第25話 涼 26歳 春 そして夜

 涼は、伊那にもらったふたつの前世を改めて読み返した。


 中国の不自由な体を持った人生、モロッコの自分を偽って生きた人生、そしてフランスの故国を離れて生きた人生。どちらにしても、本当の自分の想いを抑えて生きていることが多い。

 ロウの言葉が蘇った。

「本来いるべき場所から引き離された望郷の念が、人の心を打つ歌声になったともいえる」

 そうやって、いろいろな前世で引き継がれた思いが、今世の歌に反映されて、たくさんの人が聴いてくれるようになったということだろうか。あまり幸せではなかった前世の郷愁や憧憬が、反転して今世の成功につながったりするのか。


 伊那の疲れた顔を思い出して、涼は改めて心配になった。大丈夫、と言っていたが本当に大丈夫なのか、どれくらいのエネルギーを消耗するものなのか。涼の体にはまったく疲れはないが、そんな風にエネルギーを消耗して大丈夫なのだろうか。伊那はこの方法をロウと見つけた、と言っていたが、今までに他の人にやってみたことがあるのだろうか。

 涼はふと気がついた。もしやロウがいなくなったのは、伊那が涼に前世をみせるためだろうか。自分はそういう不思議な力に詳しいわけではないが、当事者でない人間がいたら、邪魔になりそうな気がする。伊那が涼のエネルギーに集中するためには、ロウがいないほうがいいのかもしれない。

 伊那とロウは、いったいどういう月日を重ねて、ここにたどりついたんだろう。


 エリクサにくると、いつも不思議なことが起こる。伊那は前世を読めると言ったが、まさか本当に見せてくれるとは予想しなかった。いや、見せてくれたわけではなく、体験させてくれたのだ。違う時代にいる違う自分の体の中に入って、そのときの思いを体験した。あの前世の家族は見知らぬ人ばかりだったが、ただひとりロウだけが同じ密度を持っていた。あの後、前世の自分がどうなったのかはわからないが、どう考えてもロウが重要な役割をしている。


 そんな風にいろいろと思いを巡らせながら、最後に涼の想いは、ロウに言われた「弧」のことに向かっていた。涼の歌声に存在するという「弧」のことを。

 ヴァイオリンの先生は、いつも言っていた。

「涼くん、ヴァイオリンは優しく扱ってね。そっと優しく、愛を持って奏でるのよ。ヴァイオリンは生きている。優しく触れれば、優しい音を返してくれる」

 先生のヴァイオリンは、たしかに透き通るような優しい音が響いていた。先生がヴァイオリンを弾いてくれるときの、静かにそっと滑らせるなだらかな体のラインと弓のライン。そうだ、あれこそが「弧」ではないのか。

 もしも自分の歌声にヴァイオリンの音色の弧があるのであれば、それは涼がヴァイオリンを弾くからではなくて、涼の中に先生のヴァイオリンの音色が移ってしまったからではないか。そして前世でも、自分は先生の弾く擦弦楽器の音を愛していたんだ。そのときは声をかけることすらできていない。


 先生は結局、結婚して七年目に、子供がいないまま離婚して東京に戻ってしまった。涼が十二歳のときだ。子供ができなかったことが原因だとまわりの大人たちは言っていた。だが涼には、いつまでも先生のまわりだけが静けさが漂っていて、家族であった他の人たちと空気の色が違っていたことが原因のように感じられた。

 先生は、ヴァイオリンが好きな涼のために、新しい先生を探してくれた。私は東京に行くことになったから、と、まだ十二歳の涼には詳しい話はしてくれなかった。

だが、新しい男性教師のヴァイオリンの音色は、優しくはなかった。力強かったのかもしれないが、涼の耳には強すぎて耳障りに聴こえた。涼が好きだったのは、先生のヴァイオリンの音色だけだ。涼と新しい教師の相性もよくなかったのだろう。いつのまにか涼はヴァイオリンへの興味を失い、高校に上がるときに辞めてしまった。

 

 いま先生はどうしているんだろう。やっぱりヴァイオリンを教えているのか。東京のどこにいるんだろう。涼が俳優になったことを知っているのか。それとも涼のことに気づいていて、そっと舞台を見に来てくれていたりするのか。もし気づいて、舞台を見に来てくれたとしても、先生はロウと同じように黙って帰ってしまうだろうな。涼はそう思った。


 ロウがいつエリクサに戻ってきたのかはわからなかったが、夕食のために呼ばれると、テーブルにはスペイン料理が並んでいた。どうやら、涼が最後に見たスペインの前世に触発されて、突然スペイン料理に変更になったらしい。しかもスペイン料理の指揮をとったのはロウのようだ。伊那がまだ疲れていたからなのか、夕食はかなりの部分をロウが作っていた。


 ハム・チーズ・野菜・肉など、多種多様な具材を棒で突き刺したピンチョスが並び、コシード・マドリレーニョという名前のスペイン風ポトフのようなスープがあった。スペイン料理としてよく知られているパエリアを、コメからパスタに変更したものもあったが、それはフィデウアという名前だと教えてくれた。


 夕食の席では、ロウがほとんどしゃべっていた。

 この人、こんなおしゃべりだったかな、と涼は思ったが、おそらく気を遣っていたのもあったのだろう。

 伊那はあまり口を利かず、あまり食も進んでいなかった。まだ疲れているのだろうが、繰り返し声をかけるのもためらわれた。夕食を終えたあと、涼は早めに部屋にひきあげた。


 天窓からは星の光がさしている。北極星も変わらずまたたいている。今日も今日で、いろいろなことがあったなと、涼は思い返しながら星を眺めていた。

 思い切って、この部屋を契約したいと言ったこと。

 久しぶりにヴァイオリンの話をし、先生を懐かしく思い返したこと。

 中国の前世と、前世から続いていた先生への恋心。

 モロッコの前世と、自分のアイデンティティと、歌を通じた異世界へのアクセスのこと。

 フランスの前世と、前世でのロウとの出会い。

 前世を体験させることができる伊那の不思議な力。

 前世の音楽を再現できるロウの不思議な力。

 そしてふたりの不思議な組み合わせ。


 伊那は自分に前世を体験させてくれたが、最初の二つの前世は、伊那がロウに体験させたのだろうか。伊那がロウに送った映像を見て、聞いて、ロウはあの音楽を再現したのか。そもそも、「前世を体験させる」方法をロウ自身はできないのだという。

だが、涼の前世をどうやってロウに送るのだろう。聞いてみようか。聞けば答えてくれるのだろうか。

 そういえば、前世は吟遊詩人につながっているのではなかったか。どんな風につながっているのだろう。


 天窓から、星々の光が降り注いでいる。この部屋では、北極星がいつも自分を探しているのだという。地上の人々が星の光を仰ぐように、天の星は地上の人の夢をきらめく星のように見つめている。

 裏山のどこかに、一本角の鹿が眠っているのだろうか。前回はまったくわからなかったが、山の神に会えるだろうか。

 今日の北極星も、美しくまたたいている。そして三月なのに、ずいぶん冷えてきたようだ。


 その夜、北極星はなにも語らなかった。涼は少し残念に思いながら、ゆったりした時間を過ごし、ゆっくり眠った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る