第十九話  幸せな家庭



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 ある家庭に男女の双子が生まれた。両親は喜び、「幸せに暮らそう」と改めて誓い合った。


 そのため、父は仕事に邁進し、家庭を助けようとした。今は自分にしかできないことだからと。母は子育てに奔走した。初めてのことを二倍。余裕はなかった。けれど、可愛いし、がんばりたい。そんな思いだけだった。家事はお互いがやれるときにやった。


 父は思った。「自分がもっと頑張って稼げば、ベビーシッターや家事手伝いを雇って、妻の負担を減らせるのではないか」と。少しだけ、残業を増やした。給料が増えた。貯金とは別に貯めた。すべては妻のため。子のため。家族のため。


 母は思った。「自分はこの子たちをきちんと育てられているのだろうか。夫に相談すると「よくやってくれている」「きっといい子に育っている」と言う。夫は子どもと私を愛してくれている。この漠然とした不安は何だろうか」と。愛おしい存在である二人を見つめる。善も悪もわからない純粋無垢な二人を前に、昏い何かが渦巻いていた。実家は近くにはない。友人たちもそれぞれ子育てで忙しく、特に母は自分から動くことが苦手な人だった。ママ友と言われる存在も、出産してからは疎遠になってしまった。健診の際も当たり障りのないことしか言えない。相談相手は、父だけだった。


 父が帰ってくるのが遅くなった。帰ってきたら子は寝ている。夫婦で話すことが多くなった。不安の話をしつつも、解決するようなことはない。寄り添ってはくれる。けれど、それだけ。母の渦は消えず、より濃度を増す。甘いカフェラテが、濃厚なコーヒーに変わっていく。


 ある日。父は休みをとった。母に「一人でリフレッシュしてきたらどうか。それか、皆で出かけるか。どっちがいい?」と提案した。母は一人で出かけることを選んだ。父は笑顔で「行ってらっしゃい」と言い、子二人と家に残った。


 茹だる様な暑い日だった。母は行く当てもなく歩いた。歩いて、歩いて、歩いて。辿り着いたのは川辺。明るい場所では子供たちが元気に遊んでいる。親子で楽しんでいるところもある。橋の下の、日陰の階段に座って眺めていた。「自分たちもあんな風になれるのだろうか」と。ぽつりと呟いた。


 陰に影が重なった。


「こんにちは」

「っ、こ、んにちは」


 老齢な女性が母に話しかけた。ハンカチで額の汗を拭いながら、断りなく母の隣に腰掛ける。


「ごめんなさいね。呟いた言葉が聞こえちゃって。何かお悩み?」

「あ、いえ……。ちょっと子育てのことで」

「そう。そうなの。良ければ話してくださらない? 私も子供は育ててきたので、何か力になれるかもしれない」


 見ず知らずの人に話すのは気が引けた。けれど、だからこそ。「話してみよう」と考えたのかもしれない。多少でも自分のことを知らない人。次も会う可能性は低い人。けれど、経験はありそうな年上の同性。母は、父にしか話せなかった悩みを、見ず知らずの女性に話した。


 女性は適切に相槌を打つ。「そう」「大変よね」「そうよね」「頑張ってる」。言われる言葉は夫とほとんど同じだった。失敗したとは思わない。だが、話さなくてもよかったとは思った。何も変わらない。心の奥から吹き出しそうな黒い渦は、頭さえも浸食しようとしている。


「貴方はその悩みに侵されそうになっているのね」

「悩みに……?」

「ええ。結果が見えない不安が、貴方を押しつぶそうとしている。結果がわからないのは不安な事。それは何事にもそうよ。子育てなんて、それが代表のようなものよ。お子さんたちが取り巻く環境がどのようなものになるかなんて、その時にならないとわからないもの。正しい道に導いてあげるのが親の役目でもあるけれど、その道は親でも曖昧。「本当にこれで良かったのか」なんて、子にもよるし、時と場合にもよる。結果が出て初めて「正しかった」と言えるのよ」

「そう……そう、ですよね……」


 ならば。この不安と葉、ずっと付き合っていかなければならないのか。その時が来るまで、ずっと。ずっと。


 母は絶望した。もともと気が小さいほうだ。それなりに努力はしつつも、荷が重い。子は可愛い。可愛いだけじゃ。可愛がるだけじゃ、正しい育児はできない。この子たちを𠮟れるだろうか。正しく育てられるだろうか。自分に。自分なんかに。


「でもね」


 俯く母の隣で、空を見上げながら女性が続けた。


「結果がわかったら、一番じゃない?」

「え……」

「こうしたらこうなる。それがわかったら、悩む必要はないでしょう?」

「え、ええ……」

「一緒に来てくださらない? きっと・・・、貴方の力になれるはずよ」


 女性は立ち上がり、母に向かって手を差し伸べた。漠然とした不安に、断定的な言葉が使われた。たったそれだけ。確実な言葉とは、ガツンと響く辛み成分。ピリッとした刺激が、脳から体へ指令を出す。

 母は手を重ねた。腕を引かれ、立ち上がり、歩き出す。導かれ、確実な目的地に。


 それが、子の1歳の誕生日前日だった。

 その一年後。子が2歳になった時、母は生まれ変わった。

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