第4話

 彼の息子は以前に同じところを訪れていた。それは彼がここへ時々足を運んでいるからであり、しかしその時、兄の何を思っているかといえば、別段何に関しては興味もないようにしているわけで、場所という概念に兄が出てくることのほか、別段彼自身の生活の中で、兄はいてもいなくても変わりなくなってきていた。 C海岸に着いた頃にはすでに陽は山際へ沈んでその輪郭の端だけが紅く燃えるような色をしていた。車を降りて、子供もおろす。風は詰めてく少し強めに吹いていた。 彼は息子を海岸まで連れていく。

「きれいなお空だなァ、宏」

「ただの夕方だよ」

 なかなか現実的な子供である。そしてこの子を見ていると、ある一つの胸糞悪さが彼を襲う。

 去年、彼が父親の住む長野へ向かった時のことである。その時も今回同様「またこの子を連れて行くの?」と嫁が言う。

 その前には「お義父さんに子供を預けるとなんだか取られちゃったように感じて嫌なの」「宏、もしかしてお義父さんのところに行ったまま、もう帰ってこなくなっちゃうんじゃないかな?」「お義父さんは宏のこと養子にしたいとかいうんだもん」

 彼にはそのどれも当てはまることはなかった。子供を養子にしたいというのは相続を養子にした孫にすれば税がかからないというだけの話で、本当に養子にして彼の家族から切り離してしまおうと考えているわけではないからだ。

 しかし、嫁はいくらそう話しても彼の父のことを疑ってかかり、不信感を募らせた。彼には嫁がどうしてそうなるのか理解できなかったがこれだけは守ってほしかった。

「今のこと、絶対に父親の前では言わないでくれよ」

 彼は浪打際に息子を連れていき、波に向かったり、押し寄せる波から体を引いて逃げたりと、それらを繰り返して見せた。 子供はそれを見てとても嬉しくなり、同じことを何度も繰り返した。

「ほらほら、早く逃げないと濡れちゃうぞ」

 子供はキャーキャー叫んで波に向かったり、逃げたりを繰り返している。 父は寄ってきて話した。

「帰りにもう一度見に行こうか?」

 彼も同じことを考えていた。牛乳屋の前についたときは、まだ日が暮れる前で明るかった。暗くなればもしかしたら部屋の明かりがついているのを確認できるかもしれない。 彼は「そうだなあ」とだけ相槌を打っていた。

 5時をすぎるとすぐに夜がやってくるのではないだろうかというくらいに、都心の方は建物の灯りが瞬きはじめ、夕闇は天を覆っていく。山際の紅い陽の色もいっそう紅く暗くなっていく。 そろそろ帰路につこうと思い、子供に声をかけた。

 父は公衆トイレに足を運んでいるようだった。彼も子供をそこへ向かわせた。 トイレから出るとあたりは真っ暗だった。海風が冷たく、息子は 「寒いよ。怖いよ」とくり返し言う。

「そうだなあ、帰ろうか」 彼がそう言うと息子は喜んで足踏みをした。

 車に戻って父親と話した。

「牛乳屋の前、通るだけ通ろうか」

「そうだなあ」

 もはやどうでも良さそうにしている。 C海岸か、N湖町を抜ける。途中に牛乳屋があるが、やはり二階の灯りはついていなかった。

「携帯には連絡が来るから、生きてるだろう」

 父はそれだけ言ってあとは物静かになった。 彼の息子は、大人しく外の風景を眺めている。 帰りも同じ道を行くしかなかった。

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