第2話

 ――また宏だけ連れていくつもりなの?

 師走に差し掛かったころ、父親から来たメッセージを見て彼女が言った言葉だった。彼にはそのことがどうにも脳裏に残って仕方なかった。

 コンビニを出たのはもう3時前である。そこまで40分はかかる道のりだった。戻るにしても同じ時間はかかる。ただでさえ彼女は息子を連れていくことに反対であった。別段彼は息子をこのつまらない行事に誘って連れていくべきことかどうかはよくわかっていなかった。 ただ娘とさらに息子を置いて大人二人で出てしまうのは子の面倒を見るのも大変だろうと気にしていたために、そうしようと決めたまでのことで、無理やり彼が息子を連れて行こうとしたわけではなかった。

「このまま行ったら帰りは9時過ぎるな――、遅くなればこの子がかわいそうだ」 彼から話を切り出した。

「だからやめればいいだろう――」 父の返事にはあまり耳を貸してはいなかった。

 どちらかといえば、彼は彼女が息子を連れていくことに反対したことを気にかけていた。たまの親子水入らずと、その中に孫がいることは、彼にとっての親孝行であることが彼女にもわかっていた。

 ――そしてわかっていてそういうことを言う彼女である。彼は胸糞悪くなっていた。彼は小さいころからこの親が嫌いであった。そして母親も兄も――。彼は、彼女にもそのことを散々聞かせてきたつもりである。彼は家族という不可思議な関係の重荷を抱えて生きてきた。そしてそれがどれだけ厄介であったか――。兄に会いたいという父親の希望に対して、彼がそれを叶える必要はないようにも思える。けれども、この親以外に彼の肉親はもういない。そのために彼にはこれが必要な行事のひとつであるようにも思えてくる。

「けれど、今日以外にチャンスはないよ――。戻って携帯を取ってからまた行くしかない。明日は明日で私も忙しいから」

「だったら高速に乗ろう――」

「高速だと片道1600円くらいではないか? ――往復3200円くらいではないか?」

「それくらいでもいい――、それに今回高速を利用すればどのくらいで向こうにたどり着けるかわかるから、いい機会だ。無駄にはならない」

「それならいいけれど――」

 息子はいつの間にか寝入ってしまっていた。チャイルドシートの背もたれに頭を突っ込むようにして顔を上げて口をぽかんと開けているその姿は、親のほかには誰にも見せることのない息子の姿である。 家に一度戻ると、父親だけ携帯を取りに家の中へと入った。彼は息子の顔をもう一度見ながら、この事態の収拾をどう持っていくべきかと思った。

「二人とも寝ていたぞ――」

 父が車に戻るとそういった。二人とは彼女と娘のことだ。彼はそれならば好都合と思い、また兄のもとへと車を走らせるのであった。 兄がいるところには記憶にある。 父がいつも言う。

「牛乳屋の裏だ。そこがめじるしだ。わかるか?」

  しかし、この親が言うには牛乳屋はもうなくなっているし、そこを目印にしようとしてもこの車のナビが牛乳屋を表してそこを指すわけがない。父のいうその場所は牛乳屋といわれる場所はもうシャッターも締め切られていて店舗も何もないところだということと、その空き店舗の上を貸しアパートとして利用しているということだけである。彼はもうそこにいる兄を見てもいない。もしかすればその場所は父が言うだけで、ただの幻想なのかもしれない。本当はもう兄は死んでいて、そこには兄外の誰かが住んでいて、父は彼に何かしらの教訓として今もなおその存在を知らしめたいだけのようにも思える。もう5年以上も彼は兄に会っていない。それなのに彼がなぜ兄が生きていると思えるのかといえば、父がそう話すからで、それ以外に何もない。

 ――とすれば、もしかしてこれは父の記憶の中の嘘で、作り上げられた現実を彼がただうのみにしているだけのようにも思える。

 ――兄は誰だっただろうか、実のところそのことすらも彼にはもうわからなくなっている。 出がけに息子が彼にこう言った。

「誰に会いに行くの?――」

「宏、お前のおじさんに会いに行くぞ――」

「オジサン?」

「そうだ。お父さんの兄さんだ」

 彼はしかし心の中で言葉をざわつかせていた。兄はこの子にとっておじさんだろうか? 父は言っていた。

「あいつももうおしまいだな。――夏に居住場所の更新があって連絡を取ったんだ。お前のサインがいるからって――。そしたらメッセージの返事は〝こっちは体調がわりぃんだ‼ 勝手にすりゃあいいだろうが‼ だってさ。――しようがないからとにかく送った書類は返っては来たけど、字なんか震えちゃって、読むのもむつかしいくらいになってたよ――」

 彼はこの快晴の日の暮れていく夕陽を見ながら、自分が何者なのかを見失ったように思えた。

 年始のUターンが始まって、国道はせわしなく車の往来がある。渋滞とは言わないまでも、道は大部分車で埋め尽くされている。K県を縦にS湾まで走る国道はG号線までは信号待ちをほとんどせずに走ることができる。けれどA市を通り抜けるのは至難の業である。A町から高速に乗ればT海岸まではすぐに行ける。

「E市で混雑と出ているけれど、乗るだけ乗るぞ――」

「混んでいても大したことないんじゃないか?」

 それは確かに父親のいう通りであった。E市JCTではむしろ車が捌けて、K環状道はT海岸までほとんど車の影を見ることはなかった。 時間を見ると4時を回ったところであった。日はまだ町の陰の上にある。赤く燃えるような空に夕闇が襲い掛かってくる様を見ながら、彼は息子のことを憂いていた。そして鳥のさえずりような声でしゃべる息子がどうしようもなく可哀想に感じてくるのである。

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