。アジア人であるロウが舞台に立てるように、いろいろ手を尽くしてくれたそうよ。それからのことは、だいたいは潘彪のプロフィールに書いてある通りよ。

 私はどうしてもパリ大学で学びたいことがあったから、高校を卒業した後でパリ大学に留学したのよ。そこでロウに出会ったの。オペラ歌手といっても、フランスの人たちは芸術家として扱うから、日本での芸能人の扱いとは違うのよ。

 ロウに出会ったときは・・・そうね。私の一目ぼれよ。あの鋭いまなざしにハートを撃ち抜かれて、黄金の声に体中が震えたの」


 そう言って、伊那は肩を竦めてふふっと笑った。

「伊那さん、詩人みたいな表現ですね」

 涼もそう答えて、つられて笑った。

「いま思いついたのよ、この表現。ロウに出会ったときのことを、改めて話すのは不思議な感じね。でもきっと、ロウのほうは小娘だと思ったに違いないわ。私たちは年齢が離れているからね。ロウは日本にずっと憧れていたから、私が日本人だから話しかけたのよ。その次に数学科って面白いなと思って、そのあとで私自身に興味を持ったのではないかしら。ともかく、最終的にはつきあうことになったの。

ところで、ロウが母国とトラブルを抱えていたのは知っているかしら?」

「正しいかどうかはわかりませんが、ネットで見ました」

「ロウのお父さんが行方不明になったのね。結局お父さんがどうなったのかは今でもわからないわ。母国とトラブルになったために、彼のパスポートは特殊なものになってしまった。ヨーロッパ諸国とアメリカは入国させてくれたけれど、日本入国は断られたの。日本って、ものすごく入国審査が厳しい国なのよ。政治的トラブルを抱えていたりしたら入国できることはないわ。だから彼は日本には行けないとあきらめていたけれど、本当はずっと日本へ行きたかったのね。

 中国とトラブルがあり、ヨーロッパの舞台で活躍しているオペラ歌手が日本に帰国した、となると大騒動になるでしょう。騒動を避けるために引退したという部分もあるわ。引退して、経歴を隠して、中国残留孤児と同じ扱いでそっと日本に入国したのよ。幸い、日本ではオペラはそんなに人気がないから、気づかれることもないだろうと考えたの。

 それにロウ自身も、大きな舞台で歌うより、今みたいな生活をしてみたいと望むようになっていたの。田舎で静かに暮らして、訪れてくるほんの少しの人たちと、ゆっくり深く語り合うような生活がしたい、そんな風に考えるようになっていたのね。

 私はロウと一緒にいられればどこでもいいの。日本で暮らすようになってから、ロウといろいろ話し合って、こういうペンションをやってみようと思いついたのよ。ロウを経営者に入れてしまうと、いろいろ書類上の問題が難しくなってしまうから、私一人の名前にしたのだけど、実際にはロウと話し合って決めたことよ。フランスで一緒に暮らしていたときから、ロウは外国の舞台があって留守が多かったから、四六時中一緒にいられなくても大丈夫なの。

 エリクサには日本に来るときお世話になった人や、もともとのロウの知り合いで事情を知っている人が尋ねてくることもある。ここに偶然やってきた人でロウの正体に気づいた人は涼さんで三人目ね。でも涼さんはロウと同じで舞台俳優だからそのうちバレるだろうな、と二人で話していたの。

 今日来てくださった監督のことはずっと前にロウから聞いていたわ。ロウは彼に連絡を取っていなかったけれど、彼の作品は必ず見ていたのよ。涼さんが監督の作品に出るようになるなんて、人の縁の糸って不思議よね。見えない糸を張り巡らせている見えない存在のことを感じると、うれしいしなんだか安らぐのよ。運命を信じていいって感じられるの」


 伊那は長い話を語り終わり、ふっと息をついた。涼は初めて聞くロウの波乱に満ちた人生に想いを馳せた。ロウの歌の素晴らしい深さ、彩りの豊かさは、普通ではない人生ゆえなのか。ロウの域に達するにはまだまだ遠いな、と感じていた。


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